02 婚約破棄は始まりの合図ですわ
一周目、わたくしは王城大広間で婚約破棄されました。
白百合の君、ミレーユ嬢を害した悪女であると、満座の前で断じられたのです。
もちろん、害してなどおりません。
そもそも、わたくしほどの女が人ひとり害するのに、あのような粗雑な手を使うはずがございませんもの。失礼にもほどがあります。
……などと、今のわたくしなら言えます。
当時のわたくしは、ただ扇を折らないことで精一杯でした。
後日、公爵家が証拠を集めました。
ミレーユ嬢は、わたくしから呼び出しの書簡を受け取り、そこで害されたのだと訴えておりました。けれど、その証言には穴があり、側近たちの言葉にも食い違いがありました。
書簡の日付は事件当日の流れと合わず、封蝋の跡も公爵家で使うものとは違っていたのです。
きちんと調べれば、粗だらけでした。
結果だけ言えば、わたくしの濡れ衣は晴れました。
処罰はされず、家の面目も、どうにか保たれました。
公爵令嬢は断罪を覆し、白百合の君は涙し、王太子殿下は青ざめる。
拍手があってもよい場面です。
けれど、その勝利は長く続きませんでした。
わたくしの名誉は戻りました。公爵家も傷を負いながら、かろうじて立っておりました。けれど、肝心の殿下が、そのあと長くは生きなかったのです。
やがて殿下は王太子から王になりました。
即位の儀礼があり、謁見があり、祝宴がありました。わたくしも公爵家の娘として、新たな王のお姿を何度か拝見しております。
けれど、今でもいちばん思い出すのは、王冠を戴いた日の姿ではございません。
名誉を取り戻したあと、回廊の端ですれ違った、あの青ざめた顔です。
何か言うべきだったのかもしれません。
けれど一周目のわたくしは、勝ったつもりでおりましたから。
背筋を伸ばし、扇を上げ、何も言わずに通り過ぎました。
そのときのわたくしは、殿下が青ざめていた理由を、考えもしなかったのです。
そして、ほどなくしてユリウス様は亡くなりました。
王国を襲った混乱は、筆に尽くせるものではございません。
気が付いた時には、わたくしの命は一度終わり、七歳で再び目を覚ましておりました。
このままではいけないと思った二周目のわたくしは、断罪の夜会を欠席しました。
舞台に上がらなければ、婚約破棄も断罪も成立しない。そう考えたのです。
若かった。
いえ、実際に若かったのですけれど、精神的にもたいへん若かった。今なら当時のわたくしの肩を揺すって言いますわ。王太子の執念を、一般常識で測るな、と。
殿下は、わたくしが熱で伏せっている私室までいらっしゃいました。
花も持たずに。
見舞いでもなく。
婚約破棄をするために。
乙女の寝室へ踏み込んで「君との婚約を破棄する」と告げる王太子。礼法が熱を出して倒れますわ。
その後も、結末は変わりませんでした。
殿下は死に、国は壊れ、わたくしもまた死にました。
三周目、こちらから婚約解消を申し出ました。
王家の面子も、公爵家の体面も、殿下の繊細なお心も傷つけぬよう、時期を選び、言葉を選びました。敬称、結語、行間、封蝋の色まで整えましたわ。あれだけで、下級文官三人分の仕事はしております。
翌日、殿下から婚約破棄されました。
「君に先に言わせるわけにはいかなかった」
不要な矜持を、きれいに添えて。
その瞬間、わたくしは知りました。殿下は、わたくしの配慮を読んだのではありません。敗北宣言と勘違いしたのです。
もちろん、その後も駄目でした。
殿下は死にました。国も、わたくしも、道連れです。
四周目以降、わたくしはユリウス様との関係を、どうにか整えようといたしました。
優しくする。褒める。叱る。距離を取る。完璧に支える。
どれも、駄目でした。
ここまで試した事実だけは、なかったことにはできません。わたくしの忍耐の墓標ですから。
まったく、ユリウス様はどれほど扱いの難しい方なのですか。
優しくすれば逃げ、叱れば青ざめ、距離を取れば追い詰められ、支えようとすればまた別の場所で崩れる。こちらの努力を、毎回違う形で台無しになさるのです。
わたくしが婚約破棄を避けようとするたび、殿下はわたくしの前からどこかへ逃げ、そして死にました。
なぜか、殿下が逃げ出す最初の角には、いつもわたくしが立っているのです。
馬場では馬に振り落とされ、馬車では車輪が外れ、階段では足を滑らせ、窓辺ではなぜか身を乗り出し、池では深くもない場所で沈み、酒を過ごし、挙げ句の果てには書類の山の向こうで過労に倒れました。
書類に負ける王太子とは何ですの。
そのたびに王宮は乱れました。誰かが責任を押しつけられ、誰かが逃げ、誰かが死に、国は少しずつ傾いていきます。最後には、必ずその傾いた床の上に、わたくしも立たされるのです。
十一回目の婚約破棄を受けた夜。
わたくしは、机の前で赤のインクを握りしめておりました。
目の前にあるのは、救国失敗録。
最初は怒りで書き始めた紙です。けれど、十回分の失敗に、十一回目の婚約破棄まで積み上がると、紙に残ったものは、わたくしの怒りだけではありませんでした。罵倒の横には日付があり、涙の染みの下には時刻があり、破り損ねた端の近くには、婚約破棄から殿下の逃亡までの流れが、嫌になるほど繰り返し残っている。
そう書いたところで、赤インクの先が止まりました。
婚約破棄そのものが、国を壊しているのではありません。
あれは始まりの合図です。
婚約破棄のあと、殿下は必ず逃げる。
逃げた先で、必ず死ぬ。
そして殿下が死ぬと、王宮は責任の押しつけ合いを始めます。洪水で橋を流された地方への手当ては遅れ、熱病の村へ送る薬も止まり、諸侯は王都の混乱を見て兵も人手も出し渋る。王太子殿下の死ひとつで、国中の仕事が「今はそれどころではない」と止まってしまう。そうして国は、少しずつ壊れていく。
問題は、殿下がわたくしを捨てることではありません。
もちろん、それも王国史に残る判断ミスです。石碑に刻んで後世の王族教育へ使うべき愚行です。
けれど。
それ以上に問題なのは、殿下が死ぬことです。
「リーザ」
「はい」
夜明け前だというのに、侍女のリーザは寝乱れた様子ひとつ見せずに入ってまいりました。手には紅茶。盆の端には新しい便箋。さらに赤のインク。
……用意がよすぎますわね。
「あなた、わたくしの机と親しくなりすぎではなくて?」
「長い付き合いでございますので」
「わたくしより?」
「時折」
「お給金を見直しますわよ」
「恐れ入ります」
リーザは、涼しい顔で一礼しました。
まったく、よく気の回る侍女です。
「新しい表を作ります」
「次の婚約破棄対策表でございますか」
「いいえ」
わたくしは便箋を一枚引き寄せ、赤のインクで見出しを書きました。
死亡回避記録。
赤インクの瓶の横で、冷めかけた紅茶が揺れておりました。水面に映ったわたくしの目は黒く、若い顔には少々、年季が入りすぎております。
見たくないものほど、よく映るものですわね。
けれど、今はわたくしの顔色ではなく、殿下の行き先を検証する時間です。
リーザの手が、ほんの一瞬だけ止まりました。
「王太子殿下の」
「ええ」
「紙は厚手で?」
「当然です。国の一大事ですもの」
「赤のインクは」
「二本」
「かしこまりました」
動揺は一瞬。次にはもう、リーザは棚から厚手の紙を取り出しておりました。盆の上で紙を揃える音が、やけに頼もしく響きます。
わたくしは、これまでの記録を見下ろしました。
婚約破棄のあと、殿下は必ず逃げる。逃げた先で命を落とす。王宮は責任の押しつけ合いを始め、地方への手当てが遅れ、国難は広がる。そこで誰かがまた死ぬ。最後に、わたくしも死ぬ。
なんとも、出来の悪い筋書きですわ。
最初から最後まで、誰ひとりまともに仕事をしていないような流れです。
いえ、わたくしは毎回たいへん働いております。
問題は、その働きが殿下の死によって台無しにされることです。
「お嬢様」
「何かしら」
「殿下は……ご自分の命を、軽く見ておいでなのでしょうか」
わたくしは、すぐには答えませんでした。
赤インクの瓶を指で押さえます。倒したら、今夜の怒りが机に広がってしまう。まあ、それはそれで正しい光景かもしれませんけれど。
ーー死にたい。
その言葉は、ユリウス様には似合いません。
あの方は、死を選ぶほど勇敢ではありません。自分の終わりを正面から見て、そこへ歩いていくような方ではないのです。
ーー逃げたい。
ええ。それなら、殿下にぴったりです。
わたくしは、答えるかわりに紙へ向かいました。
死を望んでいるのではない。
生きて向き合いたくないだけ。
そう書いた瞬間、腹が立ちました。
筆圧が強すぎて、紙の繊維が少し毛羽立ちます。
十回分の結末が、その一文で嫌になるほどつながってしまったからです。
殿下は、逃げている。
そして逃げた先に、死が待ち構えている。
ならば、次に調べるべきは決まりました。
殿下が何から逃げているのか。
そして、王城のどこが、逃げた殿下を殺すのか。
わたくしは赤インクで、新しい欄を二つ引きました。
死因候補。
逃亡経路。
まったく。婚約破棄の次は、王太子殿下の逃げ道まで調べる羽目になるなんて。
王国は、わたくしに支払う手当の名目を、そろそろ真剣に考えるべきですわ。




