第七章 第五部:巡る季節と誓いの杯
白峰駐屯地は、建前上こそ“北領”の領土となったが、北の領主との交流を続けつつも、治外法権を得て独立した共同体として営みを重ねていた。
敷地内には少しずつ畑が広がり、川沿いには豊かな田が拓かれた。隊員たちは重機も耕運機も使わず、自らの足でシャベルを踏み、手にマメを作りながら鍬を振るって土に触れて、少しずつ、“この地で、この時代に生きる”という意識が、日常の延長線上に、静かに、そして深く根を下ろしていった。
あの日、世界が変貌した“転移”から、およそ一年と半年が過ぎ、二度目の秋が巡ってきた。そして、あの激戦で殉職した機長の一周忌を迎えた。
朝。
東の谷底から白い霧が斜面を這い上がり、駐屯地を深い乳白色の中に呑み込んでいく。
コンクリートの庁舎も、並んだ車両も、すべてが白に沈んでいくその光景を、一人のヘリコプターパイロットが窓辺から静かに眺めていた。
やがて、起床ラッパの鋭い音が静寂を切り裂き、一帯に鳴り響く。
その日、全員で北の山頂に向かった。
かつて皆で選び、皆で機長を埋葬した場所だ。
そこには、名も刻まれていない岩が一本、墓石として地に立っているだけだった。 だが、そこからの眺望は、誰もが一生忘れられないほどに美しかった。 周囲には燃えるような紅葉が広がり、眼下には駐屯地が見える。 整然と広がる畑、連なる建物。 反対側に視線を転じれば、遠くに小谷の村が見えた。細い煙が立ち上り、家々の間を皆で整備した道が縫っている。
冷たく澄んだ秋の朝の空気の中、墓石に酒がかけられた。 登山客の老人、安藤が丹精込めて仕込んだ“日本酒”だ。
「黙祷!」
外山の鋭い号令に、一同、一斉に目を閉じ、静かに首を垂れる。
風が木々を揺らす音だけが聞こえる。
乾いた落ち葉が、隊員たちの足元をカサリと転がっていった。
「直れ!」
黙祷が終わると、外山の目配せを受けて安藤が一歩前に出た。背筋を伸ばし、穏やかな声で語り始めた。
「最初は、正直に言えば、絶望していました。知らない時代、戻れない現代、先の見えない生活。ですが、気づけば一年半が過ぎました。北領からの支援があり、山と川の恵みがあり、皆さんと泥にまみれて拓いた畑ができました。本日ご用意したこの酒も、北領主から贈られた米で仕込んだものです」
安藤は一度、墓石へ視線を向けた。
「この酒は、あの戦の結果として手に入った米から生まれました。その戦で、私たちはかけがえのない機長さんを失いました。けれど、こうして新しく生まれる物もあります。私たちはここで生きてゆく道を見つけましたし、小谷の村も北の領地も、あの戦の前よりずっと豊かになっていると聞きます。人は、悲しみを乗り越え、何かを新しく生み出すことができる。これからは、あのような悲劇が二度と起こらないように。新しいものが生まれ、たくさんの幸せが積み重なっていくように。前を向いて、進んでいきましょう」
安藤は、なみなみと注がれた杯を高く掲げた。
「乾杯!」
「「「「「乾杯!!」」」」」
幾重にも重なった声が山頂に響き、杯が小気味よい音を立てて触れ合う。 墓前で、皆が酒を酌み交わした。
眼下に広がる駐屯地を見渡しながら、それぞれが胸の内で、失ったものと、それでも守り抜けたものを思い返す。 そして、これからここで積み重ねていく時間に、静かに思いを巡らせた。
畑は、これからも広がっていくだろう。 種は蒔かれ、芽吹き、実り、また次の季節へとつながっていく。 人もまた、そうしてこの時代で循環していくのだ。
現代であれば、知識や技術があっても法律という壁の向こう側にあった、安藤が夢にまで見た酒造り。この老人が、その長い生涯で初めて、自らの手で、この土地の恵みを醸した酒。 そして、ここに集う者たちにとっては、この転移先の過酷な時代に口にする、初めての酒だった。
安藤が、ぽつりと呟いた。
「悪くない人生だ」
その静かな言葉に、異を唱える者は一人もいなかった。
この場所で、この仲間たちと共に、この時代を生きていく。
その決意は、声に出されることなく、皆の中に静かに染み入るように共有されていった。




