第七章 第一部:別れ
冬を目の前に控えた涼しさと独特の物悲しさを纏う白峰の地。
駐屯地の食堂には、いつもの作戦説明会とは違う静けさが満ちていた。
テーブルが食堂の端に積み上げられてパイプ椅子が並べられ、前方には簡素な祭壇が設けられている。白布を張った台の上に、丁寧に整えられた遺体が横たえられていた。棺はなく、遺体の迷彩服の胸元には、“隊章”が正しく留められている。
攻撃ヘリ機長――緒方 尚哉。 北領が差し向けた軍勢の大将を打ち倒し、戦が終結したと思った矢先、卑劣にも敵軍勢に紛れていた隠密に切り付けられ、佐野たち衛生課の懸命の処置にもかかわらず、ついに命を繋ぎ止めることはできなかった。
食堂の照明は落とされ、窓から差し込む朝の光だけが、静かに遺体を照らしていた。
遺体の前には、小さな香炉が置かれている。煙はかすかに立ち上り、肉桂の甘く乾いた香りが空気に溶けていた。駐屯地の時代転移に巻き込まれた現地民の滝口と、登山客の老人、安藤が、山で採取した材料で作った即席の“抹香”だった。
進行を任された橋谷が促すと、外山が焼香台の前へ進む。 姿勢を正し、静かに腰を折る。抹香を指でつまみ、ゆっくりと香炉へ落とす。白煙が、わずかに揺れた。
「どうか、安らかに眠ってくれ」
再び、深く頭を下げる。
外山が下がると、次に車椅子が進み出た。緒方と共にヘリに乗っていた射撃手の隊員だ。 腕が、膝の上で、細かく震えている。付き添いの隊員に押されて、車椅子はゆっくりと焼香台の前へ進んだ。
男は何度も息を吸い込むが、言葉にならない。やがて、震える指で香をつまんだ。
「緒方さん……」
抹香をつまんだ手を香炉にかざす。煙が揺れる。
「緒方、さん……」
その言葉が崩れ、男は顔を歪めた。喉の奥から嗚咽が漏れ出す。香がこぼれ、香炉の縁に当たって散った。
付き添いの隊員が肩に手を置く。男は口に手を当て、必死に声を殺そうとするが、涙は止まらなかった。やがて、車椅子は静かに後方へ押されていく。
他の隊員や民間人も続く。誰も大きな声を出さない。ただ、重い靴音と、抹香をくべる微かな音だけが続いていく。
伊藤が進み出た。
遺体をまっすぐ見つめる。普段と変わらぬ背筋だったが、わずかに肩の線が硬い。
「ありがとう。心配するな、あとは任せてくれ」
短く言い、深く礼をする。
「もう、これ以上誰も死なせません。天国から、私たちを見守ってください」
「……最後まで、ありがとうございました」
佐野と橋谷も、それぞれの告別の言葉を添えて焼香した。
やがて――宮本の順番が回ってきた。
パイプ椅子から立ち上がり、俯きながら一歩、また一歩と前へ進む。
焼香台の前に立ち、視線を上げた。迷彩服を着た緒方の遺体が目に入る。死化粧を施したその顔は、任務の合間に少し休んでいるだけのようで、陽気な機長が悪戯心で、寝たふりをして皆の独白を聞いているように見えた。
宮本の喉が鳴る。香をつまむ指が、硬く震えていた。
「――すみません……」
声が、擦れる。
「自分が……小谷の村を、勝手に支援しなければ……こんなことには……」
視界が滲む。
「あなたが……あなたが死ぬ原因を……俺が作りました……」
肩が震える。
「――ご……めん……なさい……」
香をつまむ手の甲に、涙が落ちる。
「ごめんなさい……」
言葉が、続かない。見えない重圧に押されるように、膝が折れ、ついにその場に崩れ落ちた。押し殺していた嗚咽が、ついに溢れた。
その時――肩に、温かい手が置かれた。すぐ横に、安藤が立っていた。 穏やかな表情だった。
「私は、自衛隊の規律とかは分かりませんがね」
ゆっくりとした声が、静かなホールに落ちる。
「私もあなたの立場なら、そうしていましたよ」
宮本は、顔を上げる。
「あなたは優しいんだ。だから村人のことも放っておけなかったし……今、機長さんのために涙を流している」
安藤は少し微笑んだ。
「私は、あなたみたいな人情のある人が、好きだなぁ」
その横に、未来から来た日下部が歩み寄る。
「そもそもそれを言うなら、最初のきっかけを作ったのは私です。それは、本当に……申し訳なく思っています。。。」
静かに言葉を選びながら続けた。
「ただ、最初のきっかけこそどうあれ――いずれこの駐屯地は狙われていたはずです。その時は、機長は死ななかった可能性もあります。でも……ほかの誰かが…もっとたくさんの犠牲者が、出ていたかもしれない」
宮本の肩が震える。
「分岐点は宮本さんだったかもしれません。でも、その先の未来を決める要素は無数にあるんです」
日下部は、まっすぐ宮本を見た。
「あなた一人で抱え込むものじゃありませんよ」
宮本は後ろを振り返る。 視線の先には、ヘリのパイロットたちが立っていた。誰も言葉を発しない。ただ、静かに頷いている。その真ん中には、先ほど泣き崩れていた射撃手が。赤く腫らした瞳で、まっすぐ宮本を見つめて言った。
「私も、すぐには立ち直れそうにありません。でも、みんないます。みんなで支え合って、乗り越えていくんです。前を向いて生きていくんです。この時代で!」
窓の外から、風が葉を揺らす音が聞こえる。射撃手は窓の外の空を眺めながら続けた。
「それを――天国の緒方さんに見せてやりましょう」
宮本の胸の奥に、重く沈んでいた塊が、ほんのわずかにほどけた。 涙は止まらなかった。それでも、呼吸が少しだけ楽になった。赦された、とは、まだ思えない。けれど――胸の奥に灯った微かな温もりに、自分の居場所を認められたような気がした。
宮本は、震える手で香を落とした。
葬儀が終わると、遺体は演習場へ運ばれた。
木材と燃料で即席の火葬台が組まれる。物寂しい秋空の下、隊員たちが黙々と作業を進めた。
火が入る。
乾いた薪が爆ぜて火の粉が散る。立ち上る煙は火の粉と灰を巻き上げて、高く、高く、空へ登っていった。
火の番を残し、一同、食堂で昼食をとった。誰も言葉を発しなかった。
昼を過ぎると、火は静かに落ち着いた。
皆で骨を拾う。手袋越しに伝わる、わずかな温もりが消えかけている。誰もが、息を潜めていた。
埋葬の場所は、皆で話し合って決めた。 小谷の村と駐屯地の両方を見渡せる、北の山頂。 彼が守り抜いたこの地を、いつまでも眺められるように。彼が、駐屯地を見守ってくれるように。
色づいた木々の中を、皆で列をなして山を登る。風は冷たく、乾いていた。
山頂に着くと、隊員たちが交代で穴を掘る。土は固く、石が多かった。それでも誰も手を止めない。
やがて、十分な深さの穴が掘り上がる。骨壺が静かに下ろされた。
土が戻される。骨壺が土に埋まっていく。乾いた土が骨壺を叩く『コン』という虚ろな音は、やがて鈍い土音へと変わり、生と死の境界を塞いでいった。
最後に、近くにあった細長い岩を四人がかりで立てる。 この時代にいるはずのない人間だ。名は刻まない。
ただ、無垢の“墓石”だけがそこに立つ。
風が吹いて木々をざわめかせ、墓石の肌をなでる。
山頂からは、錦に彩られた山々が見渡せた。その先に、駐屯地がある。駐屯地本庁舎の窓が、秋の光を反射して輝いていた。
背後では、木々の隙間から小谷の村がのぞいている。煮炊きの煙が、ゆっくりと空へ昇っていた。
誰も動かない。ただ、墓石の前に立ち尽くす。
やがて外山が敬礼した。それに続き、全員が無言で敬礼を捧げる。
風が再び吹き抜け、色づいた葉が一枚、墓石の元に舞い落ちた。




