第六章 エピローグ:飢えた巨漢
駐屯地の威力偵察に現れた男。
足を撃たれて動けない組頭を運び出そうと、周りの兵に怒鳴り散らしていた男。
その男は、巨漢だった。
顔が鴨居に隠れるほどの上背、襖ほどもある肩幅、そして不格好に突き出た腹。 鈍そうな目つきに緩んだ口元、受け答えは常に遅く、言葉も拙い。誰の目から見ても頭の出来が良いとは言えなかったが、仕える組頭への忠義だけは篤かった。
――男の生まれは、酷く貧しかった。
貧しい村のなかでも底辺に位置する家で、食い物は常に足りなかった。ましてや、教養など身につける余裕などあるはずもなかった。
男は、異常なほど食べることに執着した。
腹が減るのが耐えられなかった。次の飯があるか分からず、食べられるときは食べられるだけ食べた。
でも、いくら食べても“何か”が満たされなかった。
男には兄弟がいた。男は、兄弟の分の飯まで奪った。時には飯の準備中に母親の目を盗み、家族全員分を一人で平らげた。そのたびに、父や兄たちから殴られ、蹴られた。言い訳をしようとすれば、さらに激しく打ち据えられた。そのうち、家族中から疎まれ、なにか無くなったり、悪いことが起きれば、すべて男のせいにされた。ついには身に覚えのない罪を着せられ、寄ってたかって痛めつけられた末、家を追い出された。
『二度とその面を見せるな。穀潰しめ』
そこには理由の説明も、慈悲もなかった。
男は乞食になった。 腹はますます減った。だが、“打たれ強さ”だけは目を見張るものがあった。 人の食い物を奪っては殴り飛ばされ蹴り飛ばされ、追い払われる日々。それでも男は、しぶとく生き延びた。
そんなある日、男の前にあの“組頭”が現れた。
組頭は、男を拾ってくれた。
殴らなかった。
そして何より、飯を食わせてくれた。
アワやヒエの混じった粗末な飯だけであったが、好きなだけ食べさせてくれた。 男にとって、それは生まれて初めての“満ちる”経験だった。
たまに組頭について行き、人を殴れと言われれば、迷わず殴った。殴られれば耐えた。時には斬られ、鮮血を流すこともあった。
それでも、組頭は褒めてくれた。“役に立つ”と言って喜んでくれた。そしてまた、好きなだけ飯を食わせてくれた。
だから、男にとって組頭は、これまで出会った誰よりも大切な存在になった。
――組頭にとって自分が、身を守る盾であり、粗末な飯を食べさせておけば疑いもせずなんでも言いなりになる、便利な手駒として扱われているとも知らずに。
その日も、言われるがままについて行った。 領主の命で、南の方にあるよくわからない屋敷を襲うのだという。 いつになく大勢の男たちが一緒だった。作戦の内容は聞いたが、男の頭ではどう動けばいいのかよくわからない。だが結局はいつも通り、頭について行き、邪魔者を倒し、頭を守ればいいと言われた。
謎の屋敷の前に着くと、組頭が叫びながら走り出した。
男もその巨体を揺らし、後に続いた。
突然、右腕に衝撃が走った。
何が起こったのか、理解できなかった。熱く、急に力が抜ける。だが、足はまだ動く。なら、問題ない。
次の瞬間、前を走っていた組頭が崩れるように倒れた。こちらも何が起こったのか分からなかった。ただ、組頭の脚から血が流れているのが見えた。矢のような何かだ、そう直感した。
頭が倒れた。どうすればいい。 “自分を守れ”と言われている。死なせてはならない。 でも、どうしたらいい。必死に考えても、男にはわからなかった。
とにかく、頭を安全な場所に運んで、それからどうすればいいか聞こう。両手で抱えれば、自分の体を“盾”にして逃げられる。だが、右腕を撃たれて力が入らない。 混乱した頭で近くの男たちに怒鳴り散らし、組頭を運ばせる 自分はその後ろに立ち、肉の壁となった。
だが、次は左足を撃たれた。 自らの巨体を支えることかなわず、地面に崩れ落ちる。それでも組頭を逃がすために何とかしようと藻掻くが、右手も左足も動かず立ち上がることもできない。どうにもならない悔しさに、子供のように大声で泣き叫んだ。
『頭目と、今撃たれた者を置いて立ち去れ! 次はない!!』
どこからか、訳の分からない大声が響き渡るなか、地面に伏した男が見たのは、組頭を放り出し、我先にと逃げ出す男たちの後ろ姿だった。
もう、これ以上どうしていいか分からなかった。
捕まった。
組頭も一緒だった。
男は一人、部屋で取り調べを受けた。男が答えなければ、組頭は殺されると言われた。組頭からは『誰にも何も言うな』と厳命されていた。でも、組頭がいなくなることは、男にとって何より受け入れられなかった。
男は、ぽつりぽつりと口を開き始めた。 それでも核心を話すのを渋っていると、隣の部屋から組頭の苦しむ声が響いてきた。答えないと、頭が殺される。どうしたらいい。狼狽する男の耳に、壁越しに組頭の声が届いた。
『もういい、全部話せ!』
だから、男は頭の声で言われるまま、知っているすべてをさらけ出した。
取り調べの後、車輪の付いた椅子に乗せられ、押し込められた何もない部屋で、男は組頭と再会した。自分が組頭の指示通りにしたから組頭は無事だったんだと喜んだ。
激怒された。
あれは間違いなく頭の声だった。なのに、頭はそんなことは言っていないと突き放した。
『この馬鹿が!』『阿呆!』『役立たずの穀潰しが!』『お前など拾うんじゃなかった!』
罵声を浴びせるその目は、かつて自分を追い出した両親や兄弟と、全く同じ色をしていた。
殴られ、蹴られ、無能だ、死んでしまえと呪詛を吐かれた。そこで騒ぎを聞きつけた屋敷の男たちに引き離され、頭は屋敷の男たちに引き連れられていった。去り際、頭には完全な“絶縁”を告げられた。
一番大切な人に、切り捨てられた。
一番大切だと思っていた人に、あの家族と同じ目で、同じ言葉を投げつけられた。
男は絶望の淵に立ち、もう何も考えられなくなった。それでも、腹は減った……
独房に移された男のもとに、晩飯が運ばれてきた。 白く光る米、焼きたての魚、青々としたおひたし、温かい味噌汁。 こんなに彩り豊かな飯は、生まれて初めてだった。 そして、驚くほどにうまかった。 膳が空になると、見張りの男が声をかけてきた。
「もっと食うか?」
頷けば、空になった器に何度でも飯と味噌汁が足された。
その後も、毎食がそうだった。
数日後、動けるようになった男は独房を出された。 戦は終わったのだという。 組頭たちはまだ収監されていて、近いうちに領地の牢へ移されるらしい。 男は秘密を漏らしたことで仲間から冷遇されていて、一緒に領地の牢に移せばすれば命が危ないこと。そして、男自身に悪意はないと判断されたことが、牢を出された理由だという。
独房を出た男は駐屯地で過ごし、隊員たちや、時に小谷の村人たちとも触れ合った。
そこでは、誰も殴らなかった。
誰も奪わなかった。
誰も罵らなかった。
誰も、あの目を向けてこなかった。
皆、優しく、温かかった。
男は、知った。
組頭が特別優しかったわけではない。他が、ひどかったのだと。
やがて男は村人と仲良くなり、子供達にも慕われ、その膂力を村の力仕事に役立てていくこととなった。
今、男の腹は満たされている。かつて、いくら食べても埋まらなかった“何か”も、いつの間にか満たされていた。
ずっと疎まれ、利用されるだけの“道具”だった男は、この地でようやく、一人の“人間”としての平穏を手に入れた。
そんな男が、やがて“愛”を知り、”恋”を知り、小谷の村で所帯を持つのは、また別の話。




