第四章 第二部:移ろう一線
衛生課の部屋にひとまとまりの時間が割かれたのは、夏の盛りを迎える少し前だった。
集合した衛生課員たちの前で、一人の老婦が机の上に品々を並べていく。丁寧に乾燥させた葉、細かく刻まれた根、そして油紙に包まれた粉末。安藤 善蔵の妻、はる。彼女は、かつて薬剤師だった。
「私は昔から民間薬を調べるのが趣味でしてねぇ。それが昂じて、大学では薬草や伝統療法の研究サークルに入っていましたし、卒業論文も漢方や伝承薬についての研究だったんですよ」
はるは穏やかな手つきで、並べた品を指し示した。
「この周辺で採集したものだけで作りました……まず、これ。止血と抗炎症の効果があります。こちらは解熱。ただし、煎じ方を間違えれば毒にもなり得ます。こっちは腹薬。分量さえ守れば、小さな子供にも使えますよ」
並んだのは、薬草だけではない。鹿の角、乾燥させた動物の胆嚢、乾燥したミミズやヒルなど、動物由来の生薬も並ぶ。
「保存の基本は、乾燥と遮光。調製は、砕く、煎じる。この時代にあるものだけでできます。特別な器具は必要ありません」
衛生課員たちは熱心にその言葉を聞き取り、詳細に記録を取り、次々と質問を重ねた。
有効成分。期待できる薬理効果と、副作用や危険性。
そして何より――その知識が、この土地に“本来存在しうるもの”であるかどうか。
数日にわたる厳密な検証が行われた。その結果、導き出された結論は以下の通りであった。
――この時代この地にあるものを、この時代にできる加工法で薬にしており、利用しても歴史的整合性が取れること。
――現代医薬ほどの即効性はないが、一定の効果は見込めること。
――疲労やケガの絶えない寒村の住民に対し、生存率向上が期待できること。
報告を受け、はるは衛生課の面々とともに外山司令のもとを訪れた。
「村の様子を、この目で見ました」
はるは、静かに、だが確かな意志を込めて告げた。
「疲労も怪我も絶えず、体調を崩しても働かなければ生きていけません。このままでは、冬を越せずに命を落とす者が出るでしょう」
外山は表情を変えず、ただ黙ってその言葉を受け止めていた。
「現代の薬は渡しません」
はるは、まず自ら“越えてはならない一線”を提示した。
「この土地で得られる生薬と、その正しい使い方だけを伝えます。知恵を共有するだけです。これなら、歴史改変のリスクは低いのではないでしょうか」
衛生課員も言葉を添える。
「提供する知識は、この地、この時代で確実に調達できる範囲に限定しています。加工・調整も、この時代にできる範囲に限っています。あくまで現地リソース範囲内での“助言”の共有に留めます」
長い沈黙が部屋を支配した。外山は視線を落とし、熟考の末、短く命じた。
「許可しよう。ただし、今述べた線を一歩たりとも超えるな。詳細な記録を残せ。生薬は自分たちで調達・調整させること。また、決して、こちらに依存させてはならない」
衛生課員たちの顔に、安堵の笑みがこぼれた。はるもまた、柔らかく微笑む。
「……ご理解いただき、ありがとうございます」
はるが深く腰を折り、外山は短く頷いた。
それは、組織としての正式な許可であった。
村への共有は、慎重に進められた。
基地を訪れた村人に、次回来る際は薬に詳しい者を同行させるよう言伝をした。翌日、足を引きずる男と、若い女が村人に連れられてやってきた。二人は村で、薬草を採取したり、調整して処方したりと薬師のような役目を担っているという。
はるが彼らの前に立ち、語りかける。
どの草を、どの季節に採るべきか。
いかにして乾燥させ、保存するか。
火を入れ、どう煎じるか。
使ってよい症状と、決して用いてはならない禁忌。
全ての話を聞くと、二人は何度も頭を下げた。
「ありがてぇ話だ……」
「忘れないよう、よく頭に刻み込んでおきます」
薬のサンプルを手渡すと、彼らは再び深く頭を下げ、大事そうに懐に抱えて帰っていった。
このやり取りは、誰の目にも“正当”なものに映った。
命令違反はない。
現代技術の流出もない。
歴史の流れを大きく乱す干渉にも当たらない。
だが――。
宮本は、その光景を遠くから見つめていた。
司令の薬の供与の許可。
衛生課の論理。
人の命を脅かさないもの。
すべて、筋は通っている。
(なら……)
彼の視線は、無意識のうちに衛生課の備品棚へと向かった。
清潔な包帯。
プラスチックの容器に入った消毒薬。
この時代には作れない医療器具。
それらはどれも、人を殺めるものではない。
失われゆく命をつなぎ止めるための道具だ。
“正当な共有”という前例は、完成した。
この時点では、まだ誰も決定的な線を越えてはいない。
だが、宮本の中では、その線の位置が揺らぎ始めていた。




