第三章 第五部:根を下ろす
弥吉が村へ戻ってから、さらに数日が過ぎた。
基地の中では、山に入る者や畑を整備する者の動きが、日課として定着し始めていた。 罠の点検、川の見回り、伐り出した木の整理。そして、並行して進められる開墾、畑地の拡張と土づくり。
農業の知識を持つ老夫の安藤は、連日畑に出向いては隊員たちを指揮していたが、ある日、外山のもとを訪れた。
「畑地は順調に拡張が進んでいます。そろそろ、他の作物も植えたい……備蓄野菜の再生栽培だけでは、どうしても心もとない」
安藤の言葉は率直なものだった。
「申し訳ありませんが、すべてが上手くいく保証はありません。この土地に合った作物ばかりではないし、現代の作物は農薬や潤沢な肥料を前提に開発された品種も多い。それに何より、種類が少なすぎる」
机の上に、走り書きの紙が置かれる。
そこには、綿密な畑の配置図、日照条件、水の引き方、そして今後の拡張予定と栽培計画が記されていた。
「着手するなら、早ければ早いほどいい。こちらから村に関与すべきでないという方針は理解していますが、これは我々の“生存”に直結する問題です」
外山が、閉じていた口を開く。
「……村か」
老夫は深く頷いた。
「この時代、この土地、この気候に適した作物が、必ずあるはずです」
外山の判断は慎重を極めた。 あの村に無理を強いることは憚られるし、過度な借りも作りたくない。何より、この時代の歴史の流れに干渉すべきではないという大原則がある。 しかし、これは一時的な凌ぎではなく、この地で“生き延びるための土台”を築く作業であった。
数日後、村人が再び基地を訪れた。顔ぶれは前回と同じだ。弥吉と年嵩の男、女、そしてあの子供。門前での挨拶は、もはや形式的な儀礼になりつつあった。
伊藤が、珍しく自分から切り出した。
「今日は、こちらから相談したい話がある」
その言葉に、弥吉は少しだけ目を見開いた。 場所を門のすぐ中の、屋根だけのテントに移し、長机を挟んで両者が向かい合う。同席した安藤が、努めて静かな口調で切り出した。
「畑を作っております。この場所に根を下ろすため、我々が生活を続けるために」
弥吉は、その意図を即座に汲み取ったようだった。
「……種、でございますか」
場に、一瞬の沈黙が落ちる。年嵩の女が、不安げに弥吉の横顔を伺った。弥吉は一度、深く息を吸ってから答えた。
「量は……多くは差し上げられませぬ」
「承知しております。出来れば、量よりも種類を分けていただきたい」
伊藤が、補足するように言葉を継ぐ。
「こちらも無理強いはしないし、相当なものを交換しよう」
布、塩、山の獲物。これまでと同じく、互いに足りないものを補い合う形だ。
「常態化させるつもりはない。今回、一度きりの相談だ」
その言葉に、弥吉は少しの間だけ考え込み、やがて重い口を開いた。
「……では、米と麦、それに粟。それから、菜の種とナスの種を。苗については、里芋と葱をお持ちしましょう。あぁ、あと、干し柿に種がありましたな」
老夫の目が、わずかに光った。
「十分です。ありがとうございます」
「交換に欲しいものは、それらを持ってくる時までに考えておいてくれ」
話はそれで終わるはずだった。 だが、一同が立ち上がると、一人座ったままの弥吉がぽつりと呟いた。
「……近ごろ、山の様子が、おかしゅうございます」
誰も、すぐには返せなかった。
「山道に火を焚いた跡がありました。人の足跡も……村の者のものではございませぬ」
弥吉は、感情を排して事実だけを並べるように続ける。
「姿は見ておりませぬ。ですが、あの時と……同じでございます」
宮本の背筋が、冷たい汗とともに硬くなった。
「あの時……?」
「弥吉が、こちら様にお世話になっていた頃のことです」
年嵩の男が、低い声で補足した。
「夜、山道の奥に灯りが出た。朝になれば、消えている。その数日後、この子がそちらに保護していただいた日、山道には灯火の跡と、血と……刀が散乱しておりました」
隣にいた子供が、興奮した様子で何かを言いたそうにしている。 伊藤は人差し指を口に当てて子供を制すと、厳しい眼差しを弥吉に向けた。
「……探りか。その時の連中が、また現れたということか」
(しかし、連中には圧倒的な戦力差を見せつけたはずだ。普通なら、もう近づこうとは思わないはずだが……)
弥吉は重く頷いた。
「弱い村は、見逃されませぬ。すぐに襲う気はなくとも……機会を窺っているのかもしれませぬ」
言葉は、そこで途切れた。
宮本が、抑えきれない焦燥に突き動かされて口を開く。
「だったら……!」
「宮本!」
伊藤が、腹に響く低い声で制した。
「でも!」
声が荒れるのを止められない。
「分かってるんでしょう!次は――」
「黙れ!!――――拙速な言動は控えろ、今この場で判断することはできない」
伊藤の声は、静かだが拒絶の色が濃かった。
年嵩の男が、不思議そうに首を傾げる。
「“次は”、とは何でございましょうか?やはり前回のあれは――」
「いや!!――何でもない。忘れてくれ。今は、種と苗の話だけだ」
それ以上、誰も深入りしようとはしなかった。
弥吉たちは深く頭を下げ、静かに帰っていった。子供だけが、何度も後ろを振り返る。 遠ざかる背中を門の前で見送りながら、宮本はその場から動けずにいた。 助けを求められたわけではない。 だが、村に危機が近づいていることだけは、はっきりと示されたのだ。
その夜、宮本は眠れなかった。 宿舎を抜け出し、基地の外れに立つ。 闇の向こうに、山の稜線が沈んでいる。
――知ってしまった。
それだけで、もう無関係ではいられないではないか。
その思いが、胸の奥底で、静かに、しかし力強く根を下ろし始めていた。




