第三章 第四部:交わり
弥吉が村へ戻ってから、数日が過ぎた。
基地の中は、表向きは平穏を取り戻したかに見えた。
警戒線の維持、周辺の巡察、そして繰り返される訓練のリズム。
だが、その内実……特に“食卓の情景”だけは、無視できない変化を見せ始めていた。
山菜はある。獣肉も、川魚も、自力で確保できている。少しずつだが、畑の野菜も手に入るようになってきた。山や畑に精通する民間人がいるという事実は、生存戦略において想像以上に大きな意味を持っていた。 食用植物の正確な識別と採集、簡易な罠、川の流れを読んだ漁、そして伐り出した木材の活用、野菜の栽培。 “生き延びるための最低限の糧”については、自給自足の目途が立ちつつあった。
それでも――
白米が尽きるのも時間の問題、塩は今や貴重品だ。隊員たちの衣類は擦り切れる一方で、補充の目途は全く立っていない。 “持たせる”ことと、それを“持続”させることは、根本的に意味が違う。
その厳しい現実を最初に突きつけてきたのは、他ならぬ村人たちだった。
彼らが訪れたのは、太陽が南中を超えた頃だった。 門の外には、汗まみれの見慣れた顔が四つ。その中には、先日帰したばかりの弥吉と、あの夜に保護した子供の姿もあった。 これまでの訪問とは明らかに違う点がひとつあった。荷が、多い。 背負い籠、布の包み、背負子に括られた俵。
守衛に呼ばれた伊藤は門の内側で足を止め、硬い声で確認した。
「今日は、どういった用件だ」
弥吉が、静かに一歩前へ出た。そして、これまでにないほど深く頭を下げた。
「礼を、持って参りました」
その言葉を聞き、伊藤の眉がわずかに動いた。
「礼は不要だと、以前伝えたはずだ」
即座にそう返す。 だが、今日の弥吉は引かなかった。
「承知しております。それでも、持って参りました」
重そうな籠や背負子が、乾いた地面に下ろされる。 俵の藁紐が解かれると、そこから眩しいほど白い粒が顔を出した。米だ。 さらに、古びた小さな壺。中身は貴重な塩。そして、数反の布地。織りは粗いが、丈夫さがうかがえる。その場に居合わせた隊員たちが、思わず息を呑む。
「受け取れない」
伊藤は、自分に言い聞かせるように短く断った。
弥吉は、ゆっくりと首を振った。
「そうおっしゃると思いました。では、交換をしませんか」
少しの間を置き、弥吉は一言ずつ、言葉を選ぶように続けた。
「山の恵みについては、そちら様の方がよほど多く持っておられる。ですが、米も塩も、衣を仕立てる布も……山の中だけでは、どうしても得られませぬ」
伊藤は、その言葉を黙って聞いている。
「互いに、足りぬものを持っている。ただ、それだけのことです」
短くない時を駐屯地で過ごしただけあって、弥吉の言葉は静かだったが、極めて的確に現状を射抜いていた。
「それでもご納得いただけないのでしたら、私たちはこの荷をここに置いていくだけです。誰かに与えるなり、捨てるなり……好きになさってください」
そこまで言われてしまえば、断る道理はなかった。
本舎に戻った伊藤に、外山は報告を受けた。
「受領は、最小限に留めろ」
外山の決断は速かった。感情を排した声だった。
「必ずすべての記録を残せ」
「極力、こちらの替えの利くものとの交換、という形を取れ」
「これを常態化させるな。依存は綻びを生む」
淡々とした、実務的な指示が飛ぶ。
「こちらから要求は一切するな。向こうからの申し出があり、かつ妥当と判断した場合のみ、これを受ける」
伊藤は深く頷いた。
「……宮本」
「はい」
「私情は挟むな」
宮本は一瞬だけ視線を落としたが、すぐに顔を上げて答えた。
「了解、しました」
(でも、あいつらだって生活が苦しいなかここまでしてくれてるんだ。俺たちには、あいつらのためにもっとできることがあるはずだ) 宮本の胸のうちは、穏やかではなかった。
その日の夕刻。 食堂のテーブルに並んだのは、弥吉たちが持ってきた白米と、塩の効いた焼き魚だった。 隊員たちは皆、黙って箸を動かしている。 宮本は、米の甘みを噛み締めるように口へ運びながら、ぽつりと呟いた。
「……分けてくれたんだ……自分たちの分を、削ってまで」
その問いに、誰も答えることはできなかった。
これは紛れもない厚意だ。 だが、厚意というものは――積み重なれば、いつしか情や責任という名の鎖になる。
日が傾く白峰の地、駐屯地の灯が、ひとつ、またひとつと闇の中に点っていく。




