第三章 第三部:一つの判断
弥吉が呼ばれたのは、朝の点検が終わった直後のことだった。
場所は、中隊本舎の脇にある小さな詰所だ。 室内には机と椅子が二つあるだけで、生活感の一切を削ぎ落としたような無機質な空間だった。 中隊長の伊藤は、手元の書類から視線を上げると、静かに告げた。
「確認する」
弥吉は背筋を伸ばし、姿勢を正した。
「村へ、帰りたいか?」
即答はできなかった。この基地は安全な場所だった。 野盗に怯えることもなく、腹を空かせることも、夜の闇や寒さに震えることもない。
(だが、ここには……)
「……はい」
絞り出すような弥吉の返答に、伊藤は小さく頷いた。
「条件がある」
弥吉が顔を上げる。
「ここで見たこと、聞いたこと。人の数、装備、建物や物の仕組み。それらすべてを口外しないこと」
「はい」
「村に戻ってもだ。理由も語るな。……守れるか」
「……分かりました」
伊藤は少し間を置いて、重みのある声で続けた。
「次に村の者が来た時、お前を帰す」
それ以上の説明はなかった。
村人たちが姿を現したのは、その日の昼前だった。 門の外に立っているのは、これまで何度も足を運んできた二人の男だ。 彼らは変わらぬ様子で、腰を低くしながら、こちらをうかがっていた。
伊藤が短く無線で命じた。
「弥吉を」
しばらくして、弥吉が姿を現した。 身に纏っているのは、あの夜に着ていた野良着だった。 しかし、血や泥の痕はない。丁寧に洗濯され、破れていた箇所は丁寧な針仕事で繕われていた。皺ひとつなく整えられたその姿は、以前よりもずっと清らかに見えた。
「……弥吉?」
妙に覚悟めいた弥吉の表情に、門の外にいる男たちが首をかしげる。弥吉はゆっくりと門の外に踏み出し、深く頭を下げた。
「今日……みんなと一緒に、村へ、帰るよ」
村人たちの表情が、驚愕と喜びに震えた。
「今日、なのか。本当にお前、帰れるのか」
弥吉は、はっきりと頷いた。 それ以上、言葉は要らなかった。
村人の一人が、声を詰まらせながら弥吉の肩を力強く叩く。
「……よかった。本当によかった……」
そのまま、力いっぱい抱きしめる。伊藤は、そのやり取りを一歩引いた位置から黙って見守っていた。介入は、ここまでだ。余計な言葉を挟むつもりもなかった。
やがて、感極まった沈黙を破るように、村人が弥吉を促した。
「さぁ、帰ろう。皆が待ってる」
その言葉を聞いた瞬間、弥吉の喉が一度、大きく詰まった。
彼はゆっくりと振り返った。
「……ありがとう、ございました」
深く腰を曲げて告げたその言葉が、伊藤に向けられたものか、背後に立つ隊員たちに向けられたものか、あるいはこの駐屯地そのものに向けられたものかは分からない。
弥吉が頭を上げて見ると、村人たちも深々と一礼を捧げていた。
そうして、三人はゆっくりと歩き出した。
少し歩いたところで、弥吉は再び立ち止まり、こちらを振り返った。 そして、もう一度だけ深く頭を下げた。 伊藤は無言で帽子を取り、静かに一礼を返した。傍らの宮本たち隊員は、帽子を振る者、敬礼で返す者、様々だ。そして弥吉はまた歩き出す。
弥吉の背中は、やがて山の霧の向こうへと、ゆっくりと溶け込んでいった。
正門が、静かに閉まる。 門が閉ざされた後も、しばらくの間、誰もその場を動こうとはしなかった。 駐屯地の中に、短い沈黙が落ちた。
宮本が、ようやく溜めていた息を吐く。
「……やっと、ですね」
それは確認でも疑問でもない。
胸に溜め込んでいた重たい何かが、少しだけ抜けたような声だった。
門の向こうをじっと眺めていた伊藤は、踵を返して歩き出し、独り言のように言った。
「一つの判断が終わった」
それだけだ。今後も、これまで以上の判断を迫られるだろう。
「これで、今後どうなるか……」
今回下した判断が、歴史の奔流の中で正しかったのかどうか。それは、今の彼らには知る由もなかった。
駐屯地は、再び日常のルーチンに従って動き始めた。
だが、隊員たちの胸の内には、確かな感触が残っていた。
この土地との関わりは、もう後戻りできないところまで進んでいる、という、温かく、どこか不安を搔き立てる感触だけが。




