第三章 第二部:会わせるという選択
最初に『会わせたらどうか』と言い出したのが誰だったのか、今となっては定かではない。
隊員たちの間に漂っていた、口に出せない小さな“後ろめたさ”のようなものが徐々に広がり、強まり、いつしか形を成して暗黙の合意へと変わっていた。
弥吉が駐屯地に運び込まれてから、暦は着実にめくられていた。 彼の傷はすでにほとんど癒え、今や日常の動作に支障はない。衛生課の佐野二尉からも、医学的な観点から『これ以上の入院加療は不要』との見立てが出ていた。
一方、村人たちは相変わらず、決まった刻限に正門前へ姿を見せていた。
彼らは無理に面会を求めることも、駐屯地側に詰め寄ることもなかった。ただ弥吉の名を出し、短い言葉を交わしては、山を下りていく。その慎重で、どこか悲痛なまでの節度は、かえって自衛官たちの胸に重く響いていた。
――もう、彼をここに留めておく大義名分は、薄れている。
誰もがそう感じ始めていた。
「……まずは一度、限定的な監視下で面会させる。それ以降の対応は、その時の様子を見て再考する」
中隊長の伊藤がそう切り出したのは、司令室ではなく、屋外の仮設指揮所で行われた小規模な打ち合わせの場だった。
「昨日、司令の許可も取ってある。」
――前日、伊藤は司令室を訪れていた。
「弥吉を外へ出すことはありません。また、村人を基地内に入れることも控えます。我々が完全な管理下に置けるエリアで、短時間、接触させる許可をいただけますでしょうか」
司令の外山はすぐには答えなかった。鋭い双眸が、遠くの山並みを見つめる。
「守るべき条件は、何ら変わらん」
低く、通る声だった。
「我々の素性については、依然として秘匿を徹底すること。弥吉本人にも、見たことを語らせるな」
「承知しております」
伊藤は短く、力強く答え、外山は深く頷いた。
――会わせる。だが、一線は越えさせない。
それが、彼らが引けるぎりぎりの譲歩だった。
面会の日。現れたのは、弥吉の親類だというあの壮年の男だった。 これまで何度も山を越え、言葉少なだが礼儀正しく、いつも何か覚悟を持った面持ちだった。
男が姿を見せると、立哨の隊員が無線で報告を入れる。
門の周りの隊員たちの雰囲気がいつもと何か違う。男はそれを敏感に感じ取ると、いつもよりゆっくりと門に近付く。
門の前につくと、奥から隊員に連れられた、見慣れた男の姿が見えた。
瞬間、男の鉄仮面のような表情が、音もなく崩れた。
「……弥吉、か。生きて、生きておったか」
「おかげさまで」
弥吉の格好は、村人が見れば異様に映ったはずだ。髪は短く整えられ、髭も剃り落とされている。身に纏っているのは、自衛隊から支給された簡素なシャツ。だが、その清潔さは、彼がこの施設でどれほど手厚く保護されていたかを無言で物語っていた。 弥吉は男の前で立ち止まると、深く、長く頭を下げた。
二人は多くを語らなかった。 時代がそうさせるのか、あるいは“監視”という空気を感じ取っていたのか、抱き合うことも、声を上げて泣くこともなかった。ただ、互いの瞳に映る無事を確認し、短い安否を交わし合う。
伊藤は、数メートル離れた位置からその光景を注視していた。
――感情は、抑えられている。
――約束を反故にするような気配はない。
情報科の橋谷もまた、少し離れた場所から彼らの所作を記録していた。 言葉の選択、沈黙の間、視線のわずかな揺らぎ。
――村人は、深入りしようとはしていない。
――こちらの装備や施設を、探るような素振りも見せない。
この駐屯地に干渉する、この駐屯地が時代に干渉する危うさは、感じられない。
この日の面会からそう判断し、面会はその後も継続されることになった。
訪れる者は、時には女であり、時には腰の曲がった老人だった。 だが、誰一人として、彼らが一線を越える問いを口にすることはなかった。
「彼らは、どこから来たのか」
「何者なのか」
「この建物の中には、何があるのか」
そうした疑問に、彼らは触れなかった。
宮本士長は、その光景をフェンス越しに眺め、内心で胸をなで下ろしていた。
「……ちゃんとしてますよね、あの人たち」
傍らにいた伊藤は、その言葉に答えなかった。 だが、否定もしなかった。
返さない理由が、一日ごとに、少しずつ消えていく。 弥吉自身も、この“境界線”の内側で変わっていった。 彼は基地内で見聞きしたことを、村人へ語ることはなかった。それどころか、時に何か聞かれても、毅然とした態度で沈黙を守った。
「……あなたたちは恩人だ。交わした約束は、命に代えても守る」
ある日そう告げた弥吉の瞳に、迷いはなかった。
伊藤は、その揺るぎない目を見て、初めて確信に近い思いを抱いた。
――弥吉を、いつまでもここに留めるのは、違うのではないか。彼の誠意を、信じていいのではないか。――村に、戻してやってもいいのではないか。
その決断は、自衛隊の運命を決定的に変えてしまう“干渉”になるかもしれない。 だが、一度縮まった距離は、もはや後戻りさせることはできなかった。
静かに、しかし確実に、流れはひとつの方向へ向かい始めていた。




