押し寄せる移住ウェーブ
魔の山脈の南側に位置する、周辺国の辺境都市。
その薄暗い路地裏や貧民街では、日々の重税と飢えに喘ぐ人々が、死んだような瞳で今日を生き延びるパンの屑を求めて彷徨っていた。
希望などどこにもない。
明日の命すら保証されていないその絶望の街に、突如として一陣の熱風が吹き荒れた。
「聞け!迷える兄弟姉妹たちよ!我らは奇跡を持ち帰ったぞ!」
広場の中央で、ボロボロだったはずの服を真新しく着替えた男、トマが木箱の上に飛び乗って声を張り上げた。
集まってきた群衆は、最初は胡散臭そうな目を向けていた。
怪しい詐欺師か、カルト宗教の勧誘だろうと誰もが冷笑を浮かべていたのである。
「何を馬鹿なことを言っているんだ、トマ」
「お前、数日前に家族を連れて山脈へ消えたはずじゃなかったのか」
群衆の中から投げかけられる嘲笑交じりの声。
しかし、トマはまったく怯むことなく、確信に満ちた強い眼差しで叫んだ。
「疑うのも無理はない!だが、これを見ろ!」
トマが指差した先から、一人の老人が軽やかなステップを踏みながら進み出てきた。
かつては重い足腰の痛みに苦しみ、杖なしでは一歩も歩けなかったはずの老人である。
老人は群衆の目の前で、信じられない跳躍を見せ、宙返りを決めて見事に着地した。
「ほっ、ほっ、ほっ!見よ、この若々しい足腰を!五十年痛んだ関節が、神々の霊薬によって一瞬で完治したのじゃ!」
どよめきが広場を駆け巡る。
「ば、馬鹿な!あの爺さん、先週まで道端で倒れて息も絶え絶えだったはずだぞ!」
「さらに、これを見るがいい!」
トマが手押し車の上から分厚い布を跳ね上げた。
そこに鎮座していたのは、大人の胴体ほどもある巨大なリンゴの切り身であった。
切り口からは溢れんばかりの蜜が滴り、広場全体に信じられないほど甘美で芳醇な香りが広がっていく。
「北西の最果て、神々の庭にて実りし奇跡の果実だ!飢えた者たちよ、一口味わってみるがいい!」
トマが手際よく切り分けた果肉を、半信半疑の群衆へと配り歩く。
飢えに耐えかねた一人の男が、震える手でその巨大な果肉を口へと放り込んだ。
その瞬間、男の目がカッと見開かれた。
「な、なんだこれはぁぁぁぁっ!甘い!旨い!果汁が全身の血管に染み渡っていくようだ!」
「美味い!涙が止まらない!こんな美味い果物、王侯貴族だって食べたことがないはずだ!」
「本当だ!食べた瞬間、長年の疲労が一瞬で消え去ったぞ!」
一口食べた者たちが次々と狂乱し、涙を流して大地に平伏した。
その様子を見ていた周囲の人々も、我先にと群がり、広場はあっという間に熱狂の坩堝と化した。
「山脈の向こう、誰も寄り付かぬ死地にて、七柱の神々が降臨された!」
トマが両手を天へと掲げ、神託を告げる預言者のように叫んだ。
「そこには白き神殿がそびえ、無限の食料が実り、どんな病も一瞬で癒える!そして神々は、我らすべてを歓迎すると仰られたのだ!さぁ!神々の楽園へ行こう」
信仰と希望の炎は、燎原の火の如く広がっていった。
難民、貧民街の住人、仕事を失った職人、さらには噂を聞きつけた冒険者や流れ者たちまでもが荷物をまとめ出した。
トマが意図した以上の規模で、巨大な人の波が山脈へと向けて動き始めたのである。
それから数日後の朝。
最北西の『無主の荒原』にそびえ立つウニ要塞のテラスにて。
シルヴァンは手元の住民台帳と会計帳簿を閉じ、深く息を吐き出した。
「ふう、静かな朝だ」
シルヴァンは眼鏡の位置を直し、清々しい表情で荒野の地平線を眺めた。
「トマたちが飛び出していってから数日。結局、誰もやって来なかったな。まあ当然だ。あんな荒唐無稽な話を真に受けて、死地と呼ばれる山脈を越えてくる物好きなどいるはずがない」
「えー、なんだよシルヴァン。つまんないこと言うなよ」
隣でメロンサイズのリンゴを丸かじりしていたレオが、不満そうに口を尖らせた。
「せっかく新しい友達ができると思ったのにな。もっと人が増えた方が絶対に楽しいじゃん!」
「お前は国家運営というものを何だと思っているんだ。人口が増えればそれだけ食料の配給計画、治安維持、住居の確保と、僕の仕事が無限に増えるんだぞ。誰も来ないならそれに越したことはない」
シルヴァンは満足そうに頷き、懐から取り出した胃薬の小瓶をポケットに戻そうとした。
しかし、その時であった。
ゴゴゴゴゴゴ……。
遠くの大地から、微かな地響きが伝わってきた。
「ん?なんだ、地震か?」
レオが首を傾げる。
シルヴァンは何気なく、テラスに備え付けられていた魔導望遠鏡を覗き込んだ。
山脈の麓、荒野の境界線を見渡す。
そこには、立ち上る凄まじい規模の土煙があった。
「…なんだ、あの巨大な砂嵐は?荒野特有の異常気象か?」
シルヴァンはピントを合わせ、土煙の中心部を拡大した。
そして、その瞳に映し出された光景に、シルヴァンの呼吸が完全に止まった。
土煙を巻き上げながら前進してくるのは、砂嵐などではなかった。
荷車を引き、赤ん坊を抱え、熱狂的な旗を掲げて行進してくる、見渡す限りの群衆。
五十人ではない。
百人でもない。
少なく見積もっても五百人、下手をすれば千人に迫るであろう、巨大な人あった。
行列の先頭では、トマが巨大な木の棒に白い布を結びつけ、全力疾走している。
シルヴァンの眼鏡がテラスの床に落ちた。
「ほ…本当に呼んできやがったぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっ!!!!」
シルヴァンの絶叫が、朝の静寂を木っ端微塵に打ち砕いた。
「おい見ろレオ!何だあの数は!百人規模どころか、辺境の都市が丸ごと一つ引っ越してきたような大群勢だぞ!あんなの受け入れたら我が国のインフラが一秒でパンクする!」
「うおおおおおおおおっ!すっげえええええええっ!」
レオは望遠鏡を奪い取り、地平線を埋め尽くす群衆を見て大歓声を上げた。
「本当にいっぱい友達を連れてきてくれたじゃん!最高だぜトマ!」
「最高なわけがあるかバカ者!早く受け入れ態勢を整えないと、大混乱で死人が出るぞ!」
パニックに陥るシルヴァンをよそに、大群衆はぐんぐんと荒野の外周部へと近づいていた。
「同胞たちよ、見よ!あれが神々のそびえ立つ聖なる宮殿だ!」
先頭を走るトマが、漆黒の刺に覆われたウニ要塞を指差して叫んだ。
「おおお!なんと荘厳で禍々しくも美しい宮殿か!」
「本当にあったんだ!神々の国が!」
押し寄せた数百人の人々が、感動に涙を流しながら荒野の境界線を踏み越えた。
その瞬間であった。
カチリ、カチリ、カチリ、カチリッ!
大地に埋め込まれていた数十個の信管が一斉に連動して沈み込んだ。
「よし、外周防衛ライン第十号まで全起動したな」
要塞の屋上で腕を組んでいたヴァルターが、静かに呟いた。
次の瞬間、大群衆の足元の大地が一斉に左右へと裂け開いた!
ヒュルルルルルルルルルルルッ!!
ドガガガガガガガガガガガアンッ!!
何百発もの特製高輝度花火が、白昼の大空へと一斉に乱れ撃ちされた!
視界を埋め尽くす七色の閃光と大爆発。
さらに、空間を震わせる特大の爆音ファンファーレが荒野中に鳴り響いた。
『パフパフパフ〜♪ドンドンパフパフ〜♪イェェェーイ!大量のお客様、大歓迎です〜♪』
「ひゃあああっ!なんだこの光は!?」
「神々の聖なる花火だ!我らの来訪を祝してくださっているのだ!」
混乱と熱狂が交錯する中、今度は地面が一斉にボフンボフンと音を立てて跳ね上がった。
地中から次々とポップアップしたのは、ヴァルターが大量増設した数百基に及ぶ『極楽コタツ』であった!
シュババババッ!
伸び出た無数のマジックハンドが、先頭集団の難民たちの襟首を次々とキャッチし、テーブルの下へと引きずり込んでいく!
ズボッ!ズボッ!ズボボボボッ!
「うわあっ!?吸い込まれる!」
「な、なんだこの温もりはぁぁぁぁっ!」
「あったかい…みかんが甘い…お茶が美味しい…」
長旅で冷え切り、疲弊していた数百人の人々が、次々とコタツの圧倒的な快楽に呑み込まれていった。
至る所で戦意と警戒心が綺麗さっぱり溶け去り、蕩けた笑顔で湯呑みをすする人々が量産されていく。
「これぞ神の洗礼だ!」
「足腰の冷えが一瞬で消えていく…!ありがたや、ありがたや!」
コタツに入れなかった後続の人々も、その異様な光景を見て恐怖するどころか、両手を合わせて涙を流し、神の慈悲に感謝を捧げ始めたのであった。
「おいおいヴァルター、相変わらず派手なお出迎えだな!」
要塞の大門が開き、レオを先頭にした七貴族が姿を現した。
レオは広場を埋め尽くす大群衆を見渡し、太陽のような笑顔で両手を広げた。
「ようこそ、俺たちの国へ!遠いところをよく来てくれたな!今日からお前たちは、全員俺たちの仲間だ!」
その力強い宣言に、群衆から地鳴りのような大歓声が沸き起こった。
『うおおおおおおおおおおっ!!』
『レオ様万歳!神聖なる七大神万歳!!』
「よーし、お前ら!腹が減ってるやつも、疲れてるやつも、住む家がないやつも全員まとめて面倒見てやるぜ!」
レオが振り返り、仲間に向かって叫んだ。
「ガゼル!今日中に全員分の家を建てろ!」
「ガハハハハ!男ガゼル、腕が鳴るぜ!千人分だろうが一晩で最高の街を作ってやる!」
ガゼルが巨大な建築魔導書を開き、荒野の岩盤に叩きつけた。
ゴゴゴゴゴゴッ!!
凄まじい地響きとともに、平原のあちこちから白大理石の巨大な柱と壁が隆起していく。
整然と並ぶ集合住宅、頑丈な石造りのテラス、前衛的な彫刻が施された広場が、まるで手品のように次々と組み上がっていく。
「す、すごい…!家が地面から生えてくるぞ!」
「神の御業だ!」
職人や大工の難民たちが、その超絶技巧を前に腰を抜かして拝み倒す。
「クロエ!全員分の飯だ!」
「は、はいっ!皆さんのために、いっぱいいっぱい育てます…!」
クロエが深呼吸をし、大地に杖を突き立てた。
緑色の神聖な魔力が津波となって荒野を駆け巡り、ガゼルが作った居住区の周囲を取り囲むように、果てしない大穀倉地帯が爆誕した。
ラグビーボール大の大麦が風に揺れ、カボチャ大のイチゴとメロン大のリンゴが鈴なりに実っていく。
「ユーリ!怪我人や病気のやつらを全員治してやれ!」
「ええ、任せなさい。まとめて一括で治療してあげるわ」
ユーリが特大の薬樽を開放し、風の魔法に乗せて広場全体に紫色の煙を散布した。
ゴホッ、ゲホッ!と全員が一瞬激しくむせ返り、あまりの激マズ風味に白目を剥いたが、次の瞬間には全員の傷が塞がり、長年の病が完全に消滅して跳ね起きた。
「傷が治った!目が見えるようになったぞ!」
「ユーリ様!救済の女神様万歳!」
「そしてフィオナ!歓迎の宴会だ!」
「任せなさい!全員で乾杯するわよー!」
フィオナがガゼルの作った大広場の中央で、特製エールの樽を豪快に開栓した。
黄金の飛沫が舞い、芳醇な香りが街中を満たす。
人々はジョッキを掲げて歓喜の声を上げ、極上の美酒と料理に酔いしれた。
そしてフィオナは、エールの香りを胸いっぱいに吸い込んだ瞬間、綺麗にソファへとダイブし、幸せそうな寝息を立て始めた。
「はやっ!フィオナ様がもうお休みになられたぞ!」
「神聖なるトランス状態に入られたのだ!早くお布団をおかけしろ!」
トマが叫び、信徒たちが一斉に神聖な布をフィオナに捧げ持つ。
混沌と狂気、そして圧倒的な歓喜に満ちた宴は、夜が明けるまで鳴り響き続けた。
翌朝。
かつて赤茶けた岩と砂利しかなかった死地は、わずか一晩にして、数百人が快適に暮らす美しき大集落へと変貌を遂げていた。
新しくできた大理石の通りには、元気に走り回る子供たちの笑い声が響き、広場では職人たちが嬉々として新しい家具を作り、農園では巨大な果実の収穫に歓声が上がっている。
人々は七貴族の像を広場に建てようと盛り上がり、街全体がこれ以上ないほどの希望と活気に満ちあふれていた。
そんな賑わう街を見下ろすウニ要塞の執務室。
シルヴァンの目の前には、天井に届かんばかりに積み上げられた膨大な書類の山がそびえ立っていた。
住民登録台帳、食料配給管理簿、区画割り当て表、資材調達試算書。
その全てを、シルヴァンは徹夜の神速の筆さばきで、すでに八割方処理し終えていた。
「…ふ、ふふ、ふふふふふ」
シルヴァンは血走った目で、乾いた笑い声を漏らした。
「一晩で人口が五百人増加…食料自給率は異常魔力により三千パーセントを記録…住宅供給率はガゼルの暴走により百二十パーセント…完全に経済学の概念が消滅している…」
シルヴァンはポケットから新しい胃薬の小瓶を取り出し、蓋を開けて一気に五粒ほど口の中に放り込み、ボリボリと噛み砕いた。
「僕の計算能力をもってしても、一人で管理できる限界を超えているぞ…!なぜ僕がこんな目に…!」
バタン!と執務室の扉が勢いよく開いた。
入ってきたのは、朝の光を浴びて清々しい笑顔を浮かべるレオであった。
「おうシルヴァン!見ろよ、外はめちゃくちゃ賑やかだぞ!俺たちの国、いよいよ本格的に始まってきたな!」
それを聞いたシルヴァンは書類の山をバンッと叩いた。
「いいかレオ!街としての形ができたのは認める!だが、これだけの人数を抱えるとなれば、もはやただの集落ごっこでは済まされない!治安維持のルール、税制、各部門の責任者、そして何より――この国の正式な体制を整えなければ、組織として瓦解するぞ!」
「おお!さすがシルヴァン、頼りになるな!」
レオはシルヴァンの怒声などどこ吹く風で、ニヤリと不敵に笑った。
「なるほど…体制か。いいねえ、それじゃあ次は、この街を世界一面白い『本当の国』にするための準備を始めるか!」
「本当の国…だと?」
レオの言葉に、シルヴァンは大きく溜め息をついた。




