隣国の偵察兵は戦慄した
『無主の荒原』から連なる険しい山脈の尾根に、漆黒のマントを身に纏った数人の影が潜んでいた。
彼らは、大陸の覇権を狙う軍事大国『バルガリア帝国』の誇る、帝国軍直属の隠密部隊『黒狼隊』の面々であった。
隊長を務めるのは、数々の過酷な極秘任務を生還してきた歴戦の斥候長、バドック。
鋭い眼光を持つ傷だらけの男であり、どんな残虐な戦場にあっても眉一つ動かさない、鉄の心臓を持つ男として恐れられていた。
「…隊長。本当にこの先を調査するのですか?」
隣で魔導望遠鏡を構えていた若き副官のライルが、小声で囁いた。
「この荒野は、草木も生えぬ完全なる死地。魔物すら寄り付かぬ不毛の岩盤に、一体何があるというのでしょう」
「油断するな、ライル」
バドックは低く、重々しい声で警告した。
「我が帝国の防衛観測所が、本日未明から白昼にかけて、この方角から複数回の凄まじい魔力反応と謎の爆光を観測したのだ。さらに、我が国の最高位魔導士たちが『大地そのものの脈動が強制的に書き換えられた』と青ざめておる」
「大地が書き換えられた…?まさか、禁断の古代兵器でも目覚めたと?」
「あるいは、隣国が極秘裏に進める戦略破壊魔術の実験場かもしれん。いずれにせよ、我らの任務はこの目でその脅威の正体を暴くことだ」
バドックは尾根の岩場に身を伏せ、自らの魔導望遠鏡を目に当てた。
死地と呼ばれる荒涼とした赤茶けた大地を見下ろす。
そこには、いつも通りの見渡す限りの砂利と岩が広がっている…はずであった。
「…なっ!?」
バドックの息が止まった。
鉄の心臓を持つ男の手が、ガタガタと震え出したのだ。
「隊長!?どうされたのですか!」
「お、おい…ライル…あれを見ろ…!私の目が狂っていなければ…あれは一体何だ…!?」
動揺を隠せないバドックから望遠鏡を奪い取ったライルもまた、レンズの先を覗き込んだ瞬間、絶句して腰を抜かしかけた。
「な……な、なんですか、あの禍々しい怪物は!?」
望遠鏡の視界の先に聳え立っていたのは、常識を完全に逸脱した巨大な構造物であった。
白く輝く大理石の宮殿。
一見すれば神話の神殿のような美しさを誇っているが、その外壁という外壁から、数千本に及ぶ凶悪な漆黒のスパイク刃がぎっしりと突き出ている。
さらに屋根の上では、巨大な回転刃がブンブンと風を切り裂いて唸りを上げ、壁の隙間からは怪しい黒い筒先が四方八方に睨みを利かせていた。
「…ば、馬鹿な!昨日の夕方まで、あの場所には何一つ存在しなかったのだぞ!?」
ライルが脂汗を流しながら叫ぶ。
「一夜にして、あのような超巨大な要塞宮殿を築き上げる技術など、我が帝国はおろか大陸中のどこにも存在しない!あれは…古の魔王城か!?漆黒の刺で全身を武装し、近寄る者すべてを八つ裂きにする気満々じゃないですか!」
「それだけではない…見ろ、要塞の周囲を!」
バドックが震える指で、要塞の南側に広がる平野を指差した。
そこには、不毛の死地であるはずの荒野を覆い尽くす、広大な緑地が広がっていた。
しかし、その緑地は決して美しい自然などではなかった。少なくとも、帝国兵の目にはそう映らなかった。
「な、なんだあの作物は…!?リンゴの木に実っている果実が、大人の胴体ほどもあります!」
「あっちを見ろ!地面からカボチャのような巨大さの、禍々しく赤いイチゴが蠢くように実っている…!小麦畑に至っては、大木のように太い穂が空を突き刺しているではないか…!」
ライルは恐怖のあまり歯をガタガタと鳴らした。
「生物変異…!禁忌の魔導薬物によって巨大化・暴走させられた『怪獣作物』だ…!食べた兵士の肉体を異常強化し、狂戦士へと変貌させるための魔導兵糧に違いない…!」
その時、望遠鏡の視界の端に、人影が映った。
金髪の若者が、メロンサイズの巨大リンゴを両手で鷲掴みにし、凶悪な笑顔を浮かべながらガブリと食らいついている。
その隣では、大柄な大男が巨大イチゴを丸呑みし、全身から湯気のような熱気を噴き出させていた。
「ひぃっ…!な、なんて奴らだ!常人ならば体が内側から破裂するほどの魔力を秘めた怪獣作物を、おやつのように平然と貪り喰らっている!」
「奴らだ…あいつらが、この悪魔の拠点を築いた主たちに違いない!」
バドックはゴクリと唾を飲み込んだ。
「これほどの規模の軍事拠点を極秘裏に建造し、驚異的な魔導兵糧を量産しているとなれば、狙いは一つしかない」
「な…なんですか?」
「大陸全土の武力制圧…そして、世界征服だ!!」
バドックの断言に、部隊全員の背筋が凍りついた。
「彼らはこの死地を前線基地とし、誰にも気づかれぬうちに世界を滅ぼすための極悪軍備を整えていたのだ!なんという恐るべき陰謀…直ちにこの拠点の防衛網を突破し、詳細な軍事機密を持ち帰らねば、我が帝国に明日はないぞ!」
「は、ハッ!命に代えましても!」
世界を救うための決死の潜入任務。
超精鋭『黒狼隊』の隊員たちは、悲壮な覚悟を胸に、静かに岩場を滑り降りていった。
荒野の外周部。
クロエの農園の境界線付近に、バドック率いる潜入班が音もなく忍び寄っていた。
「全員、気配を完全に断て。敵に見つかるな」
バドックが手信号で指示を出す。
帝国最高の隠密術を極めた彼らは、風の音すら立てずに砂利の上を滑るように進んでいた。
「…ふっ、外周に兵士の姿は一人も見当たらん。どれほど強大な要塞を誇ろうと、索敵の甘さは素人並みよ」
ライルが少し胸を撫で下ろした、その瞬間であった。
カチリ。
静まり返った荒野に、小さな金属音が響いた。
「…ん?」
先頭を歩いていた隊員が、足元を見下ろす。
そこには、平らな黒い岩盤がわずかに沈み込んでいた。
「し、しまった!踏み込み式の罠か!?」
隊員が叫ぶよりも早く、大地がカッと割れた!
地中からニョキニョキと生え出た三本の巨大な筒が、侵入者たちの顔面へと向けられる!
「伏せろーーーっ!!」
バドックが叫んだ瞬間。
ヒュルルルルルルルルッ……!!
ズドガガガガアンッ!!!
超至近距離から、数百発の閃光弾(ヴァルター特製・昼間用超高輝度花火)が一斉に乱れ撃ちされた!
「ぐあああああっ!?め、目がぁぁぁぁっ!!」
「視界が真っ白だ!太陽が破裂したのか!?」
強烈すぎる光の奔流に、夜目が利くように調整されていた精鋭部隊の視界が完全に焼き切られる!
さらに、空間全体を揺るがすように、陽気極まりない爆音が荒野に轟き渡った。
『パフパフパフ〜いらっしゃいませ〜♪』
「な、なんだこの狂気の幻聴は?脳が…脳が直接揺さぶられる!?」
鼓膜を破壊せんばかりのファンファーレと謎の歓声に、歴戦の兵士たちが頭を抱えて地面を転がり回る。
「くっ…これが敵の第一種迎撃結界か?視覚と聴覚を同時に粉砕し、侵入者の精神を極限まで追い詰める音響閃光兵器!」
バドックは血涙を流しながら、必死に剣を抜いた。
「怯むな!敵の術中にハマるな!散開して前進を…」
「た、隊長ぉぉぉっ!?」
背後で、ライルの悲鳴が上がった。
バドックが涙で霞む目を凝らして振り返ると、ライルの足元がパカッと開き、地中から煙を上げる木製の四角い箱が出現していた。
「な、なんだあれは…棺桶か!?」
「違います!なにか…毛布のようなものが…ひぎゃあっ!?」
箱の四隅から勢いよく射出されたマジックハンドが、ライルの両手足を正確無比に掴み取った!
ズボッ!!
一瞬にして、ライルは箱の下へと強引に引きずり込まれ、首から下を完全に拘束されてしまった。
「ライル!!貴様、新兵器に呑まれたのか!?」
バドックが慌てて駆け寄る。
そこにあったのは、美しく磨かれた木製の天板と、分厚く柔らかな掛け布団。
そして、天板の上には湯気を立てるお茶と、ツヤツヤと輝く巨大なミカンが三つ並んでいた。
「だ、大丈夫かライル!今すぐその悪魔の拘束具を切り刻んでやる!」
「ま、待ってください隊長……」
「…何?」
バドックが剣を振り上げた手を止めた。
見ると、ライルの顔から先ほどまでの恐怖と緊張が完全に消え去っていた。
その瞳はトロンと蕩け、頬はほんのりと桜色に染まり、口元からはだらしない笑みが溢れ出していたのだ。
「あ、あったかいです、隊長…」
「は?」
「下半身が…まるで母の胎内に戻ったかのように…ポカポカして…信じられないほど気持ちいいです!」
「何を言っているんだライル!正気を保て!」
「見てください、このミカン…皮を剥いたら果汁がジュワッと溢れて食べたら甘くて美味しくて…お茶も最高に香ばしくて…」
ライルは湯呑みを両手で持ち、ズズズ…と優雅にお茶を啜った。
「隊長。私、もう帝国のために戦うの…疲れました」
「馬鹿者ーーーーっ!!」
バドックは絶叫した。
「精神汚染兵器だ!侵入者の闘争心を完全に去勢し、極楽の快楽で廃人に変える最凶最悪の洗脳装置だ!!屈するなライル!帝国に待つ家族を思い出せ!!」
「家族も…このコタツに呼んであげたいです…ふふ…ふふふ」
「ライルーーーーーッ!!」
バドックは必死にライルの襟首を掴んで引っ張り出そうとしたが、コタツの魔力的な快適さはライルの全身を吸着し、指一本動かそうとしない。
それどころか、引っ張るバドックの手にも、コタツから漏れ出る温風がフワリと触れた。
(!?な、なんだこの温もりは?私が三十年の軍隊生活で一度も味わったことのない、圧倒的な癒やし!?いかん、私の足が…自らコタツの中に入りたがっている!?)
「くっ…おのれ、悪魔どもめ!なんという卑劣な罠を仕掛けてきやがる…」
バドックは自らの太ももに短剣を突き刺し、激痛によって辛うじて精神汚染を振り払った。
そして、すでに完全に脱力して眠りかけているライルを、火事場の馬鹿力でコタツから引っこ抜いた!
スポンッ!!
「ひゃああっ!寒いです隊長!コタツに戻してくださいぃぃっ!」
「黙れ!退却だ!全員、撤退せよーーーーっ!!」
ドタバタと音を立てて、泣き叫ぶライルを担ぎながら全力疾走で山脈へと逃げ帰っていく黒狼隊。
一方その頃。
ウニ要塞のテラスでは、レオとフィオナが心地よい風に吹かれながら、遠くの荒野を眺めていた。
「ん?なあフィオナ、さっきから外周のほうでやたらと花火が上がってないか?」
「あ、本当ね。ヴァルターの仕掛けた花火トラップかしら?荒野の野ウサギでも踏んじゃったのかしらね」
「ハハハ!賑やかでいいじゃん!今夜の宴会の前祝いだな!」
レオは満面の笑みで、逃げていく影に向かって大きく手を振った。
「おーい!花火楽しんでけよーーっ!」
その声と笑顔が、遠くから振り返ったバドックの目には、「逃げ惑う我らを嘲笑い、圧倒的強者の余裕を見せつける悪魔」として焼き付いたのであった。
「見逃してくれたとでもいうのか!?恐ろしい男だ!」
バドックたちは恐怖に背中を押され、命からがら荒野を脱出した。
その日の夕刻。
バルガリア帝国・北部方面軍の前線総司令部。
巨大な円卓を囲む帝国軍の将軍や高級官僚たちの前に、泥まみれになり、顔面を蒼白にしたバドックが立っていた。
彼の提出した羊皮紙の報告書を読んだ総司令官の顔が、見る見るうちに絶望の色に染まっていく。
「…バドック斥候長。これは…事実なのか?」
「はっ!我が黒狼隊の命に代えて、すべて真実にございます!」
バドックは拳を握りしめ、震える声で報告を続けた。
「かの不毛の死地に、一夜にして出現した『絶対無敵の要塞宮殿』!さらに大地を侵食し、兵士を狂戦士化させるであろう『巨大作物群』!そして…触れた者の戦意を瞬時に奪い、廃人へと変える悪魔の精神破壊兵器!」
司令部内に、息を呑む音が響き渡る。
「あの地で恐るべき世界征服の軍備を整え、我ら帝国を含む全大陸を焦土に変える気です!」
「なんということだ……」
将軍の一人が頭を抱えて呻いた。
「あのような死地に、そんな怪物が潜んでいたとは!一夜で城を建て、大地を書き換えるほどの魔導力…我が帝国の全軍をもってしても、正面から戦えばどれほどの被害が出るか計り知れんぞ!」
「直ちに皇帝陛下へ超特級の緊急上奏文を送れ!」
総司令官が立ち上がり、机を叩いた。
「最北西の荒野に、世界を滅ぼしかねない『謎の新勢力』が誕生したと!決して刺激するな!決して敵対的な行動を取るな!奴らが本格的に侵略を開始する前に、あらゆる外交ルートと防衛体制を再構築せねばならん!!」
『ハッ!!』
帝国軍の上層部が、かつてないパニックと恐怖に包まれる中――。
同じ頃、『無主の荒原』のウニ要塞では。
「さあ!最高の宴会のために、いよいよエール造りのスタートよーーっ!」
「おーーっ!」
フィオナの高らかな掛け声のもと、クロエとユーリが笑顔で腕まくりをしていた。
世界を揺るがす重大な勘違いと国際的パニックが巻き起こっていることなど、七人の変人たちはこれっぽっちも知らない。




