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第33話 滑る馬車


その運動は、部屋の外からやって来た。


オルロフの幾何図と、俺たちの太字の定義を机に並べたまま、アカデミーの会議室では議論が続いていた。暖炉の熱で羊皮紙がわずかに反り、古い図面の接線は、カタリナの指摘通り、一本だけ不自然に浮いている。右目で見ると、その細線はまだ雪明かりに溶けた髪の毛のようだった。俺は左目で図を追い、右側の白い滲みを意識から追い出そうとしていた。


「位置、時間、変化。そこまでは認めましょう」


オルロフは、定規で机を軽く叩いた。


「しかし、あなたの言う速度は、図に描けるのですか。描けないものを学問の中心へ置くのは危険です」


エリザが即座に返す。


「順序が逆です。描けないのではなく、定義してから描くのです。定義なしに図は描けない。描けると思えるのは、定義したことを忘れているだけです」


「女史、あなたは言葉で図を支配しようとする」


「いいえ。曖昧さを排除しているだけです」


「排除しすぎると、現実まで落ちる」


「曖昧な現実をそのまま論証へ入れれば、論証が腐ります」


相変わらず、エリザの言葉は冷たく鋭く容赦ない。オルロフも負けていない。古い学者の声には、長年図を信じてきた者の重みがある。どちらも完全には間違っていないから、厄介だった。


アレクセイは窓際で退屈そうに腕を組んでいた。


「描けるかどうかで揉めるより、外に出て動いてるものを見ればいいだろ」


オルロフが眉をひそめる。


「実務屋はすぐ外へ逃げる」


「机の上だけで滑る馬車を止められるなら、俺も机を拝む」


カタリナが、窓の方を見た。


「馬車の音が近いです」


その言葉とほぼ同時に、外から金属が凍った石を噛む音が響いた。馬の嘶き。車輪が雪を削る鋭い音。御者の怒鳴り声。続いて、重い車体が横へ流れる、ぞっとするような軋み。


俺たちは、一斉に窓へ向かった。


アカデミー前の石畳は、薄い氷に覆われていた。雪が踏み固められ、その下で透明な膜になっている。黒い馬車が角を曲がったところで横滑りし、後輪が大きく流れた。馬は前へ進もうとしているのに、車体は斜めに逃げる。御者が手綱を引く。通行人が悲鳴を上げる。濡れた馬の匂いと、凍った泥の匂いが、開いた窓から吹き込んできた。


「止めろ!」


誰かが叫んだ。


馬車は、アカデミーの石柱へ向かって滑っていた。


俺は反射的に外へ走ろうとしたが、カタリナに袖を掴まれた。


「階段で転びます。待ってください」


「でも」


「もう止まります」


彼女の目は動いている馬車ではなく、車輪の跡を見ていた。石畳に刻まれた黒い線。滑った軌跡。雪の削れ方。車体が流れた角度。


馬車は石柱の手前で、荷箱の角を雪溜まりへ突っ込ませ、鈍い音を立てて止まった。大きな事故にはならなかった。だが、御者の怒鳴り声と、馬の荒い鼻息が広場に残った。


アレクセイが窓を押し開け、冷気の中へ身を乗り出した。


「怪我人は?」


下の者が答える。


「なし! 荷が少し崩れただけです!」


「なら、ちょうどいい」


「何がちょうどいいのです?」


オルロフが不快そうに言う。


アレクセイは振り返りもせずに答えた。


「動きの教材だよ、先生」


俺は、窓の外の車輪跡を見た。右目では白くぼやける。左目なら、雪を削った弧が見えた。馬車は曲がり角に入る前、まっすぐ進んでいた。曲がった瞬間、車体だけが外へ流れた。石柱へ向かったのは、現在位置のせいだけではない。持っていた速度のせいだ。


「降りましょう」


俺が言うと、カタリナが外套を取った。


「レオンハルト様、足元が凍っています。杖をお持ちください」


「そこまででは」


「お持ちください」


柔らかい敬語なのに、命令だった。従う方が正しそうだ。


石段を降りると、冷たい空気が肺を刺した。馬の体からは白い湯気が立ち、鼻息が荒い。御者は青ざめた顔で車輪を確かめていた。崩れた荷箱から、干し魚の強い匂いが広がっている。氷の上には、車輪の跡が黒く残っていた。


オルロフは地面を見下ろし、すぐに道の図を描こうとした。彼は携帯していた小さな板に、石畳の角と馬車の位置を素早く描く。


「ここで曲がり、ここで滑った。道幅、車輪幅、馬車の位置。図示すれば十分です」


「十分ではありません」


俺は言った。


彼の目が鋭くなる。


「なぜ」


「この図は、止まった後の姿です。危険だったのは、止まる前です」


俺は車輪跡を指した。雪に削られた線は、石柱へ向かって弧を描いている。カタリナがすぐに紙を出し、地面の跡を写し始めた。彼女は寒さで赤くなった指先を気にもせず、車輪の幅、滑り出した位置、止まった位置を丁寧に記録する。


「位置はここです」


俺は、馬車が曲がり角に入った場所を指した。


「次の位置はここ」


少し先。


「そして、止まったのはここ」


雪溜まり。


アレクセイがすぐに言った。


「時刻が必要だ。どれだけの間に、どれだけ動いたか」


「はい」


「御者、曲がり角から止まるまで何呼吸だった?」


御者は戸惑った。


「呼吸?」


「なら、手綱を引いてからぶつかるまで。何拍だ」


「三つ、いや四つ」


アレクセイは舌打ちする。


「曖昧だな」


「事故の最中に数えられるか!」


「だろうな。だから次は測る」


エリザが、道の横に立ったまま言う。


「現場観察では誤差が大きい。ですが、概念導入には十分です」


「概念導入?」


オルロフが冷たく聞く。


エリザは淡々と答える。


「位置は一つでは足りない。時刻を添えた複数の位置が必要だと確認できました。そこから速度を定義できます」


俺は頷いた。


「馬車が危険だったのは、石柱の近くにいたからではありません。石柱へ向かう速さを持っていたからです」


御者が、困ったように馬車と石柱を見た。


「つまり、俺がそこに向かわせたと?」


「責めているのではありません」


俺は言った。


「馬車は、今いる場所だけで危険になるんじゃない。次にどこへ行くかで危険になる」


カタリナが、その言葉を書いた。


太い字で。


右目でも読めるように。


オルロフは、車輪跡をじっと見ていた。幾何派の学者は、現実の泥と雪の前で、少し黙った。


「あなたは、道の図ではなく、時刻ごとの位置を見ろと言うのですね」


「はい」


「では、速度は」


「位置の変わり方です」


「加速度は」


その問いは、鋭かった。


俺は馬の蹄跡を見る。最初は深い。滑り始めたところで乱れ、止まる直前で雪が大きく削れている。速さが変わっている。方向も変わっている。


「速度の変わり方です」


エリザが即座に反応した。


「速度の変化。時間に対する変化。定義候補として記録します」


カタリナが別紙に書く。


位置。


速度。


加速度。


三つの文字が、雪明かりの中で黒く沈んだ。


アレクセイが車輪を蹴った。


「現実には、氷、車輪、荷の重さ、馬の引き方がある。きれいな式だけじゃ止まらないぞ」


「だから必要なんです」


俺は答えた。


「何が」


「複雑なものを複雑なままにしない。単純なものに分ける。式で追う部分と、誤差として戻す部分を分ける」


「ややこしい」


「現実はややこしいんです」


「ようやく実務屋の言葉を覚えたか」


アレクセイの口元が少しだけ上がった。


オルロフはまだ納得していなかった。


「しかし、運動の理解に図は不可欠だ」


「もちろん」


俺は彼を見る。


「図は必要です。今日の車輪跡も、カタリナの写しがなければ残りません」


カタリナが、少しだけ驚いたようにこちらを見る。


「ですが」


俺は続けた。


「図は、雪に残った跡です。運動そのものではありません」


オルロフの顔が変わった。


「跡」


「はい。動きが終わった後の痕です。私たちが知りたいのは、跡だけではなく、どう動いたか、そしてこの先どう動くかです」


寒い広場に、短い沈黙が落ちた。


遠くで鐘が鳴る。


馬が鼻を鳴らす。


干し魚の匂いが、まだ強い。


カタリナが、車輪跡の写しに小さな点を打った。


「時刻ごとの位置として、点を置きます」


彼女は、滑り始め、途中、止まる手前、停止位置を点で示した。


「この点と点の間が、短い時間で長く離れていれば速い、ということでよろしいですか」


「はい」


「点の間隔が変われば、速度が変化しています」


「そうです」


「では、ここで急に間隔が詰まっています。止まりかけたのですね」


カタリナの言葉は柔らかいが、具体的だった。雪溜まりの手前、車輪跡は深く、短く刻まれている。


「そうです」


俺は頷いた。


「そこに、加速度の手がかりがあります」


オルロフが低く言った。


「あなたは、雪の跡から、見えない速度を読む」


「はい」


「そして、その変化を式にする」


「はい」


「図を捨てるのではなく、図を時刻へと分ける」


「そう。その言い方は、近いです」


オルロフは目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。白い息が冷たい空気に広がる。


「乱暴だが、興味深い」


エリザがすぐに言った。


「興味深い、を記録します」


「記録しないでよろしい」


「します。後で否認されると困ります」


アレクセイが笑った。


「爺さん、逃げられねえな」


オルロフは彼を睨んだが、反論はしなかった。


その時、カタリナの写した車輪跡の図が、かすかに黒く滲んだ。


全員が動きを止める。


線の途中に、見えない手が矢印を描き足していく。


馬車の進んだ方向とは逆向きの矢印。


「逆です」


カタリナが即座に言った。


「馬車は、この方向には動いていません」


校閲者だ。


今度は、運動の向きに手を加えようとしている。


オルロフが息を呑む。


「図の矢印を……」


「だから、図だけでは危険です」


俺は言った。


「位置の順番を残します。時刻一、時刻二、時刻三。矢印が変わっても、順番が残れば向きは戻せる」


カタリナがすぐに番号を書く。


一。


二。


三。


四。


エリザが定義を書き添える。


速度は、時刻順に並んだ位置の変化。


アレクセイが加える。


「御者の証言、馬車の停止位置、荷の崩れ方も補強だ」


御者が慌てて頷く。


「そうだ、荷は前へ崩れた。逆向きじゃない」


黒い逆矢印が薄れた。


完全には消えない。


だが、嘘として浅くなった。


オルロフは、その様子を見ていた。


彼の古い図も、さっき接線をずらされた。


今度は、現実の車輪跡の写しが改竄された。


図は美しい。


だが、嘘をつかされることもある。


「オルロフ先生」


俺は言った。


「図を守るためにも、式が必要です」


彼は、しばらく黙っていた。


やがて、静かに頷いた。


「図に順序を与えるために、時刻を添える。時刻を添えれば、速度が現れる。速度が変われば、加速度が現れる」


「はい」


「まだ認めたわけではない」


「はい」


「だが、次の講義を聞きましょう」


それは、この場で得られる最大の前進だった。


寒さで指先が痛む。


右目は相変わらず滲む。


だが、馬車の跡が、別のものに見え始めていた。


ただの事故ではない。


位置の列。速度の変化。運動の痕。


俺はカタリナの紙を見た。


太い点と数字なら、右目でも読める。


まだ、見える。


見える形に変えれば。


部屋へ戻る頃、雪はまた降り始めていた。白い粒が、さっきの車輪跡を少しずつ埋めていく。現実の痕は、放っておけば消える。だから、紙に写す。数字にする。式にする。


俺は、冷たい息を吐きながら言った。


「位置は、今どこか。速度は、次にどこへ向かうか。加速度は、その向かい方がどう変わるか」


エリザが頷く。


「定義としては粗い。ですが入口として有効です」


カタリナが紙を抱え直す。


「大きな字で、清書しますね」


アレクセイがぶっきらぼうに言う。


「ついでに、氷と荷の重さも忘れるな」


オルロフが背後で言った。


「そして、図も忘れないことだ」


俺は振り返った。


「忘れません」


オルロフは、雪の中で小さく頷いた。


「では、次は速度を定義しなさい。曖昧なら、私が切ります」


エリザが即座に言った。


「それは私の役目です」


二人の視線がぶつかった。


アレクセイが低く笑う。


俺は少しだけ、次の苦労を思って頭が痛くなった。


だが、悪くない痛みだった。


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