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第16話 一七三五年


「今日、校閲者は最大の白化を仕掛けてきます」


カタリナがそう言った瞬間、部屋の空気が冷えた。


サンクトペテルブルクの窓には、薄い霜が張りついている。


机の上には、二年分の記録が並んでいた。


草稿。


写し。


工房帳。


結婚証書。


宮廷報告書。


アカデミーの保管記録。


ダニエル先生から届いた封書。


アレクセイの数表。


エリザのE番号対応表。


カタリナが作った白化記録表。


そのすべてが、この日のために積み上げられていた。


一七三五年。


バーゼル問題の正式発表へ向けて、草稿が公的名簿に載る日。


つまり、俺の名が歴史に差し込まれる日。


そして、校閲者が最も狙いやすい日。


「根拠は?」


エリザが聞いた。


声は落ち着いている。


だが、指先は紙の端を強く押さえていた。


カタリナは白化記録表を指した。


「第一の山は、あの公開検討会でした。複数人が草稿を読んだ日」


「ええ」


「第二の山は、宮廷報告書が作られた日」


「覚えています」


「第三の山は、グゼル家の工房帳へ転記した日」


「絵が消えかけた日ですね」


「はい。第四の山は、赤線をE番号へ置き換えた日。第五の山は、数表を航海局へ提出した日」


アレクセイが腕を組む。


「俺の数表の日か」


彼もこの場にいた。


呼んだわけではない。


昨日の夜、勝手に来た。


理由を聞くと、


「自分の名が空欄を埋めると言われた男が、発表日を寝て待つと思うか」


とだけ言った。


口は悪い。


だが、来てくれたことはありがたい。


カタリナは続けた。


「共通点は、記録が公的に参照されたことです」


俺は表を見る。


日付だけではない。


誰が読んだか。


何人が署名したか。


どの紙に転記したか。


どれだけ白化したか。


全部、彼女の字で細かく残っている。


「そして今日、草稿は正式発表名簿に載ります」


カタリナは言った。


「つまり、最も多くの人が、レオンハルト様の名と、この草稿を同時に参照する日です」


エリザが低く言う。


「校閲者にとっては、最も編集しやすい日ね」


「はい」


カタリナは頷いた。


「そして、最も編集しなければならない日」


俺は息を吸った。


「つまり、今日を越えれば」


「名は深く残ります」


カタリナは言った。


「ただし、越えられれば、です」


沈黙。


外で風が鳴った。


机の上の蝋燭が揺れる。


その炎が、草稿の表紙を照らした。


Leonhard Euler。


二年間、何度も薄くなった名。


それでも残した名。


俺は、その文字を見た。


本物ではない俺が守ってきた名前。


未来のために。


数学史のために。


そして、今はもう、それだけではない。


カタリナの線。


エリザのE。


ダニエルの書簡。


アレクセイの数表。


グゼル家の工房帳。


みんなの仕事が、この名の下に結びついている。


だから、消させない。


「準備を確認しましょう」


俺が言うと、エリザが即座に紙を出した。


「第一保管、アカデミー正式草稿」


カタリナが続ける。


「第二保管、グゼル家工房。図版、封蝋記録、結婚証書の裏写し」


アレクセイが不機嫌そうに言う。


「第三、航海局。数表検算記録。俺の名で残っている」


「自慢ですか?」


「責任だ」


エリザが少しだけ口元を動かした。


「第四、ダニエルの書簡」


俺が封書を指す。


「遠隔証言。開くのは最後です」


「第五、宮廷報告書写し」


カタリナが言う。


「アンナ様経由、イワン様経由、二系統」


「信用できませんね」


俺が言うと、エリザが言った。


「信用できない記録も、複数あれば互いを縛ります」


強い。


この二年で、彼女もかなり記録戦がうまくなった。


いや、元からか。


「第六」


カタリナが、胸元に手を当てた。


「私の記憶です」


誰も茶化さなかった。


それは、この場で最も強い保管場所の一つだった。


俺は頷いた。


「行きましょう」


アカデミーの大広間は、まだ朝なのに人で埋まっていた。


学者。


書記。


宮廷の役人。


神学者。


航海局の者。


工房関係者まで少し。


あの公開検討会の時より、ずっと多い。


この二年で、バーゼル問題の解法の草稿は噂になっていた。


「円と無限をつなぐ式」


「オイラーの級数」


「ベルヌーイ家が認めた草稿」


「宮廷が監視する数学」


ろくでもない噂も多い。


だが、噂は記憶でもある。


消されにくくするために、あえて一部は放置した。


広間の中央には、発表者名簿が置かれている。


今日、ここに名前が載る。


その後、草稿が正式に読まれる。


完全な発表ではない。


公刊でもない。


だが、歴史に刻むための公的な一歩だ。


俺は名簿へ近づいた。


エリザが横に立つ。


カタリナは紙と図版を抱えている。


アレクセイは少し離れて腕を組んでいた。


「顔が悪いぞ」


彼が言う。


「緊張しているので」


「無限を扱う男が、名前一つで震えるのか」


「名前一つで歴史が変わるんです」


「……それはそうだな」


彼はそれ以上言わなかった。


名を欲しがった男には、わかるのだろう。


名簿の前に、アカデミーの書記がいた。


彼は俺を見ると、少し緊張したように礼をした。


「オイラー殿」


「名簿を確認します」


「はい」


紙が開かれる。


日付。


一七三五年。


題目。


二乗逆数級数について。


発表者。


Leonhard Euler。


あった。


名は、まだある。


俺は息を吐きかけた。


その瞬間。


紙の端が、白く光った。


来た。


「始まりました」


カタリナが低く言う。


名簿の日付が薄れる。


一七三五年。


その文字が、雪のように白く抜けていく。


「日付からか」


エリザが呟く。


「予測通りです」


カタリナはすぐに別紙を出す。


「一七三五年。雪解け前。アカデミー大広間。二乗逆数級数正式名簿確認日」


俺も声を出す。


「第一参照者、アカデミー書記」


エリザが続ける。


「第二参照者、レオンハルト・オイラー」


アレクセイが言った。


「第三、アレクセイ・ヴォロンツォフ」


「自分を入れるんですね」


「責任だと言っただろう」


書記たちが慌てて写す。


日付が消えるより早く、出来事で日付を支える。


この二年で覚えたやり方だ。


白化は一度、止まった。


だが、すぐ別の紙へ走る。


保管写し。


工房帳。


宮廷報告書。


遠くの机に置いていた複数の紙が、同時に白く光った。


広間がざわつく。


「一斉に来た」


エリザが言う。


「想定内です」


カタリナの声は震えていた。


だが、動きは正確だった。


「分類してください。日付、署名、題目、発表者名。どこが消えるかで分けます」


「はい!」


書記たちが動く。


二年前なら、誰もこんな指示に従わなかった。


今は違う。


白化はもう、一部の者だけが見る怪異ではない。


アカデミーの記録事故として、対処法が共有されている。


それ自体が、俺たちの勝利だった。


「オイラー殿!」


一人の書記が叫んだ。


「工房帳の日付が!」


カタリナが走る。


俺も行こうとしたが、エリザが止めた。


「あなたは名簿から離れない」


「でも」


「役割を守ってください」


「……はい」


カタリナは工房帳を開き、即座に読み上げた。


「グゼル家工房帳。草稿図版依頼記録。結婚証書裏写しと同日参照。父ゲオルク立会い」


遠くでゲオルクの大声が響いた。


「ゲオルク・グゼルが見た!」


広間がびくっとする。


相変わらず声が大きい。


だが、その声が効いた。


工房帳の日付が、かすかに戻る。


戻るというより、薄さが止まる。


「声も記録ですね」


俺が呟くと、エリザが言った。


「とても大きな記録です」


次に、宮廷報告書が白く光る。


イワンが紙を押さえた。


「これは困りますね」


相変わらず薄く笑っている。


だが、額には汗がある。


アンナもいた。


彼女は報告書を見て、すぐに言った。


「宮廷報告書、第三写しを開きなさい」


「第三写し?」


俺が聞くと、アンナは答えた。


「あなた方に黙って作らせたものです」


「それ、今言います?」


「今役に立っています」


確かに、第三写しが出てきた。


信用できないが、役には立つ。


宮廷報告書の日付も、複数写しで止まった。


白化は迷っている。


どこかを消しても、別の場所から復元される。


二年間かけて作った記録の網が、校閲者の刃を絡め取っている。


「いける」


俺は呟いた。


その瞬間。


名簿の発表者欄が白くなった。


Leonhard Euler。


その文字が、上から薄れていく。


「来た!」


アレクセイが叫ぶ。


俺は名簿へ手を伸ばした。


だが、触れない。


触っても止まらない。


止めるのは紙ではない。


記録だ。


「Leonhard Euler!」


俺は声に出した。


エリザが続ける。


「発表者、Leonhard Euler!」


カタリナが叫ぶ。


「グゼル家工房帳にも同名で記録!」


アレクセイが言う。


「航海局数表、検算者Leonhard Euler!」


アンナが続ける。


「宮廷報告書、報告対象Leonhard Euler!」


イワンが少し遅れて言った。


「同じく、Leonhard Euler」


広間のあちこちで、その名が繰り返される。


Leonhard Euler。


Leonhard Euler。


Leonhard Euler。


名前が、声になって広がる。


二年前、式を唱和した時と同じだ。


だが、今回は式ではない。


名だ。


俺のものではない。


いや、俺が守るべきものだ。


Leonhard Euler。


白化は止まりかけた。


だが、完全には止まらない。


EulerのEが、まだ薄い。


「足りない」


エリザが言った。


「何が」


「後ろ盾です」


俺はハッとした。


ダニエル。


最後に開けるはずだった書簡。


俺は懐から封書を取り出した。


封蝋は、二年間守り続けたままだ。


手が震える。


「今ですか」


カタリナが問う。


「今しかない」


俺は封を切った。


中には、ダニエル・ベルヌーイの筆跡。


落ち着いた、見慣れた文字。


俺は読み上げた。


「私、ダニエル・ベルヌーイは証言する。レオンハルト・オイラーは、一七三三年冬より、二乗逆数級数に関する草稿を検討していた」


広間が静まる。


「その草稿は、エリザ・ベルヌーイの検討、カタリナ・グゼルの図版記録、複数の計算および証言により支えられている」


エリザが息を呑む。


カタリナの目が揺れる。


俺は続けた。


「この草稿を、レオンハルト・オイラーの名で扱うことに、私は異議を持たない」


最後の一文。


「その名は、彼の仕事によって支えられている」


名簿の白化が止まった。


Leonhard Euler。


文字が戻ったわけではない。


だが、薄くなった箇所が、そこで踏みとどまった。


消えない。


消えなかった。


広間に、長い沈黙が落ちた。


その後、誰かが息を吐いた。


そして書記が震える手で名簿に封を押した。


「正式名簿、確認完了」


その声を聞いた瞬間、膝から力が抜けかけた。


エリザが支える。


「まだ倒れないでください」


「すみません」


「正式発表は、これからです」


そうだった。


まだ名簿を守っただけだ。


証明はこれから。


バーゼル問題の正式解は、まだ発表されていない。


だが、今日最大の白化は乗り越えた。


そう思った瞬間。


アカデミー書記が、発表者名簿をもう一度見て顔をこわばらせた。


「どうした」


アレクセイが聞く。


書記は震える指で、名簿の下欄を指した。


そこには、さっきまで空欄だった補助発表者欄がある。


その欄に、いつの間にか別の名前が浮かんでいた。


【Alexei Vorontsov】


アレクセイの顔から血の気が引く。


俺は息を止めた。


校閲者は、名簿の主発表者を消せなかった。


だから。


空欄に、別の名を入れてきた。

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