第四話の終わり ―男の子は、思った
その日は、朝からずっとそわそわしていた。
じっとしていられなくて、何度もリビングの時計を見るけど、時間がちっとも進まなくて、落ち着かなかった。
きっかけは、数日前に妹が新聞で見つけた「猫の家族譲渡」の記事だった。読者広告の端っこに載っていた、小さなカラー写真。そこには二匹の子猫が、寄り添うようにしてこちらを見ていた。
新聞に掲載された小さな写真なのに、二匹は紙の向こうから飛び出してくるみたいに生き生きとして見えた。
茶虎の男の子は、いかにも元気そうな顔をしてる。
ちょっと鼻が上を向いていて、「俺、この辺じゃ一番強いんだぜ」ってガキ大将みたいな、生意気な表情。なんだか一緒に遊んでくれそうな印象だった。
でも――
僕の目を一瞬で奪ったのは、隣にいた黒猫の子だった。
まんまるに見開いた大きな目で、カメラをじっと見つめている。
怖がっているのか、それともレンズの奥にいる人間を観察しているのか、子供の僕にはよくわからない。
でも、その真っ黒な毛並みと、暗闇の中で光るビー玉みたいな瞳。その表情が、言葉にできないほどたまらなく可愛かった。
胸の奥が、ぎゅっとなった。なんだろう、この感じ。猫に対して、こんな気持ちになるなんて、学校の友達に話したら笑われるだろうな。でも、その時の僕は本気だった。ただ、この子を守らなきゃいけない、という強い使命感みたいなものが、体の真ん中から湧き上がってきたんだ。
「絶対に仲良しになるんだ。世界で一番、あの子に信頼される人間になるんだ」
僕は強く強く心に誓った。
――――――
お父さんとお母さんが保護団体に会いに行く日、僕は妹と一緒に家で待つしかなかった。自分も一緒に行きたいと何度も喉まで出かかったけれど、お父さんに「会ってしまったら、相性が合わなくても連れて帰りたいってなるだろ?お父さんたちに任せて待っててほしいな。」と言われたら、頷くしかなかった。
落ち着かなくて、テレビをつけてもアニメの内容が頭に入ってこない。ゲームのコントローラーを握っても、全然集中できない。
隣では、妹が大好きなイラストを夢中で描いて過ごしていた。お父さんたちが「相性が合うならね」と言っていたのに、彼女はそれをまったく心配していないみたいだった。のんびりと鉛筆を動かしながら、もう新しい猫たちが加わった五匹の猫の絵を描いている。その無邪気さが、少しだけ羨ましかった。
僕は、心配で仕方がなかった。
だって、相性が悪かったら、あの子たちはこの家に来ないってことなんだろ。僕は諭吉とも、かぐやとも、チャトランとも仲良しだ。猫には優しく接しているつもりだし、毎日ちゃんとご飯をあげている。トイレの世話だって、妹と交代で一度もサボらずにやっている。僕は猫とはとっても相性がいいはずだ。だから、きっと大丈夫だ。
でも、もし黒猫の子が僕を一目見て「嫌い」だと思ったら、どうしよう。あの子が僕の家族になることを拒んだら、僕はどうやって生きていけばいいんだろう。
また胸がきゅっとなった。
――――――
お父さんたちが出かけてから、二時間以上が経った。
沈黙していた玄関で、カチリと鍵が開く音がした。
ドアが開く音。聞き慣れたお父さんの足音。
それと同時に、僕たちは我先にと玄関へ向かって走った。
お父さんとお母さんの顔を見る。二人ともにこやかに、僕と妹を見ていた。お父さんの両手には、二つのキャリーケース。空っぽで持っていった時とは違って、ずしりと重そうで、中に新しい「命」が入っているのが一目でわかった。
「……相性、よかったの?」
少し上ずったような、変な声が出た。
「そうだよ。この子たちは、うちの家族にぴったりだと思った」
お父さんが笑いながら教えてくれた。茶虎くんは保護施設で、お父さんのことを生意気な目でじっと見つめてきたって。
その様子を一歩引いてうかがいながら、静かにお父さんを値踏みするように観察していたのが黒猫ちゃん。
どちらも、この家に来る運命だったんだとお父さんは言った。
「ほら、もう大歓迎だよ」
リビングにケースを置くと、諭吉、かぐや、チャトランの三匹が、すでに足元に集まっていた。それは儀式のようでもあり、新しい仲間を品定めするような、不思議な静けさだった。
――――――
キャリーの網目から覗くと、中から二匹の瞳がこちらを見ていた。
茶虎くんは、ちょっと怯えながらも、僕たちをじっと見返していた。
写真で見るよりずっと小さくて、でも足は太くて、なんだかやんちゃ坊主の雰囲気がした。この子はきっと、すぐに家中を走り回るようになるだろう。
そして――黒猫の子。
写真よりも、ずっと、ずっと小さかった。そして、写真よりもずっと、ずっと可愛かった。でも、彼女は震えていた。体をぎゅっと縮めて、吸い込まれそうなほど大きな瞳で、周りのすべてを警戒していた。
僕は、息を止めてそっと近づいた。怖がらせないように、できるだけ体を小さくして。
名前は、お父さんの提案ですぐに決まっていた。「おはぎ」——甘くて、温かくて、みんなに愛される名前。僕は小さく、試すように呼んでみた。
「おはぎ……?」
僕は、勇気を出して右手をおずおずとケースの中に入れてみた。
でも、おはぎは半歩、後ずさりした。僕はもう一度、もっとゆっくりと手を伸ばしてみた。おはぎはまた、わずかに身を引いた。
そのたびに、僕の胸に針が刺さったみたいに痛くなった。
嫌われたのかな。怖いのかな。僕、そんなに怖い顔をしてるかな。
あんなに会いたいと願っていたのに、彼女に拒絶されることがこんなに悲しいなんて。
気づいたら、視界がじんわりと滲んで、目がうるうるしていた。
そしたら――おはぎが、止まった。
彼女は僕の濡れた瞳をじっと見つめて、ほんの少しだけ、顔を前に出した。
そして、僕の指先の匂いを、ちょん、と鼻先で嗅いだ。
一瞬だった。ほんの一瞬の、冷たくて湿った感覚。
それだけで、僕の胸の中の暗闇が、ぱあっと明るくなった。心臓が大きな太鼓みたいに鳴り響いた。
「……ありがとう」
声が震えて、うまく言えなかったけれど、精一杯の気持ちを込めた。
おはぎは、すぐにまた奥へ下がってしまった。
でも、それでいい。
あの一瞬のコンタクトで、僕はちゃんと「選んでもらえた」気がしたから。
彼女は「この人は、私と一緒に泣いてくれる人だ」って、分かってくれたような気がしたんだ。
――――――
家族みんなが寝静まったあと、僕は布団の中でずっと今日のことを考えていた。
天井を見つめながら、指先に残る微かな感触を思い出していた。
おはぎは、ただ怖がりなだけじゃない。誰よりも慎重なんだ。
僕のことを嫌っているんじゃなくて、この場所が本当に安全かどうか、僕が信じていい人間かどうかを、彼女なりの方法で測っているんだ。
「この人は大丈夫かな」「この家は、あの夜みたいに揺れたりしないかな」
そうやって、ゆっくり、ゆっくり判断しているんだ。
だから、急がなくていい。焦らなくていいんだ。
諭吉とも、かぐやとも、チャトランとも、時間をかけて家族になった。
おはぎとも、きっとそうなれる。
いや、絶対になってみせる。
だって――
僕は、あの子に恋をしたんだから。
恋をした相手に、最高の笑顔を見せてくれるまで、僕は何度だって「おはよう」と「おやすみ」を言い続けるつもりだ。




