第五話 この家の、朝
<諭吉の朝>
目が覚めた。
外はまだ暗い。でも、もうすぐだ。
長年、この家で暮らしていると、体が感じる。もうすぐお母さんの目覚ましが鳴る時間だ。私はいつも自然と、その少し前に目が覚める。この感覚は、なかなか悪くない。まるで、この家の時計みたいで。
お母さんのそばで丸くなりながら、私は静かに待つ。
傍らには、布団の中に潜り込んで眠るかぐやの気配。あの娘はお母さんの布団の中が好きだ。少しでもお母さんが寝返りを打つと、「動くな」とばかりに爪を立てて一悶着を起こしている。お母さんの布団が好きなら、大人しく従っていればいいだろう。マロンのいたずらを避けるためにいるんだからいいの、なんて言っているが、まあ、どうでもいいか。
今、私が考えているのは、一つだけだ。
朝ごはん。
みんなの朝ごはんを、早く用意してもらわないといけない。そのことだけを考えて、私はお母さんのそばで眠る。私が食べたいからではない。みんなのためだ。これは習慣であり、作戦であり、私なりの責任だ。
やがて。
ピピピッ。
目覚ましが鳴った。
お母さんが、うーん、と唸って手を伸ばす。目覚ましを止める。そのまま、動かなくなる。
ああ、これは二度寝だ。
私は知っている。人間というのは、一度目の目覚ましではなかなか起きない。特にお母さんは。止めたらそのまま、すうっと眠りに戻っていく。これをやられると、朝ごはんが遅くなる。みんなのお腹が空く。
それは、困る。
私はゆっくりと立ち上がり、お母さんの顔に近づいた。本当に寝ているのか、寝たふりをしているのか、確認しなければならない。そっと顔を近づける。クンクン。息をしている。目は閉じている。でも、どうだろう。
もう一度。クンクン。
寝ているときの呼吸と、起きているときの呼吸の違いは、鼻先を近づけることでわかる。ほら、見てみなさい。
お母さんの眉が、かすかに動いた。
やっぱり起きている。
私はさらに顔を近づけた。鼻先が、お母さんの頬に触れるくらいの距離で、クンクン、クンクン。
お母さんが、ふふっと小さく笑った。それでもまだ、目を開けない。
なかなか頑固だ。
私は構わず続けた。クンクン。クンクン。額に、耳に、鼻先に。
ピピピッ。
二度目の目覚ましが鳴る、その少し前だった。
「……もう、わかったわよ」
お母さんがついに目を開けて、起き上がった。少し不満そうな顔をしているが、口元は笑っている。私の頭を、ぽんと一度撫でた。
よし。
作戦成功だ。
それからお母さんは、私たちのご飯を用意してくれた。トイレもきれいにしてくれた。
この家の朝が、始まった。
――――――
<かぐやの朝>
ご飯を食べると、喉が渇く。
これは当たり前のこと。ご飯のあとは必ず水が飲みたくなるものよ。ただ、問題は、どこで飲むか、よ。
水入れには、ちゃんと水が用意されている。でも、あれはダメ。誰が飲んだかわからない。あたしはそういうの、気になるの。みんなが飲んだあとの水なんて、遠慮しておくわ。
あたしが飲むのは、蛇口から出てくる新鮮な水、と決めているの。
洗面台がベスト。蛇口の高さが、ちょうどいい。首を伸ばすと、ちょうどいい角度で水が飲めるのよ。台所の蛇口も悪くないけど、あそこは少し遠すぎる。左足で水を掬って飲むしかなくて、それはそれで趣があるけど、やっぱり面倒くさいのよね。
だから、洗面台。ここに限る。
あたしは洗面台の縁に飛び乗って、蛇口の前でお行儀よく待った。
でも、誰も来ない。
慌てない。急がない。
あたしは一言、鳴いた。
「ニャア」
それだけでいいの。
すると、廊下のほうからパタパタと足音がした。男の子か、ちびっこい子か。今日は男の子だった。「もう、人使い荒いんだから」とかなんとか言いながら、洗面台に駆けつけて、蛇口をひねってくれた。
冷たくて、新鮮な水が流れてくる。
あたしはゆっくりと、丁寧に飲んだ。うん、おいしい。
飲みながら、思った。
みんな、わかってんじゃないの。
ちゃんと、あたしが何を求めているかわかって、飛んでくる。えらいわ。
でもね、と思う。
他の子たちを見ていると、なんでも自分で解決しようとしすぎる。水だって、遊んでほしい時だって。ちゃんと鳴けばいいのに。ちゃんとお願いすれば、この家の人たちはちゃんと応えてくれるんだから。
みんな、ちゃんとお願いしなきゃダメなの。
あたしを見習いなさいな。
――――――
<チャトランの朝>
今日も、でっかい人が洗面台に向かった。
あたいはそれを、冷蔵庫の上からじっと見ている。
でっかい人の朝の動きは、だいたいわかっているのよ。洗面台で顔を洗って、そのあと歯をゴシゴシと磨く。念入りに、時間をかけて磨く。テレビで天気予報なんかを気にしたりしてね。それから服を着替えたら、玄関のドアを開けて、どこかへ消えていく。しばらく帰ってこない。
毎朝、決まってそうなのよ。
問題は、その「どこか」よ。
でっかい人は、毎朝どこへ行くのか。何をしに行くのか。そして――何を食べているのか。
帰ってきたでっかい人には、いつも知らないにおいがついている。外のにおい、知らない場所のにおい。そして時々、何か食べ物のにおいがする。
あたい、知ってるんだから。
外でひとりで、何かおいしいものを食べているんでしょう。あたいたちには黙って。それが、気が気ではないのよ。
よし。今日こそ、聞き出す。
でっかい人が歯ブラシを持った。行動開始だわ。
あたいは歯磨きをしているでっかい人の足元にすっと躍り出て、体をぐるりとすり寄せた。そして、でっかい人の目を引いたところで、一言。
「にゃっ」
どこ行くのよ。
もう一度、ぐるり。
「にゃっ」
何を食べに行くのよ。
足にしっかり体を押しつけながら、ぐるぐると回る。
あたい、知ってるんだから。帰ってきたら、知らないにおいがついてるもん。おいしいもの、食べてるんでしょう。
ぐるぐる、ぐるぐる。
連れてってよ。あたいも行きたいのよ。
でっかい人はあたいを見下ろして、ニコニコしながら言った。
「かわいいねえ」
違うのよ!
あたいは愛想を振りまいているんじゃない。聞いているの。あたいに黙って、ひとりでおいしいものを食べに行くんじゃないかって、ちゃんと聞いているのよ!
でも、でっかい人はうがいをしたあと、あたいの頭をひとなでして、いつものとおり玄関へ向かってしまった。
ドアが閉まる。
あたいは玄関の前で、しばらくそのドアを見つめた。
……今日も、聞き出せなかった。
まあ、いい。まずは帰ってきてから。でっかい人の足音、よくわかるのよね。帰ってきたらまた聞き出さなきゃ。
それでもダメなら、また明日。あたい、あきらめないわよ。毎朝、ちゃんと確認するんだから。
さて、でっかい人が帰ってきたら、まずはにおいチェックね。
――――――
<マロンの朝>
正直に言う。
でっかい人が、まだちょっと怖い。
いや、ちょっとだぜ。本当に、ちょっとだけ。
なんかさ、でっかくて、どっしりしていて、のほほんとしているくせに、なんかオレのことを全部見透かしているみたいな目をしてんだよ。近くに来ると、つい、びくっとなっちまう。
オレもわかってんだ。ボスの息子がびくってするなよ、ってね。でも、なるんだから仕方がないじゃん。
でっかい人もそれがわかってんのか、無闇にオレのそばには来ない。近づきすぎないで、遠くから優しい目で見てくる。ちゃんと、距離を保ってくれてるんだよ。
それについては、正直、ありがたい。
でもね、このでっかい人がオレたちにご飯をくれる時があるんだよ。
たまに、朝ごはんの時間になってもお母さんが起きてこないことがある。男の子も、ちびっこい子も、まだ眠ってる。そういう日の朝は、静かで、なんとなく心細い。
仕方がないから、おはぎにちょっかいを出して暴れて過ごす。廊下を走ったり、じゃれあったりしていると、やがてでっかい人が現れる。
ゴソゴソっと、お母さんがいつもご飯を出しているところから、オレたちのご飯を取り出してくる。
え、今日はでっかい人がご飯をくれるの?
ちょっと心配になる。ちゃんと出してくれるのかな。量、大丈夫かな。
でも、でっかい人は慣れた手つきで、オレたちのお皿にご飯を入れてくれた。
なんだ、ちゃんとできるじゃん。
食べながら、思った。こういう時は、ちゃんとお礼を言わなきゃな、と。
よし、出血大サービスだ。
食べ終わったオレは、まだそばにいるでっかい人の右手に近づいて、ぺろりと舐めてあげた。
でっかい人の顔を見上げる。
すっごく、嬉しそうな顔をしていた。
やったね。
いっつもびくってして避けてたのに、なんか、ちょっと、悪かったな、って思っちまった。
お母さんが起きてこない時には、また頼むよ。
いや、オレはべつに、誰がくれてもいいんだけどさ。おはぎが腹を空かせているから。それだけだから。
……それだけだから。
――――――
<おはぎの朝>
どうにも、調子が狂う。
男の子があたしにデレデレなのは、まあ、わかる。あの子はわかりやすいから。あたしが少しそばに寄っただけで、もう顔が崩れる。ちょっと鼻先を近づけてあげるだけで、声を上げて喜ぶ。扱いやすいといえば、扱いやすい。
でも、問題はちびっこい子なの。
あの子は、誰に対しても変わらない。
諭吉さんにも、かぐやさんにも、チャトランさんにも、マロン兄さんにも、そしてあたしにも。すっと来て、ニコッと笑ったかと思ったら、すっと抱っこをする。
あたしはこう見えても、そう簡単には抱っこさせない。それが、あたしのポリシー。お父さんにもお母さんにも、まだちゃんと距離を置いている。男の子には少しずつ詰めてあげているけど、それだって、あたしが判断してのことだ。
なのに、あの子は違う。
あたしが考える間もなく、すっと来て、ふわっと抱き上げる。そのままぎゅっとしてくれる。
これが、困ったことに、気持ちいい。
あたしは慎重な猫だ。そう簡単に心を許さない。でも、あの子に抱っこされると、なぜか体の力が抜けてしまう。温かくて、やわらかくて、息が合う感じがして。
なんなのよ、もう。
でも、正直に言うと。
気持ちがとろける、ってこういうことを言うのかしら、と思う。あの子に抱っこされている時間が、少し、好きかもしれない。
ただ、そこで問題が起きた。
あたしがなんとなく居心地が悪くなって、するりと降りたら、今度はその子がサクッとマロン兄さんを抱っこしたの。
そして、マロン兄さんの顔を見た。
……何なの、あの顔。
ボスの子どもの威厳は、どこへ行ったの。さっきまであんなに威張っていたのに、あの子に抱っこされた瞬間に、もう目がとろんとしてる。耳がぺたんとなってる。
ホントに、この子には調子を狂わされる。
でも、と思う。
なんていうんだろう。やっぱり、いいのよね。抱っこされると。
あの温かさは、なんというか、特別だ。慎重なあたしが、思わず心を許してしまうくらいの、特別な温かさ。
……まあ、たまになら、いいか。
ほんの、たまになら。




