第五話の裏で 家族の、朝
<でっかい人の朝>
猫を飼おうと言い出したのは、自分だった。
そのことを、朝、目が覚めるたびに、少しだけ思い出す。
諭吉が椅子の下にいる。気がついたら、そこにいる。出勤前にコーヒーを飲む時も、新聞を読む時も、くつろいでいる時も。あの場所が、諭吉の定位置だ。なんでそこが好きなのか、聞いても答えてくれないけれど、まあ、いい。そこが気に入っているなら、それでいい。
歯を磨いていると、チャトランが来た。
足元をぐるぐると回りながら、何かを訴えている。毎朝のことだ。何を言っているのかは、正直よくわからない。ご飯の催促か、遊んでほしいのか、それとも別の何かか。
妻は「チャトランだけね、あなたのことを怖がらないのは」と言う。諭吉もかぐやも怖がってはいないと思うが、まぁ、マロンとおはぎはタシアに少し距離を置いている。
それはそれとして、出かける前こうして足元で鳴いてくれると、なんとなく、心配してくれているのかもしれない、という気持ちになる。チャトランはどこかお母さんみたいな顔をしているから、余計そう思うのかもしれない。
自分は、仕事のことを家で話すタイプではない。外でのことはなるべく家に持ち込まず、玄関を開けて入った瞬間からは、家の中のこと、テレビで見たこと、新聞で読んだこと、時には懐かしい子供の頃のこと、そういう話だけしている。
この家に帰ってくると、玄関を開けた瞬間に出迎えてくれるものがある。声がある。気配がある。そこに、外で戦っているものをさらすのは、なんか違う気がするのだ。
それは、この家に響く声と気配を守るための、自分なりの矜持のような気がしている。
猫を飼う前は、玄関を開けても、しばらく静かだった。
今は違う。
かぐやがどこかで鳴いて私たちを呼びつける。マロンがドタドタと猫らしくない音を立てて廊下を走る音。チャトランが愛想たっぷりに足元で鳴く。おはぎが、音もなくすっと起きまん丸な目でこちらを見る。諭吉がいつもの寝床で大きな伸びをして、またごろりと寝直す。
ただいま、と言うと、ちゃんとこの家に帰ってきた気がする。
出勤前、玄関を出て、家を振り返る。
諭吉が、2階の窓辺からこちらを見下ろしていた。
朝の光が、グレーの毛に当たっていた。きれいだな、と思った。この子をペットショップで見つけた日のことを、ふと思い出した。値段が安かった。理由を聞いたら、店員が言葉を選んだ。その時、なんとなく、わかった。それでも、連れて帰った。
この子でよかった、と今も思っている。
もう一度、二階の窓辺を見た。
諭吉の姿は、もうなかった。
行ってきます、とは言わない。でも、早く帰ろう、とは思った。
――――――
<お母さんの朝>
目覚ましより先に、諭吉の気配で目が覚める。
クンクン、クンクン。顔に、温かい息がかかる。鼻先が頬に触れる。くすぐったい。笑いたいのを我慢して、もう少しだけ、と目を閉じたまま思う。でも、わかってる。この勝負、負けるのはいつも自分だ。
諭吉は、あきらめない。
クンクン、クンクン。額に、耳に、鼻の頭に。どんどん距離が縮まってくる。ふふっと笑ってしまったら、もう終わりだ。
「……もう、わかったわよ」
起き上がると、布団の中からかぐやが出てきた。夏場でも私にピタリと身体を付けて寝ているくせに、私が寝返りを打つたびに「動くな」とばかりに爪を立ててくる。そんなに痛くはないけど、びっくりして「もう出ていってもらうわよ」となるのよね。すると、しばらくして、今度は夫の布団に潜り込みに行くみたい。まったく、澄ましているくせに甘えん坊なんだから。
寝室から出ると、にわかに猫たちが騒ぎ始める。
そうね、朝ごはんね。わかっているわよ。ちょっと待ってね。物事には順番ってのがあるんだからね。
諭吉、かぐや、チャトラン、マロン、おはぎ。みんな、それぞれのやり方で催促してくる。走り周りながら訴える子、ジッとこちらを見つめてくる子、すり寄りながら鳴く子、私はお腹なんか空いてませんけど、という顔で澄ましている子、自分の皿の前でじっと待ってる子。
不思議ね。おんなじ家で暮らしているにの、みんなこんなに違う。
五匹分のご飯を用意しながら、思う。
猫さんたちと暮らす前、この家はもっと静かだった。夫は仕事が忙しく、帰りが遅かった。諭吉が来て何かが動き始めた気がする。長年授からなかった子どもが増えた。台所にひとりで立っていることが多かったのに、娘が「料理を教えて」と横に並ぶようになった。夫が週末に家族へ料理を振る舞うようになった。
随分と賑やかになったわ。
最近は、足元に誰かいる。視界の何処かに猫さんがいる。廊下で何かが走る音がする。洗面台から「ニャア」と聞こえてきて、しばらくすると息子が慌てて走っていく音がする。
賑やかだな、と思う。
でも、嫌いじゃない。
朝の日課のトイレを掃除しながら、ふと思った。この子たちはそれぞれ、いろんな場所から来た。竹林で泣いていた子、地震の中を生き延びた子、ボス猫の血を引くって言われて引き取った兄妹。みんな、何かを抱えてここに来た。
でも今は、ご飯を待って、日向で寝て、この家で生きている。
それだけで、十分だな、と思った。
洗面台からまた「ニャア」と聞こえた。
かぐやだ。
また蛇口をねだっている。息子が今日も走っていくだろう。
思わず、笑ってしまった。
――――――
<男の子の朝>
目が覚めた瞬間に、猫たちのことを考える。
僕は猫が好きだ。物心がついたころには諭吉がいた。お父さんからは「お前のお兄ちゃんだぞ」って言われて、猫がお兄ちゃん?って思ったりもした。
赤ちゃんの頃の写真が、壁に貼られている。
ベビーベッドに寝ている僕のすぐそばに、丸くなって一緒に寝ている諭吉の写真。
冷蔵庫に貼っているいくつかの写真の中で、僕はそれが一番好きだ。
猫好きの自分が小さい頃から猫が身近にいたからより猫が好きになったのか、それとも、身近に猫がいたから猫を好きになったのか。その写真をみるたびに、そんなことを考える。
写真を横目に洗面台へ向かうと、かぐやがいた。蛇口の前で、お行儀よく座っていた。目が合った。
「ニャア」
一声だけ、鳴いた。
それだけでわかった。蛇口をひねると、かぐやがゆっくり水を飲み始めた。その横顔が、なんかやたら上品で、思わず笑ってしまった。いつも思うけど、かぐやの唇ってほんのりとピンクで可愛らしい。
でも、この子はいつも、こんな感じだな。自分が何を求めているか、ちゃんと伝えてくる。自己主張がはっきりしているからわかりやすい。
ホント、おはぎとは正反対だな、と思った。
気になって、おはぎを探した。いた。リビングの隅の猫用のクッションに、丸くなって寝ていた。僕が見ている気配を感じたのか、すっと起きてこちらを見た。大きな目をまんまるに見開いて、じっとこちらを見ている。でも、逃げなかった。
それだけで、今日はもう最高だ、と思った。
学校の準備をしながら、おはぎのことを考えた。あの子は怖がりじゃなくて、慎重なんだ。ゆっくり、確かめながら、自分のペースで僕たちのことを信じていこうとしている。そういう子なんだ。
だから、急がなくていい。
焦らなくていい。
おはぎのペースに合わせればいい。
バッグを背負いながら、もう一度リビングを見た。おはぎは、まだそこにいた。こちらの気配を感じているはずなのに、今度は視線を向けてこなかった。もう、確認しなくていい、ということかもしれない。
それだけで、十分だった。
行ってきます、と言ったら、諭吉がこちらをちらりと見た。それだけだったけど、なんか、見送ってもらえた気がした。
――――――
<おチビちゃんの朝>
私には、わかることがある。
うまく説明できないけど、猫たちが今どんな気持ちなのか、なんとなくわかる。そして、猫たちにも私の気持ちが通じている気がする。心の中で「怖くないよ」って伝えたら、逃げずにそこにいてくれる。言葉じゃない。においでも、音でもない。ただ、そばにいると、お互いに伝わってくる。
今朝、ハンカチを取りに二階の自分の部屋に行ったら、おはぎが窓辺にいた。
いつもと少し違う場所だった。諭吉がよくいる場所の、少し左。そこに座って、外を見ていた。
何を見ているんだろう、と思った。近づいて、そっと抱き上げた。おはぎは最初、少し体を固くした。でも、すぐに力が抜けた。温かかった。
おはぎを抱っこできるのは、今のところこの家では私一人。不思議だな、なんでみんな抱っこできないんだろう。
この子は、怖がりなんかじゃない。信じたいんだけど、ちょっぴり時間がかかるんだよね。だから、心から「大丈夫だよ」って思って抱き上げたら、すっと身を任せてくれる。なんかわかる気がするんだよね。自分も、そういうとこがあるから。
おはぎが少しむずがった。そろそろ降ろしてって合図だね。そっと床に降ろしたら、マロンと目が合った。いつの間にか後をついてきて、部屋の入口に座っていた。
ん?おはぎみたいに抱っこしてほしいの?
すっと抱き上げると、最初だけびくっとする。でも、すぐにとろんとする。耳がぺたんとなる。目が細くなる。さっきまであんなに威張っていたのに。
マロンを抱っこできるのも、今のところこの家では私一人。この子は撫でさせてはあげるけど、抱っこされるのはプライドが許さないって感じなのよね。なのに、私が抱き上げると逃げない。
強がりなんだな、と思う。でも、それが可愛い。
チャトランあんなに愛想がいいのに、抱っこは嫌いなのよね。甘えるのは自分からすることで、抱っこされるのは人任せだから嫌、ってことなのかな。あんなにお父さんにすり寄っているのに、お父さんが抱っこしようとすると、スルッと逃げ出して、お父さんさみしそうな顔をしちゃって。それがちょっとおかしい。
かぐやはマイペース。自分がやりたいことをきちんとやるタイプ。わがままだなってお兄ちゃんは言うけど、違うんだよね。自分に正直で、その代わり、私たちがしたいことは黙って受け入れる。だから、誰が抱っこしても文句ひとつ言わずにじっとしている。面白い子だな、と思う。
でも……諭吉には、近頃、そっとそばにいるようにしている。
何もしない。何も言わない。ただ、そこにいる。
諭吉の呼吸が、最近、少し重い気がする。気のせいだといい、と思う。もう年だってお父さんもお母さんも言ってたしな。でも、少し気になっている。
学校に行く前、諭吉の頭をそっと撫でた。
諭吉は、目を細めた。それだけだった。
でも、その目が、なんか、穏やかだった。
大丈夫だよ、と言っているのか、大丈夫だよ、と言われているのか、わからなかった。
どちらでも、同じことかもしれない、と思いながら、玄関を出た。




