第六話 猫たちの、風邪
<おはぎの災難>
目が覚めたら、なんか体がダルかった。
変なものは食べていない。なんなら昨日は、わたしのご飯までお兄ちゃんに横取りされたくらいだ。むしろ、食べたものが少ない日だったのに。
おかしいな、と思った。
この感覚、初めてだった。どこか痛いわけじゃない。でも、なんか重い。体の中に、知らない何かが入ってきているような、妙な感じ。理由も状況もわからない。こういう時、頼れるのはお兄ちゃんしかいない。
「お兄ちゃん、ちょっと体がダルいんだけど、なんでかな」
マロン兄さんは、わたしの声を聞いた瞬間に体を起こした。それから、クンクンとわたしの体のいたるところを嗅ぎ始めた。額を、首を、背中を。真剣な顔をしていた。さっきまで廊下を爆走していたのが嘘みたいに、静かだった。
「え……これ、風邪じゃね?」
風邪ってにおいがするの?とは思ったけど、まあ、お兄ちゃんが言うなら、そうなんだろう。施設にいた頃、風邪をひいた子を見たことがあるらしい。だから、わたしより詳しいはずだ。
「どうしたらいいの?」
「施設にいた時だったら、あそこの人が病院に連れてってたからさ。それしてもらうしかないかな。でも……気づいてもらわないと、しかたがないよな」
そうよね。この家の人たちに、わたしが具合が悪いって伝えないといけない。ただ、気づかれるのを待つしかない、ということだ。
少し不安になってきた頃、廊下からチャトランさんがやってきた。わたしとお兄ちゃんのやり取りを聞いていたのか、それとも気配で感じたのか、いつもよりゆっくりとした足取りで近づいてきた。
「どうしたの。具合、悪そうね」
チャトランさんの声は、いつもより少しだけ低くて、やわらかかった。
「そこ、横になってごらん」
わたしが床に横になると、チャトランさんはゆっくりとわたしのそばに丸くなって、ぺろぺろと毛づくろいをしてくれた。額を、耳の後ろを、背中を。丁寧に、丁寧に。
「前は、こうして治したんだけどね」
ぽつりと言った。
前、というのはいつのことだろう。
この家に来る前のこと?
外にいた頃のこと?
チャトランさんの過去については、あまり聞いたことがない。でも、その言葉の重さが、なんとなく伝わってきた。
子どもたちのことを言っているのかな、と思った。チャトランさんが、この家に来た理由。地震の後で、子どもたちとはぐれたって、いつかそんな話を聞いた気がする。詳しくは知らない。でも、この手の動きは、何度もしてきた手の動きだと、なんとなく、わかった。
チャトランさんの温かさが、体に染み込んでくる。重かった体が、少しだけ、ゆるんだ気がした。
気がついたら、声が出ていた。
「お母さんみたい」
つい、ポロリと。言ってから、少し恥ずかしくなった。でも、取り消せなかった。
「ふふふっ。あたいみたいなのがお母ちゃんでいいのかい?」
チャトランさんは笑った。からかうような笑い方じゃなかった。どこか、照れているみたいな笑い方だった。
わたしはうまく言えなかった。お母さんと一緒に過ごした時間は短かった。どんな感じだったか、もうはっきりとは覚えていない。でも、今のこの感じ、こうして誰かにそっとしてもらえるこの感じが、お母さんって、こういうことなのかな、と思った。
「……うん」
少しうつむきながら返事をした。チャトランさんの顔が見えなかった。ちらっと目を上げてみると、変わらない優しい表情で、わたしのことを舐め続けてくれていた。
「あら、嬉しいわね。じゃぁ、ここではあたいがかあちゃんだね」
風邪のせいかな。体が、少し熱っぽい気がした。頭がぼんやりする。でも、不思議と、怖くなかった。胸もドキドキしている。風邪って、いろんなところを普通じゃなくするのかな。
そして。
クシュン。
くしゃみが出た。
顔を上げると、チャトランさんと目が合った。チャトランさんが、少し困ったような、でも優しい顔でわたしを見ていた。
そこに、遠くから足音がした。
――――――
<マロンの災難>
妹が風邪をひいているようだ。
施設にいた時、風邪をひいた子がいた。あの時は、施設の人が病院に連れていって、薬を飲まされていた。それをしてもらったら、けっこう早く良くなってたんだよな。
問題は、それをこの家族に伝えることだ。
言葉が通じりゃ話は早いんだが、そうもいかない。でも、あの子なら気づいてくれるかもしれない。この家で一番、オレたちのことを理解してくれているあの子。ちびっこい女の子。
善は急げ。オレはちびっこい子のところへ向かった。
見つけた。部屋で絵を描いている。
オレが来たのに気がついて目を合わせてきた。瞬間、ヒョイッと抱え上げられた。
ああ、いつものやつか。
もう、違うんだよ、それじゃないんだよ、と思いながら、でも、まあ、気持ちいいから少しくらいは……いや、目的はそれじゃない。
オレは、ちびっこい子の腕の中で、なんとか意思を伝えようとした。体をもぞもぞさせた。視線を廊下の方に向けた。でも、なかなか伝わらない。
その時だった。
クシュン。
くしゃみが出た。自分でもびっくりした。
ちびっこい子が、動きを止めた。オレを抱いたまま、じっとオレの顔を見た。何かが伝わった、という気がした。
「お母さん!」
ちびっこい子が、廊下に向かって声を上げた。
それからのことは、あっという間だった。お母さんが来て、オレの様子を見て、慌てたような顔をして、何かを言いながら下の階に降りていった。しばらくして戻ってきたら、おはぎもいた。
おはぎを見た。おはぎがオレを見た。
え、二匹とも病院?オレも?
キャリーケースが出てきた瞬間、一瞬怯んでしまった。オレの体に、施設に連れてこられた日の記憶が走った。でも、今日は違う。隣におはぎがいる。ちびっこい子が、「大丈夫だよ」って言いながら、オレの頭を撫でてくれた。
まあ、しかたがないか。妹のためだ。オレのためでもあるけど、まあ、妹のためだ。それだけだ。
――――――
<チャトランの災難>
おはぎちゃん、ホント可愛いわね。
あの子を見ていると、ふと、離れ離れになった子どものことを思い出す。
おはぎちゃんのような、ビロードみたいな黒猫じゃなかった。もう少し焦げ茶の混じった、そう、あたいに少し似た毛色の子だった。でも、あの子も、おはぎちゃんみたいにまん丸な目をしてた。周りをキョロキョロと観察しながら、人になかなか近づかない子だった。
あたいみたいに、もう少し愛想よくしたら?って言ったら、「だってだって」って、駄々をこねてたわね。
あのあと、どうなったか、わからない。あの子のことが一番心配だった。あの頃よりもうまくやれているといいけど。
そんなことをぼんやり考えながら、窓から外を眺めていた。
おはぎちゃんとマロンは今頃、病院だ。早く良くなるといいわね。
そう思っていたら、隣に気配がした。
かぐやちゃんだった。
珍しいな、と思った。かぐやちゃんからあたいのそばに来ることは、あまりない。どちらからともなく、なんとなく距離があった。あたいがどうこうじゃなく、なんとなく、お互いにそういう距離感でやってきた気がする。
かぐやちゃんが、あたいの隣に座って、窓の外を見た。
「あの子たち、ホント騒がしいわよね」
「あたいは、賑やかになったと思ってるわよ」
かぐやちゃんは少し黙った。それから、また外を見た。
この子のことは、嫌いじゃない。ただ、なんとなく、いつも壁がある。最初から、ちょっとそういう感じがしてた。唯一、諭吉さんとだけはそういう壁を感じない。あたいが来る前から、ふたりっきりだった時からの仲だもん。そりゃそうよね。
もしかしたら、あたいが諭吉さんに近づこうとしているって、思ってるのかしら。だとしたら、やめてよ、そんな柄じゃないわよ。きれいなふたりの間に入る気なんて、さらさらないんだから。
でも、そんなこと、言えるわけもない。
ただ、こうして隣に来てくれたのは、なんか、嬉しいな、とは思った。
窓の外で、風が木の葉を揺らしていた。
その時、鼻がムズムズしてきた。あら。
クシュン。
あらいやだ。あたいも風邪をひいたのかしら。
ふと気配がして振り向くと、でっかい人が廊下からこちらを見ていた。慌てたような顔をして、スマホを持って何かを調べ始めた。
何?そんなに慌てなくっていいわよ、と思ったけど、なんだか体がだるくなってきた。
まあ、今日は大人しくしてようかしら。
――――――
<かぐやの災難>
柄にもなく、チャトランさんに話しかけてしまった。
あの背中を見ると、なんだか切なくなるのよね。
最初に会った頃、少し勝手に嫉妬みたいな気持ちを持ってしまっていた。理由なんてうまく言えないけど、なんとなく、あの人は最初から諭吉さんと同じ匂いがしたというか、この家に馴染むのが早かったというか。それが気になって、話しかけにくくなってしまった。自分でもおかしいとは思ってたのよ。でも、なかなか、そういう気持ちって、簡単には直らないものなのよね。
ただ、チャトランさんの背中を見ていると、そういう気持ちが薄くなっていく。
この家に来る前、相当苦労してきたのよね、あの人。地震があって、子どもたちとはぐれて、それでもひとりで生きてきた。あたしなんて、苦労する前にこの家に来ちゃったから、よくわからないけど。ずっと外で暮らすって、どういうことなのか、想像もできない。
おはぎちゃんを世話しているあの背中を見ていたら、ついつい隣に行ってしまった。他愛もない話をした。チャトランさんと、こんなふうに話せたのは初めてだったかもしれない。
ついつい、そんなことを考えてしまう。やっぱり、チャトランさんの隣にいてから、変だ。
マロンのことも頭に浮かんだ。あの子を見ていると、もしあたしに子どもがいたら、あんな男の子になっていたのかな、なんて思ったりする。でも、諭吉さんとなんて……って、あたし、何考えてんだろ。
まったく、柄にもないことばかり考えてしまう。
クシュン。
あら、嫌だ。
あたしもうつってしまったかしら。鼻がむずむずする。体が、なんとなく重たい。もしかして、これが風邪というものかしら。
初めての感覚だった。この家に来てから、ずっと健康だったから、こういう感覚は知らなかった。なんか、嫌ね。
諭吉さんのそばに行きたいな。
でも、うつしてしまったら申し訳ない。
だから、遠くから見ていることにした。
――――――
<諭吉は無事>
なんか、騒がしいな。
俺はいつもの定位置で、ぼんやりとそれを聞いていた。
くしゃみの音がした。一回ではなかった。何度も、あちこちから聞こえた。かぐやの方から。チャトランの方から。それから、もっと遠くから、おはぎとマロンの。
ふむ。
風邪か。
長くこの家にいるが、風邪がこんなに広がったのは初めてだな。それだけ、賑やかになったということか。前はこんなに広がりようもなかった。マロンとおはぎが来てから、この家は変わった。音が増えた。においが増えた。それが今は、くしゃみになって広がっている。
やれやれ。
しばらくして、お母さんとちびっこい子が慌ただしくなる音がした。キャリーケースが出てくる音がした。それから、玄関が開いて、閉まった。おはぎとマロンが連れていかれたんだろう。
残ったのは、かぐやと、チャトランと、俺だ。
かぐやが、遠目でこちらを見ていた。
ん?いつもならそばに来るのに、今日は寄ってこないな。
クシュン。
かぐやも風邪か。
だからそばに来ないのか。うつしてしまうと思って、気を回しているんだろう。そういう子だ。そういうことを、さりげなくする子だ。
俺は何も言わなかった。ただ、そこにいた。
かぐやの方を、一度だけ見た。
目が合った。かぐやが、少し目を細めた。それだけだった。それだけで、十分だった。
チャトランは、窓辺で丸くなっていた。いつもより元気がなさそうだ。でっかい人が心配そうな顔で、時々チャトランの様子を見に来ていた。
俺はいつもの椅子の下で丸まり直して、目を閉じた。
みんながいる。この家はいつも通りだ。少し騒がしくなったが、それだけのことだ。
風邪は、治る。
早く良くなるといい、とだけ思った。
俺は、あくびをして、また眠った。




