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この家の、あかり  作者: めこねこ


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13/21

第六話の裏で ―家族にとっての、風邪

 土曜日の午後をゆっくり過ごすのが、私にとっては大事な時間だった。


 日曜日は、月曜日からのことを考えて慌ただしくなる。だから、同じ休みでも土曜日の午後は特別だと思っていた。そのために、午前中のうちにお風呂掃除と夕飯の下ごしらえを終えて、昼食後からのゆったりタイムに備えていた。


 でも……。


 娘の一言が、それを一変させた。


「お母さん、マロンがくしゃみしてる」


 昼食後の洗い物を終えて、コーヒーを淹れようとお湯を沸かしていたところだった。青天の霹靂、とはこのことだろう。


 くしゃみ?


 猫がくしゃみをすること自体は、珍しくはない。ほこりを吸い込んだとか、毛づくろいの際に自身の毛が鼻についたとか、そういうことはよくある。でも、娘の顔が少し心配そうだったから、タオルで手を拭いて、娘に抱えられたマロンを見た。


 いつもなら元気いっぱい、私がそばに寄ると少し身構えて逃げ出す体勢をとるマロンが、今日は大人しく娘に抱っこされたまま、近づいても逃げない。顔をよく見ると、鼻のあたりが少し湿っている。目も、心なしかしょぼしょぼしている。


「マロン?」


 声をかけると、やはり覇気のようなものが感じられない。あのマロンがこの感じ、と思うと嫌な予感がした。具合が悪い時は、猫も大人しくなる。それを知っているから。


 しゃがんで顔を近づけてみた。私の顔に向けて、鼻をクンクンさせている。


 クシュン。


 くしゃみが出た。小さな、でも確かなくしゃみ。


 やっぱり、風邪だ。


 頭の中で、ぐるぐると考えが回り始めた。他の子にうつっていないか。うつっていたら大変だ。まず確認しないといけない。


 そう思った瞬間だった。

 別の部屋から、聞こえた。


 クシュン。


 ゆっくりと、くしゃみの主がいる部屋へと向かった。おはぎがいた。クッションの上で丸くなって、少し目がうるんでいた。おはぎがこちらを見た。いつもの、まん丸な目で。でも、いつもと少し違う。目の潤みが強い気がする。


「おはぎまで……」


 思わず声が出た。

 娘を呼んだ。


「病院、行くよ」


 娘はすぐに頷いた。この子は、こういう時に頼りになる。マロンもおはぎも、娘にしか抱っこさせない。他の誰が近づいても逃げるくせに、娘だけは別だ。なんでそうなのかは、いまだによくわからないけれど、今日ばかりはその不思議な力が本当にありがたかった。


 キャリーケースを二つ、押し入れから出した。


 この音を聞いた瞬間に、猫たちはだいたい察する。どこかへ逃げようとするか、固まるか。でも今日のマロンは、ケースを見ても動かなかった。おはぎも、娘に抱き上げられるまま、おとなしくしていた。


 やっぱり、具合が悪いんだ。


 二匹をそれぞれのケースに入れて、玄関を出た。


――――――


 行きつけの動物病院は、家から車で十分ほどの場所にある。


 受付で名前を告げて、待合室のベンチに座った。娘が隣に来て、ケースをのぞき込んでいた。マロンは、ケースの中でじっとしていた。おはぎは、ケースの奥に体を押し込んで、目だけこちらに向けていた。


 この子は、怖いんだろうな、と思った。病院のにおいは、独特だ。消毒のにおいと、他の動物のにおいと、なんか緊張したにおいが混ざっている。


 名前を呼ばれて、診察室に入った。


 先生がマロンをケースから出して、丁寧に診察してくれた。鼻の状態、目の状態、喉の奥まで確認した。


「鼻風邪ですね。ウイルス性のものでしょう。他の子にも移る可能性がありますから、できるだけ隔離してください」


 隔離、か。


 五匹もいて、一軒家とはいえ、どうやって隔離したらいいかしら。そんなことを考えながら、おはぎの診察も受けた。


「おはぎちゃんのほうが酷いですね。この子からうつっちゃったかな。」


 同じく、鼻風邪。


 薬をもらって、支払いを済ませた。


 ほっとした。薬を飲ませれば治る病気。これで一安心だ。

 そう思いながら、駐車場に向かいながらスマホの着信に気がついた。夫からのメッセージ。なんだか嫌な予感がする。


『チャトランがくしゃみしてる。なんかおかしい』


 思わず立ち止まった。

 やられた。


 頭の中で、チャトランの顔が浮かんだ。あの子はいつも愛想がいいから気がつかなかったけど、もしかして朝から具合が悪かったのかもしれない。そういえば、今朝、お父さんの足元をぐるぐるしながら鳴いていたのは、いつもより念入りだった気がする。


 娘を見た。娘が頷いた。また来た道を戻って、受付に声をかけた。


「もう一匹、連れてきていいですか」


 先生が笑いながら「どうぞ」と言ってくれた。

 すぐに夫に電話した。


「すぐに帰るから、チャトランを諭吉とかぐやに近づけないで。」


 電話口の夫が、少し慌てた声で「わかった」と言った。

 急いで自宅へとんぼ返り。慌てても仕方がないと、慎重に車を運転しながら、頭の中でこれからのことを考える。


 ケージは二匹までなら入るスペースがあるが、三匹は無理だ。子ども部屋のドアを閉めて、そこにトイレを用意すれば、他の子との接触は避けられるか。そんなことをぐるぐると考えながら、バックミラー越しに娘をちらりと見た。


 娘がケースに顔を近づけて、マロンとおはぎに話しかけている。この子は本当に、猫たちと何かが通じている気がする。何を話しているのかはわからないけど、マロンが少しだけ鼻先を動かしているのが見えた。


 自宅に着くと、夫とチャトランが玄関で待っていた。いつでも出発できる準備が整っているようだった。


 マロンとおはぎを娘と一緒に子ども部屋に残して、チャトランのケースを手に、また車に乗り込んだ。


 チャトランはケースの中で、いつもの甘えた声もなく、おとなしくしていた。目が少し細くなっている。やっぱり、具合が悪いんだ。


 診察室に入ると、先生がチャトランを診て「この子も同じですね」と言った。


「三匹みんな、同じウイルスからきていると思います。うつりやすいので、残りの子たちにも気をつけて」


 残りの子たち。

 諭吉と、かぐや。

 どうか、その二匹だけは。


 心の中で手を合わせながら、支払いをした。


――――――


 家に帰ると、子ども部屋にはマロンとおはぎが、ケージにはチャトランが、それぞれ落ち着いた体勢で収まった。


 唯一、助かったのは、この三匹が薬をご飯に混ぜても気づかずに食べてくれることだった。チャトランは相変わらずモリモリと平らげるし、マロンもがつがつと薬入りのご飯を食べる。元々食の細いおはぎも、ウェットタイプのご飯は好きなので、出されたものを綺麗に食べてくれた。


 これが諭吉だったら、薬をすぐに察知して、まったく食べてくれないだろう。かぐやも勘が鋭い方だが、錠剤なら夫が口をうまく開けてさっと入れると飲んではくれる。でも、その二匹にはかかってほしくない。できることなら、このまま無事でいてほしかった。


 夜、夫と二人でリビングに座りながら、猫たちの様子を見ていた。


「諭吉とかぐやは大丈夫そうだな」

「そうね。うつっていないといいけど」


 諭吉は、いつもの椅子の下で丸くなっていた。かぐやは、窓辺から外を見ていた。いつも通りだ。それが、少しだけほっとする。


 でも、翌日だった。


――――――


 かぐやがくしゃみをした。


 朝ご飯の後、台所の片付けをしていたら、聞こえてしまったのだ。


 クシュン。


 かぐやらしくない音だった。あの子はいつも、こういう音を出さない。上品な子だから。


 嫌な予感がして、洗面台の方へ向かった。かぐやがいた。いつもなら蛇口の前でお行儀よく座って、「ニャア」と一声鳴いて水をねだるのに、今日は縁に座ったまま、鼻をぐずぐずさせていた。


「かぐや……」


 近づくと、かぐやが顔を向けた。いつもより目がしょぼしょぼしている。

 また来た。

 すぐに夫に声をかけた。


「かぐやも病院に連れていかないといけない」


 夫が顔を上げた。


「今日、かかりつけ、休みだぞ。日曜日だから」


 そうだった。

 スマホで近くの動物病院を調べ始めた。日曜日に診察をしているところ。口コミを見ながら、一番近くて評判のいい病院に電話をした。いつでも来てくださいとの返答をもらって、ほっとした。


「行こう」


 夫が運転する車の助手席に乗って、かぐやのケースを膝に置いた。


 いつもは娘が助けてくれるけど、かぐやは誰でも抱っこできる。この子だけは、誰にでも身を任せる。それが、かぐやのかぐやたるところだ。

 車の中で、ケースを覗いた。かぐやが、こちらを見ていた。澄ました顔をしていた。でも、目がいつも以上に潤んでいる。


「大丈夫よ」


 声をかけた。かぐやは答えなかった。でも、目を細めた。それだけで、なんとなく伝わった気がした。


――――――


 初めて来る病院は、少し雰囲気が違った。においも、レイアウトも、少し違う。かぐやがケースの中で、わずかに体を固くしたのがわかった。


 名前を呼ばれて、診察室に入った。


 先生が、かぐやをケースから出した。


 かぐやは、診察台の上で、じっとしていた。

 触診をされて、喉を確認されて、先生が「やはり風邪ですね」と言った。「他の子からうつったんでしょう。注射を打ちますか?飲み薬より効果が早いですよ」


 注射。


 今まで、かぐやに注射を打ったことはなかった。いつもは薬、それも錠剤で対応していた。でも、早く治してあげたい。夫と目を合わせて、頷いた。


「お願いします」


 先生が注射の準備をした。

 かぐやは、じっとしていた。逃げなかった。暴れなかった。ただ、静かに、診察台の上にいた。注射が刺さった瞬間も、声一つ出さなかった。さすがだ、と思った。この子は、いつでもこういう時に品がある。


 でも。


 処置が終わって、かぐやをケースに戻そうとした時、気がついた。


 診察台の上に、小さな跡が残っていた。

 肉球の形をした、四つの跡。

 汗だった。


 かぐやの肉球から汗がにじみ出て、診察台の上に、くっきりと足跡が残っていたのだ。


 思わず、夫と顔を見合わせた。


 かぐやは、ケースの中で、いつもの澄ました顔をしていた。びびってなんかいない、という顔をしていた。でも、その足跡が、全部教えてくれていた。


 本当は、怖かったんだ。


 怖かったけど、じっとしていた。逃げなかった。

 なんだかおかしくて、でも、じんわりとしてしまった。この子らしいな、と思った。怖くても、平然としていようとする。それが、かぐやという猫だ。


「頑張ったね」


 ケースに向かって、小声で言った。かぐやは、こちらを見なかった。窓から外を見ていた。


――――――


 家に帰ると、夫がかぐやをケースから出して、いつもの場所に降ろした。

 かぐやはゆっくりと歩いて、窓辺に向かった。いつもの場所に座って、外を見始めた。


 よかった。


 それから数日、この家はてんてこまいだった。


 毎食、三匹のご飯に気づかれないよう薬を混ぜ、夫は朝と晩、器用にかぐやの口を開けて錠剤をうまく飲ませた。四匹とも食欲が落ちていないことが、唯一の救いだった。


 そんな中で、一匹だけ、やたらと元気な猫がいた。


 おはぎだ。


 風邪の元凶として我が家の猫たちを巻き込み、最初に病院に連れていかれて、最初に薬を飲んで、最初に回復した。他の誰よりも早く元気になって、病院から帰ってきた翌日には廊下を走り回っていた。


 諭吉だけは、とうとう風邪をひかなかった。


 あの子は丈夫なのか、年の功なのか、はたまた椅子の下という秘密基地が防壁になっているのか。とにかく、諭吉だけは、くしゃみひとつしなかった。


――――――


 騒動が一段落した夕食の時、家族四人でその話になった。


「おはぎ、最初に風邪をひいて、一番元気になるの早かったよね」


 息子が言った。


「それで、マロンにうつって、チャトランにもうつって、かぐやにうつって」


 娘がおかしそうに笑いながら言った。


「やっぱり、風邪ってヒトにうつすと治るって本当なんじゃない?」


 夫が箸を置いて、うんうんと頷きながら言った。


「猫でも同じなのかもな」


 思わず笑ってしまった。

 笑いながら、でも、ちょっと待って、と思った。


 うつすと治る。


 つまり、おはぎはこの家の猫たち全員に風邪をうつして、一番先に元気になった。被害者のようで、実は一番したたかなのは、あの子かもしれない。あの慎重で、じっと観察している黒猫が、この家の風邪騒動の震源地で、かつ一番の勝者だったとは。


「おはぎ、やるわね」


 思わず口から出た。


 娘が「でしょ!」と笑った。息子が「さすがおはぎ」と言った。夫が「まあ、みんな元気になったからよかった」とまとめた。


 リビングの隅で、おはぎが丸くなっていた。こちらを見ていた。まん丸な目で、じっと見ていた。


 知ってたの?


 そう聞きたくなったけど、おはぎは答えなかった。ただ、ゆっくりと目を細めて、また丸くなった。


 諭吉は、椅子の下にいた。いつも通り、静かに、そこにいた。


 全員、元気になった。

 それだけで、十分だった。

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