第七話 となりは、誰?
<おはぎとチャトラン>
今晩は少し冷える気がする。
家族全員が寝静まった夜にふと目が覚めたおはぎは、丸まり直しながら、少し頭を上げた。
かぐやさんは、いつものとおり、お母さんの布団に入りに行った。マロン兄さんは、扉が開け放たれたケージの三階に上がり、そこで寝ている。誰にも邪魔されない場所、ボスの子はいつでも危険と隣り合わせだからなんて言っているけど、要は高いところが好きなだけでしょ。諭吉さんは、いつも椅子の下。なんであそこがいいんだろう。そして……チャトランさんは、いた。ちびっこい子の椅子の上、わざわざチャトランさんのために敷かれたふかふか毛布の上で、寝ている。
グーッと長い伸びをして体をほぐし、チャトランさんが寝ている椅子の近くまで行く。直接乗ると起こしてしまうかな、と思って、わざわざテーブルにトンッと飛び乗り、それから静かにチャトランさんの眠る椅子に降り立つ。
チャトランさんは、わたしが来たことに気がついているみたいだけど、目を閉じたまま。規則的に上下に動いていた胸の動きが、少しだけ落ち着いた。わたしが近づくのを待っているようだった。
わたしは、起きているのはわかっているけど、起こさないようにそっと近づいていますよ、という感じで体を寄せてみる。あまり広くない椅子の上。どうしても密着してしまう。
チャトランさんの呼吸音がすぐ近くに感じられる。マロン兄さんみたいに、ふがーふがーって下品な音じゃない。大人の寝息。静かで、ゆっくりで。失礼な言い方だけど、かぐやさんみたいにお高くとまっている感じじゃなく、ゆったりとした大人の感じ。
その呼吸音を背に受けるように丸まる。少しだけ距離を置いて。身近に呼吸音と体温を感じていたら、今晩は朝までぐっすり眠れそう。
そんな気持ちで近くに来ただけ……。
グッと大きなものが動く感触。チャトランさんが起きたみたい。グーッと大きな伸びをしているのがわかる。もしかして、わたしが来たから別の場所に行ってしまうの?少し寂しい気持ちでいると、チャトランさんは、わたしの背中にくっついて寝直してくれた。背中全体が、チャトランさんのお腹の温もりを感じる。呼吸音だけでなく、チャトランさんの心臓の音まで、背中に伝わってくる。
「今夜は冷えるからね」
ぼそりと、チャトランさんの声が聞こえた。背中だけでなく、お腹の中まであったかくなった。
ペロペロペロ……。
頭を舐めてくれる音が聞こえる。頭がぼーっとして、耳からしか刺激が入ってこない。
「もう遅いからね、今日はこのくらいにしておこうね」
静かに言って、さらに体を寄せて、またチャトランさんは大人の寝息を立て始めた。わたしはぼーっとした頭のまま、深いまどろみに落ちていった。
お母さんって、やっぱりこんな感じなのかな。
その日は夢を見た……と思う。懐かしい夢のような気がした。お兄ちゃんと一緒に、お母さんについて家々の塀を昇り降りするような。
でも、お母さんはチャトランさんだった。
お母さんと一緒に過ごしてきた時間よりも、チャトランさんと過ごす時間のほうが随分長くなっていることに気がついた。
――――――
<マロンとおはぎ>
最近、チャトランさんと一緒に居る機会が多いよな、おはぎは。
寂しくはないんだけど、この家に来た時、オレの後ろで固まるばかりだったおはぎ。オレが守んなきゃと気張っていたのに、あいつ、あっという間に溶け込んで、チャトランさんの横を定位置みたいにしやがって。
そう思いながら、いつものケージの三階に陣取った。
ここはいい。部屋の隅、テレビの近く。
誰もが通るリビングの入口近くにあるケージの上。通るヒトの気配を感じることができるし、だからといって、わざわざオレのいるところまで手を出してくるわけでもない。まどろむにはちょうどいい場所。自由が似合うオレには、ぴったりだった。
すると、ガチャガチャと誰かが上に登ってくる音がする。おはぎだった。
「お兄ちゃん、ちょっといい?」
おはぎが、三階の床とは別に吊り下げられているハンモックに丸まりながら話しかけてくる。
「なんだよ」
相談ごとならチャトランさんにすればいいのに。まぁ、肝心な時には兄を頼るってことか。まぁ、オレは頼りになるからな。話くらいは聞いてやらなくもないぞ。
「あのね、最近夢を見るんだけどね。お母さんじゃなくって、チャトランさんがお母さんで出てきて、私たちと暮らしているんだ」
「ふ、ふ〜ん」
え、なになに。オレと一緒じゃん。オレも最近の夢には、チャトランさんが出てきて、かぐやさんと諭吉さんと、そしておはぎがいて……外でメシを調達しながら暮らしている夢を見てる。
「で、何が困ってるんだよ」
「困ってはいないのよ。ただ、そんな夢を見るのって変じゃないのかなって」
変って、オレもおんなじ夢を見てるんだよ。何言ってるんだよ。お前が変なら、オレだって変ってことになるじゃん。
「べ、別に変じゃないと思うぜ」
「え、ホント?」
おはぎが嬉しそうな顔になった。
「だってさ、もうこの家にいるほうが母ちゃんたちと過ごした時間よりも長くなってるじゃん。どっちかって言うと、こっちのほうが家族?みたいな」
「やっぱりそうだよね、そう思うよね」
おはぎが、さらにキラキラとした目でオレを見てくる。なんだよ、悩んでるんじゃなかったのかよ。
「別に普通なんじゃね?みんないいヒトだし、居心地いいじゃん。お、オレもチャトランさんのこと、母ちゃんみたいに思う時あるし」
「え、お兄ちゃんも?ホント?」
ますます嬉しそうに身を乗り出してくるんじゃないよ。調子狂うな〜。
「話、それで終わり?」
「うん、ありがと。ふふふ」
おはぎはそう言って、もと来た道を降りていった。なんだったんだよ、まったく。
でも、この家に来た時に比べて、随分明るくなったな。あんなに怯えていたのに、今じゃオレから離れてひとりで寝ても平気だし、チャトランさんとも仲良しだし、かぐやさんたちともよく話をしている感じだし。
ちぇ、なんか面白くないな。そうだ。
ちらっと見ると、ピアノの下のクッションで丸くなるかぐやさんが目に入った。ニコッと頬が上がった気がする。
そっと、降り立つ。ドン。
静かに近づく。ドタドタ。
あ、かぐやさんが気がついてピアノの上に上がった。
よ〜っし。楽しい時間到来だ!
――――――
<かぐやとマロン>
最近、マロンがやたらと私にちょっかいを出してくる。
ホント、私のことをなんだと思っているのよ。一応、あなたよりも年上のお姉さんなんですけど。
とは思っても、私の体は小さい。男の子もおチビちゃんも、私を子猫みたいに扱うけど、違うのよ。私はそういう血筋なの。マロンみたいに図体がでかいボス猫の親から生まれた子じゃないのよ。どこか品のある、小柄なお母さんから生まれたんだから、仕方がないじゃない。
そうは思っても、やはり複雑な気持ちになる。まだ子猫だというのに、私よりも体の大きいマロンやおはぎを見ると、ちょっぴり複雑なのよね。チャトランさんも決して体が大きい方ではないけれど、毛並みのせいか、少し大きく見える。だからおはぎも、チャトランさんにお母さんを重ねて懐いているのかしら。
で、私は同じ子猫扱いでちょっかいを出され……。ホント、複雑な気持ちよ。
そう思っていたら、またマロンがやってきた。面倒くさい。
ポーンとアップライトピアノの上に乗り、やり過ごそうとする。すると、マロンが下に伸びた私の尻尾に向けて、チョンチョンとちょっかいを出してきた。遊ぼうとか言ってくれるならともかく、ニコニコとするだけでちょっかいを出してくるから、面倒に思ってしまう。遊びたいなら遊びたいって言いなさいよ。
面倒くさいので、一発「シャー」を入れてやる。少しは怯む……かと思ったけど、まったく怯まないわね。マロンは器用にピアノの足に前足をかけて立ち上がり、私に迫ろうとしている。ただ、ニコニコとした顔をして。
あ〜、もう面倒くさい。
仕方がないので、ポーンとピアノから飛び降り、二階に向けて猛ダッシュをかける。追いつけるものなら追っかけてごらんなさいよ。
マロンも負けじと追っかけてくる。もう、その体で何よ。ドタドタと下品な音を立てて。私みたいにしなやかにスピーディーに走りなさいよ。
でも、全速力の私に対して、ドタドタとした走りで悠々と追いついてくる。この体格差、嫌になるわ。
もう追いつかれる、と思った瞬間、後ろからの圧がなくなった。
ふっと振り返ると、おチビちゃんが走っていたマロンをヒョイッと捕まえて、抱っこしていた。さっきまで私との追いかけっこをしていた活き活きとした顔とは違い、トロ〜ンととろける顔をしちゃって。
もう何よ、せっかく遊んでやってたのに。そっちのほうがいいのね。
プリプリしながら、ふと思う。あら、私ったら、ニコニコとしていた。久々の運動、悪くなかったわ。そう、運動不足はいけないものね。
そして私は、おチビちゃんの大事なぬいぐるみを詰めたナイロン製の大きなカゴの中に埋もれた。私だけの秘密の場所。ぬいぐるみに紛れて、みんなに見つからない場所。これでゆっくりまどろむことができそうだわ。
寝床のぬいぐるみに埋もれ直しながら、もう一度思った。
良い運動になったわ。また付き合いなさいよ、マロン。
――――――
<チャトランと諭吉>
お昼ご飯を食べた後に、静かなリビングにいるとどうしても眠くなるわね。
あたいたちにとっては、寝るのも仕事のうちだけど、なんだかもったいない気がするのよ。そう思って、二階の日当たりと眺めの良い特等席に向かった。あそこで外を見ながらまどろむの、好きなのよね。なんて思ったら、先客がいた。諭吉さんだわ。
諭吉さんは相変わらず、凛々しい顔立ちで背筋をぴんと伸ばし、まっすぐに外を眺めている。いや、眺めているというよりも、何かを考えに耽っている顔かしら?邪魔しちゃいけないかな、と思いつつ、隣に座ってみる。諭吉さんが眺めているものを一緒に見たら、私も少し上品になれるんじゃないかしら?なんて柄にもないことを思ったのよ。
しかし、見えるのはいつもの庭。少し雲のかかった青空。遠くには山が少し見え、建物が連なり、田んぼがあって、庭の木々が見えている。なんの変哲もないけれど、毎日見ていると季節を感じる眺め。それをぼんやりでもなく、のほほんとでもなく、キリッと眺めている諭吉さん。
あ、いけない。見惚れちゃったらかぐやちゃんに怒られちゃうわ。柄にもないこと考えないうちに。
「何が見えるんです?」
「あなたは、外にいたことがあるんですよね。どんな匂いなんです、外は」
そうか、諭吉さんは家の外の世界を知らないんだ。
「匂いは、この家と変わりませんよ。でも、一つだけ言うなら、臭い匂いがあるの」
「臭い?」
「そう。この家にいたら、美味しい匂い、ヒトの匂い、風が運んでくる自然の匂い、洗剤の匂い、楽しい匂い、元気な匂い。とにかく、いい匂いしかしないでしょ?でもね、外には臭い匂いもあるの」
「……そうか」
そう言って、また諭吉さんは外を眺めていた。変なこと言っちゃったかしら。でも、それしか言いようがないのよね。ご飯も美味しい匂いの時もあれば、臭い時もある。ヒトからも、楽しい匂いだけが漂ってくるわけじゃない。一言で言うなら、臭いものも、あるのよ。
ふと、背中に視線を感じる。
あ、かぐやちゃんだろうな。そろそろお暇しましょうかね。
素知らぬ顔で、諭吉さんから離れ、かぐやちゃんの横を抜けていった。
少しだけ、諭吉さんの心が感じられた気がして、嬉しかったのは……まぁ、野良歴長いあたいの特権よね。
――――――
<諭吉とかぐや>
チャトランに外の世界のことを聞いても、よくはわからなかった。
ふと、代わりの気配に気がついた。チャトランの気配は遠慮がない感じだが、この娘の気配は遠慮が過ぎる。こちらが声をかけないと、近づいてこないことがある。
「眺め、いいぞ」
「じゃぁ」
すっと横に来る気配。外を眺めながら、かぐやの温もりを感じる。チャトランよりも、こういうことには積極的なんだよな……と思い、ごほんと咳払いをしてしまう。
「何、話してたんです?」
「いや、家の外のことを聞いたんだ。どんな匂いかって」
「匂い?」
「そう、匂い」
ここまで言って、我ながら、なぜ匂いのことを聞いたのかと思い返した。でも、そうとしか聞けなかった。何があるのか、どうなっているのか、私の知る世界の外のことは、匂いでしか想像できない。
「私の知っている匂いは、竹の匂いかな」
「竹?」
「そう、竹。ほら、あっちの、緑色のまっすぐに伸びた木。あれが竹よ」
「どんな匂いなんだい」
「笹っていってね、木の葉っぱとは違うの、竹の葉っぱは。風が吹くと、サラサラって音を立てるの。そしたら、ほのかに竹の匂いを運んでくれるの。緑色の強い匂いを」
「緑色の匂い?」
「そ、緑色。特にね、私がこの家に来る前の時期が一番濃いんだって、お母さんが言ってたの」
「そうか」
新緑の香りとは違うのだろうな。ベランダから手が届くところに咲く桜の木。その葉の匂いとも違うのだろうな。別の匂いがする葉っぱ……か。一度、匂ってみたかったな。
遠くの山をもう一度見直しながら、そんなことを思う。
「でも、私は、この家の匂いのほうが好きになったかな」
「わかるよ」
この家の匂いはいい。あったかいし、何よりも、明るい。何か、私たちの心を照らすような、匂いがする。
ふと、美味しい匂いが漂ってきた。お母さんの呼ぶ声も聞こえる。
かぐやを伴い、一階に降りよう。今は美味しい匂いを楽しもう。




