第四話「おはぎは、べつに心配してない」― おはぎの話
わたしは臆病じゃない。
慎重なの。
似てるようで、全然違う。臆病ってのは、怖くて動けないこと。
慎重ってのは、ちゃんと見てから動くこと。
わたしは、後者。
どんな場所に行っても、まず見る。観察する。
どこが安全で、どこが危なくて、誰が信用できて、誰が要注意か。それを全部把握してから、初めて動く。
お兄ちゃんは、わたしのことを臆病だと思ってる。あの顔を見ればわかる。顔に出しすぎなんだよ、お兄ちゃんは。
でも違う。わたしはちゃんと見てるだけ。焦らないだけ。それを、臆病って言うのは違うと思う。
それに、お兄ちゃんがわたしのそばにいるのは、わたしを心配してるからじゃない。
わたしは、知ってる。
わたしがいないと、お兄ちゃんは不安なの。自分のために、わたしのそばにいるの。わたしという「慣れたもの」がそばにあると、お兄ちゃんは安心する。わたしという存在を守っているって気持ちが勇気に変わる。だから離れない。それだけ。
わたしは、悪いとは思わない。
わたしも、お兄ちゃんがそばにいると落ち着く。お互い様。ただ、お兄ちゃんはそれを「心配してる」って言い換えてる。そのズレが、ちょっとおかしい。でも、言わない。言っても、理解しないから。
―――
保護施設は、居心地がよくなかった。
においが混ざりすぎてた。猫のにおい、人間のにおい、薬のにおい、金属のにおい、洗剤のにおい。全部が主張してた。どれかだけを辿ることができなかった。わたしは、においで場所を理解するから、においがごちゃごちゃだと、どこにいるかわからなくなる。落ち着かなかった。
音もうるさかった。誰かがいつも鳴いてた。ドアが開く音、閉まる音、人間の話す声、足音。止まらなかった。静かな時間がなかった。
お兄ちゃんは施設の人たちにずっとそっぽ向いて、反抗してた。わたしはそういうエネルギーの使い方、もったいないと思う。ここが変わるわけじゃない。戦っても、何も変わらない。ただ、疲れるだけ。だから、わたしはただ見た。観察した。誰が来たか、誰が何をしてるか、どこが出口か、どこが安全か。
情報を集めた。それだけ。
だから、ここから出られるなら、出たかった。正直、どこでもここよりはマシだと思ってた。
―――
ある日、見慣れない人間が来た。でっかい男の人と、女の人。
見た瞬間、体がこわばった。この大きさ、知ってる。
わたしたちがお母さんと引き離された時に来た人間たちと、同じくらいの大きさ。あの時のことを、身体が覚えている。大きな手が来て、逃げられなくて、知らない箱に入れられて、お母さんのにおいが遠くなっていった。あの感覚が、身体の奥から戻ってきた。
油断しない。絶対に、油断しない。
わたしはゲージの奥に下がった。これは臆病じゃない。距離を置いて、ちゃんと見るため。あの人がどういう人か、何をしようとしてるか、見極めるため。
でも、一つだけ心配だった。――お兄ちゃんと、引き離されること。
お兄ちゃんはわたしよりずっと強い。当たり前だけど、外でも中でも、お兄ちゃんの方が堂々としてる。
でも、わたしがいなくなったら、お兄ちゃんは泣く。
絶対泣く。
強がって、「関係ない」って顔して、夜中にこっそり泣く。わたしにはわかる。
お兄ちゃんが頑張ってる時の背中と、無理してる時の背中、わたしには区別がつく。お兄ちゃんの背中は、嘘をつけない。
だから、わたしがしっかりしないといけない。お兄ちゃんのために。
ゲージの扉が開いた時、全身に力が入った。どっちが連れられていかれるの?
ゲージの中にはわたしたち2人しかいない。今まで散々見てきた。知らない人が来て、気がついたら兄弟が、仲間たちが一人、また一人と連れてかれた。
お兄ちゃんとわたし、どっちかが連れてかれる。
でも、次の瞬間――お兄ちゃんと一緒に抱えられた。カゴが二つ。別々だか一緒に、運ばれた。
…引き離さない?
一緒に、連れていく?
そんなの、想定してなかった。
低く唸るような音がした。これは車の音。施設に連れて来られて時にも聞いた音。
わたしたちは車の中にいる。隣のカゴからはお兄ちゃんの気配を感じる。お兄ちゃんは前を向いてた。でも、耳がこっちに向いてた。
わたしのこと、確認してた。わたしも確認してた。
お兄ちゃんがいる。それだけで、少し、体の力が抜けた。
でっかい人のことは、まだ信用してないけど、一個だけ、見直してやってもいいかもしれない。
ほんの、一個だけ。
―――
でっかい人に抱えられて、家に入った。フワッとにおいがした。
猫のにおい。三匹分。
わたしはカゴの奥から、そっと観察した。
白黒の子――かぐやさんって言うらしい――は、ふんわりとした感じ。わたしたちを見て目をまるくしてる。やさしそうにも見えるけど、でも、不躾に値踏みしている感じにも見える。ちょっとだけ緊張した。じっくりと観察されている感じ。頼っていいのか、まだわからない。
サビ色の子――チャトランさん――は、お兄ちゃんをじろって見たあと、わたしにはなんだか温かい目を向けてきた。瞬間的に、この人、苦労してきたんだな、ってなんとなくわかった。わたしたちと同じような苦労をしてきた目だって。そして、いろんなものを見てきた目に見えた。信用できそう。
グレーの子――諭吉さん――は、一番遠くにいた。少し離れた場所から、静かにジッとわたしたちを見ていた。落ち着いた目だった。何も言わなかった。何もしなかった。でも、いた。そのいる感じが、重かった。良い意味で。
この人は違う、と思った。他の子たちと、何かが違う。うまく言えない。でも、なんか、気になった。目が離せなかった。
―――
男の子が、わたしに近づいてきた。「おはぎ!おはぎ!」って呼んでくる。
……もう名前が決まってるの?
おはぎ。
まあ、悪くはないけど。
手を伸ばしてくる。わたしは半歩下がった。また近づいてくる。わたしはまた下がった。何回か繰り返したら、男の子、目がうるうるしてきた。
……なによ、その目。
別に、嫌いじゃない。ただ、まだ早いだけ。信用するのは、もう少し時間が必要。でも、あの子の目を見てると、なんか、罪悪感がある。なんで罪悪感があるんだろう。わたし、何も悪いことしてないのに。
しょうがないな、と思って、指先のにおいだけ嗅いでやった。そしたら、ものすごく喜んだ。声を上げて喜んだ。わかりやすいな、ほんとに。
まあ、いいじゃん。こんなに喜んでくれるなら、そばにいることは許可してあげる。ただし、うるさくしたら許さないけど。手下にしてあげる。
でも、油断はしない。でっかい人には、特に。あの人のでかさは、まだ、怖い。エサをくれても、優しい顔をしても、体が覚えてる。記憶は消えない。慎重でいる。それが、わたしのやり方。
―――
夜、みんなが寝静まった後、わたしは部屋をそっと探索した。
かぐやさんが丸まってるのが見えた。チャトランさんが縁側のそばで寝てた。お兄ちゃん――マロン兄ちゃんが大の字で寝てた。あいつはどこでもよく寝られる。羨ましいとは思わないけど、あの能天気さは、ちょっと羨ましいかもしれない。
窓辺に、諭吉さんがいた。
外を見ていた。夜中に、一人で外を見てる。何を見てるんだろう。暗くてなんも見えないんじゃないの。
月の光がグレーの毛に当たって、とてもきれいだった。
そっと近づいて、少し離れたところから見た。
呼吸が、聞こえた。なんか、重かった。ほんの少しだけど、重かった。いつもの呼吸より、少し、力がいるみたいな感じ。あたしの聞き間違いかもしれない。気のせいかもしれない。でも、聞き間違いでも気のせいでも、こうやって確かめたくなったのは、なんでだろう。
諭吉さんは、外を見たまま、動かなかった。
相変わらず、月の光が、グレーの毛に当たって、きれいだった。
この人、こんな時間に何を考えてるんだろう。窓の外に何があるんだろう。ただ、外を見てるだけ。それだけなのに、なんか、別のものを感じる。うまく言えない。
わたしは、そのまま、その場を離れた。諭吉さんが部屋に戻る気配を、後ろで感じながら。
べつに。
べつに、心配してるわけじゃないし。ただ、気になっただけ。それだけ。
……本当に、それだけ。
……でも、明日も見てみよう。呼吸を、ちゃんとしてるか。




