第二話の終わり ―お母さんは、思った
夫から「こんな猫がいるんだけど」と言われたとき、正直、私は乗り気ではなかった。
地震で家も街も混乱している最中に、新しい家族を迎えるなんて。一瞬、この人は本気で言っているのだろうか、と思った。幸い、うちは水も電気も確保できていた。けれど、周りにはまだ停電の続く家もあり、屋根にブルーシートをかけたままの家もあちこちにあった。
それでも――そんな時に、猫?
普段は穏やかな夫も、あの時ばかりは子供たちを必死に抱え込み、険しい表情を浮かべていた。ようやく「日常」の欠片を拾い集め始めたばかりの今、わざわざ自分たちから「心配事」を増やす必要があるのだろうか。
諭吉とかぐや、この二匹を守り抜くだけで精一杯ではないか。
そう思った……
SNSの動画を見るまでは。
画面の向こうには、丸くて愛嬌たっぷりの顔でこちらを見上げる猫がいた。小さい身体で、でも必死で、可愛く鳴きながら愛想を振りまくように尻尾を揺らしている。避難所の片隅で、誰彼構わずすり寄っていくその姿。
背景には、疲れ切った顔で地面に座り込む人たちが映っていた。
殺伐とした空気の中で、その猫の周りだけが、ぽっかりと温かな光が灯っているように見えた。
「ねえ、この子の明るさ、うちにぴったりじゃない?」
夫の言葉に、私はハッとした。
諭吉よりも小さいが、かぐやよりは少し大きい子。その絶妙なサイズ感と、何よりもその「必死に生きようとする愛嬌」が、今の私たちの家に、ぴたりとはまる何かのように思えてしまった。
諭吉の冷静さ、かぐやの繊細さ。そこに、この底抜けの明るさが加わったら。
夫に返事をする前に、私はもう決めていた。
「で、いつにする?」
慌ただしい毎日に、一つ予定が加わった。それは、不安に押しつぶされそうだった私の心に、久しぶりに灯った前向きな「行動」だった。
――――
引き渡された時の印象よりも、家に来てからのインパクトのほうがずっと強かった。見ず知らずの私たちに怯える様子もなく、誰よりも甘えてきた。甘い声で鳴き、すり寄ってきて、目が合うと小さく喉を鳴らす。その姿に、私はあっという間に心を掴まれた。もうすっかり、この子の虜になった。
諭吉の凛とした佇まいとも、かぐやの可憐さとも違う。“愛嬌”という武器を持った子だった。
特にご飯を美味しそうに食べる姿がたまらなかった。他の子は、ちょっと餌を変えると途端に食べないのに、この子は何を出されても美味しそうに食べる。「誰もあなたの分は取らないよ」って言っても、聞く耳を持たず、がっつくように食べる。
まるでお皿まで食べてしまうんじゃないかという勢い。その一生懸命さが、なんだか愛おしくて、私もご飯の時間が楽しみになっていった。
ふと、思った。
この子がこんなに必死に食べるのは、外で「食べられない時間」を長く過ごしてきたからだろうか。この子の過去を私は知らない。けれど、その旺盛な食欲は、まだ揺れの続く日々を送る私たちに「生きる」という単純で力強いエネルギーを分けてくれているようだった。
名前を付けるのは難航すると思っていた。
サビ猫、茶色と黒が入り混じった、お世辞にもきれいとは言い難い毛色。決して派手ではないけれど、地域猫だったとは思えないほど毛並みはよく、丸っこくって愛らしい。
「茶々丸」「ちゃーこ」「まるこ」……。
家族みんなで、代わる代わる候補を挙げてみた。子供たちは「キラキラした名前がいい」と言い、私は「諭吉とかぐやが和風だから、同じように和風で落ち着いた名前がいい」と譲らなかった。
どれもしっくりこないまま、当の猫は、私たちの足元をご機嫌に八の字に歩いている。そんなとき、夫が、ソファーに座り込んでぽつりと言った。
「チャトランがいいじゃん」
リビングが、一瞬静まり返った。
え、それは茶トラの子に付ける名前じゃ……?
サビ猫、しかも女の子に「チャトラン」。あまりにもひねりがなく、しかも毛色と矛盾している。「パパ、センスないよ」と息子が笑い、娘も不思議そうな顔をしている。
けれど、夫の目は真剣だった。
「あの避難所の動画で、誰かがそう呼んでた気がするんだ。あの子も、反応してたみたいで。……もし、あの子が地域で大事にされていた時の名前がチャトランだとしたら、変えないであげたいんだよ」
夫の言葉に、私の胸の奥がチクリとした。
名前は、その子を表す、生きてきた証そのものだ。もし、この子がかつて誰かの「あかり」だったのだとしたら、その絆を私たちが断ち切る必要はない。
「チャトラン」という名前が、たとえこの子の容姿と違っていても、それがこの子に与えられた名前なのだとしたら。
私は小さく、試すように声をかけてみた。
「チャトラン?」
すると、それまで毛繕いをしていた彼女が、ピタリと動きを止め、こちらを向いて「ニャッ」と短く返事をした。
しっぽをピンと立てて、私の方へトコトコと歩いてくる。その迷いのない足取りを見て、家族全員が納得せざるを得なかった。
「……チャトラン、だね」
我が家の三匹目の名前が決まった。
その夜、ケージの中で丸くなって眠るチャトランを見ながら、私はふと考えた。この子は、前の飼い主さんと離ればなれになったのだろうか。
あるいは、最初から「チャトラン」として、この街のどこかで愛されていたのだろうか。もしそうなら、いつか誰かがこの名前を呼んだとき、この子が「あ、私のことだ」と思い出せるように。私たちは、この名前を大切に呼び続けよう。
諭吉が遠くから、新入りをじっと見守っている。かぐやはまだ少し距離を置いているけれど、鼻先をひくひくさせて、新しい仲間の匂いを確認している。
まだ、余震は続いている。
けれど、この家の中には、新しい鼓動と、少しちぐはぐで、でも温かな名前が響いている。
それが、これからの私たちを支える「あかり」になるような、そんな気がした。




