第二話「チャトランは、お腹が空いた」― チャトランの話
あたいは、このあたりで一番の“地域猫”ってやつだった。
地域猫って言っても、まぁ野良よ。
でも、ご近所さんに顔を覚えてもらってる猫。毎朝、決まった時間に餌場に行けば、誰かがご飯を出してくれる。缶詰の日もあれば、カリカリの日もある。
たまに、お刺身の切れ端なんかが混じってたりして、そういう日は最高だった。
だから、餌場にはいつも、ちょっとだけ早足で行った。早く行かないと、他の猫に取られちゃうから。
そんな餌場で、あたいは一番だった。
愛想の振りまき加減は天下一品!誰に聞いてもあたいが一番って言われるよ。
少しくらい乱暴に頭撫でられても、他の猫みたいに逃げたりしない。嫌がったりしない。ご飯のためなら、そのくらい我慢しなきゃね。
顔なじみの人間が何人かいた。
朝早くから来るおじいさんは、いつも同じ時間に来た。雨の日でも来た。
カリカリっとしたご飯をくれるんだけど、まぁまぁの味。
でも、あの足音が聞こえると、「あ、ご飯だ」ってすぐわかった。
エプロン姿のおばさんは、よく話しかけてきた。
チュルッとしたご飯をくれるから、においにつられて他の猫もわらわらと寄ってくる。我先にとやってくる。おばさんが何を言ってるかはわからないけど、あたいたちに声をかけながら、2本、3本と食べさせてくれた。声のトーンが優しかった。言葉じゃなくて、声でわかるの。あたいのこと、気にかけてくれてる、って。
毛並みとスタイルには自信あるけど、毛色はちょっと地味。
茶色と黒が入り混じった、錆びたみたいな色。虎柄でも三毛でもない、そう、オリジナル。
そんなあたいを、見た目と毛色の感じから人間は好き勝手に呼んでいた。
「たま」って呼ばれることもあれば、「ちゃこ」って呼ばれることもある。
どれも気に入ってはいないけど、ここいらで一番の地域猫。なんて呼ばれても愛想よく返事をした。そんな中でも「チャトラン」と呼ばれた時だけは、ちょっと胸があったかくなったかな。
名前って、悪くない。
呼ばれる度に、ちょっとだけ、自分の“居場所”ができる気がする。野良に居場所なんてないって思ってたけど、名前があると少し違うのよ。
ここにいていいよ、って言われてるみたいな気がする。
あたいには、子どもたちも、いた。
やんちゃな子、おとなしい子、食いしん坊な子。
あたいに似た子もいれば、父ちゃんに似た子もいた。って言っても、父ちゃんの顔は、もう覚えていない。どこかの野良で、一時期一緒にいた。それだけ。
まぁ、猫なんてそんなもんよ。
出会って、別れて、それでも生きていく。べつに、寂しいとは思わなかった。そういうもんだって、知ってたから。
それが、あたいにとっての当たり前だった。
―――
あの日のことは、においから思い出す。
いつもと違うにおいがした。
土のにおいと、埃のにおい、それから人間たちの怖いってにおい。汗と、焦りと、なんか焦げたようなにおいが混ざった。そういう複雑なにおいが、空気に充満してた。鼻の奥がざわざわした。その瞬間――
地面が、グラッと揺れた。
ものすごく、揺れた。地面がうねった。足場がなくなる感じ。乗ったことはないけど、川の上で板に乗ってるみたいな感じ。でも、気持ちよくない。怖い波。立っていられなくて、物陰に逃げ込んだ。ブロック塀の陰に体を押し込んで、丸くなって、ただじっとしていた。揺れが収まったと思ったらまた来た。何度も何度も、揺れた。
建物が音を立てた。ミシミシって、人間の建物がこんな音を出すんだ、って初めて知った。遠くで何かが崩れた音がした。人間の声がした。叫んでる声も、泣いてる声も。あたしは丸まったまま、耳だけ動かして音を拾った。
ずっと長い時間揺れてた。ようやく揺れが落ち着いた頃――気付いた。
子どもたちのにおいが、しなかった。
最近の子どもたちは、自分たちでご飯にありつけていたから、いつも一緒に居たわけじゃない。それでも、子どもたちのにおいがしないのは少し不安。
最初は、散り散りになっただけだと思った。揺れが怖くて、みんな逃げただけだと思った。だから探した。いつも集まる場所に行った。餌場に行った。
にゃんと鳴いてみた。
子どもたちに呼びかけてみた。返事はない。においを辿ってみた。
見つからなかった。
においが、どこを探しても、なかった。足跡もなかった。気配もなかった。
しばらくして、やっと、受け入れた。――もう、いないんだな、って。
ちょっぴり悲しかった。胸の奥が、きゅっとなった。あの子たちの顔を思い浮かべた。やんちゃな子の顔。食いしん坊の子の顔。おとなしい子の顔。
声も、においも覚えてる。
でも、そのあとすぐに、お腹が鳴った。
ほんとうに、お腹って、正直なのよ。
悲しくても、空くものは空く。
涙が出そうでも、お腹は鳴る。
胸が痛くっても、身体は生きようとする。あたい、その時それを知ったのよ。
生きるってそういうことなのかもしれない。気持ちより先に、身体が動く。身体が、次へ行けって言う。
だから動いた。ご飯を探しに。
あの子たちは、きっとどこかで生きている。
優しい人間にご飯を貰っている。
だって、あたいの子だもの。この辺じゃ一番の地域猫の子どもたちだよ。
そう思わないと、動けない。だから、そう思うことにした。父ちゃんの顔はもう思い出せないけど、子どもたちの顔も、声も、においも、覚えてる。みんな、どこかで元気でいればいい。お腹を空かせてないといい。それだけを、願った。
―――
何日経ったのか、わからない。
またいつもの餌場に来た。習慣って、怖いわね。頭より先に、体が動くの。でも、やっぱりいつもと違った。人間たちが慌ただしくて、声が大きくて、空気がざわざわしてた。おじいさんも、エプロンのおばさんも、来なかった。いつものご飯がなかった。
それでも、あたいは来た。他に行く場所がなかったから。ここしか知らなかった。
そんな中、ひとりの女の人がじっとあたいを見ていた。
バタバタしている他の人間と違って、ただ、静かに、あたいを見ていた。目が合っても、動じなかった。近づいてくるわけでもなかった。ただ、そこに立って、静かにあたいを見ていた。
なんなの、と思った。でも、近づいた。
もしかしたらご飯をくれるのかな?ってちょっぴり期待しながら。
それだけじゃないんだよ。その人の目に、怖いものがなかったんだよ。危ないにおいがしなかった。ただ、見てた。それだけ。それが、なぜか、安心した。
その人が、ゴソゴソっと手元の袋に手を突っ込んでいる。何かを出してきた。においがした瞬間、身体が動いた。プライドとか、警戒とか、そういうの全部後回しにして――身体が勝手に動いた。
ご飯!
食べた。夢中で食べた。
何日ぶりかのちゃんとしたご飯だった。冷たくって量もそんなにないけど、餌場でもらってたご飯よりも少し硬かったけど、おいしかった。
食べながら、思った。あたい、意外と弱かったんだな、って。こんなにすぐ人間を頼るなんて、思ってなかった。でも、仕方なかった。一人で生きていくには、限界があった。助けを求めることは、弱さじゃないのかもしれない、ってその時初めて思った。
夢中で食べていると、そっとタオルでくるまれていた。
あ、やばい。
そう思ったけど、食べるのは止められない。
そのままあたいは、箱に入れられた。
落ち着いた時は、真っ暗な箱の中。どうにかしようにも、もう遅かった。
少し暴れてみたけど、出れる感じはしない。
箱が揺れている。体が揺れる。
ブロロロロって音がする。餌場の近くでも聞いたことがある。
車ってやつかな、と思った。どこに行くんだろう。また知らない場所に連れていかれる。また、全部変わる。また、一から始まる。少しだけ怖いな、と思った。
でも、それはご飯を貰う前までの怖さではなかった。あの揺れの夜の怖さとも違った。あの揺れのあとのなんにもない怖さとは比べ物にならないくらい落ち着いている。
たぶん、あの人間の目が優しかったからかな?と思った。
今は、さっきおいしいものを食べたから落ち着いている。それだけで、少しだけ、違った。これはもしかして期待かな?
そんなこと考えながら、揺れに身体を任せていたら、気づいたら眠ってた。
―――
箱が、開いた。
光が入ってきた。目を細めたら、でっかい人がいた。見たことない人だった。でも、においが、悪くなかった。怖い感じじゃなかった。しゃがんで、あたいのいる箱の中を優しく覗き込んでいた。そして無闇に私に触れることなく、ただじっと見て、あたいが何をするのかを待っていた。急かさなかった。
その後ろで、お母さんと男の子とおチビちゃんが見ていた。
どうやら、あたいはこの4人の家に連れてこられたようだった。みんな、でっかい人と同じような優しい目であたいを見ている。
いつもの愛想を振りまくべきなんだろうか?
でも、まだ不安のほうが先に立つ。どうしたらいいのかが分からない。
戸惑いながらいると、箱からゲージへと移された。
少し気持ちが落ち着いてくると、4人の人間の他に、あたいと同じ猫の匂いが混ざっていることに気がついた。
ここには、他にも猫がいるのか。ここで一番にならには、この子達に勝たなきゃいけないのか。一番のご飯をもらうのは大変だな。そう思っていると、遠くから様子を伺う、猫の気配に気がついた。
白黒のハチワレの、毛並みの良い子。その子、ちょっと驚いた顔をしてこっちの様子を見ていた。白黒の、本当にきれいな子だった。唇が薄ピンクでスーッと糸を引いた感じ。とっても華やか。あたいのライバル、この子に勝たなきゃいけないのかと、少し焦る気持ちも出てきた。そんなきれいな子だった。
そんなハチワレちゃんが、私を値踏みするような視線にちょっぴり戸惑いと焦りを感じながらも、あたいはご飯のことばかり考えていた。
すっと、その後ろから、かぐやちゃんとはまた別次元のきれいな猫が出てきて、こっちを見つめてきた。かぐやちゃんのちょっと不躾な感じの目線と違い、観察するようなそんな視線。そのきれいな猫は、じっと遠くから見てきた。静かな視線だった。品があった。ハチワレちゃんの値踏みするような視線とかじゃなくて、ただ、静かに、見てた。あの目を見た時、なんか、ちょっと安心した。ここは、大丈夫かもしれない。根拠はなかった。でも、あの目を見ると、そう思えた。不思議な目だな、と思った。
―――
正直に言う。最初は、信用してなかった。この家が。このひとたちが。
だって、また外に出されるかもしれないじゃない。また何かが起きるかもしれないじゃない。あたい、一回、全部なくしてる。地面が揺れて、においが消えて、子どもたちがいなくなった。一度起きたことは、また起きる。そう思うと、簡単に信じられない。
でも、生きていかなきゃいけない。だから、したたかに行くことにした。甘えることにした。
逆説的に聞こえるかもしれないけど、甘えるってことは、この人たちに必要だって示すことじゃない。この人たちを、あたいが必要にさせるってことよ。あたいがいなくなったら寂しい、って思わせること。そうすれば、簡単に手放されない。それが、あたいなりの生き延び方。我ながら、したたかだと思う。伊達に地域一番を自負していたわけじゃないのよ。
そして、ご飯は、食べれる時に食べる。これ、鉄則。
お母さんが台所に立つと、あたしはすぐ足元に行く。何作ってるの、それ食べれる?あたしにもくれる?って、鳴く。
男の子やおチビちゃんがおやつ食べてたら、そばに行く。それ何?においかがせて?一口だけ?って、鳴く。
でっかい人がご飯を食べてる時は、特に念入りに鳴く。そばにいき、じっと見つめてあたいの存在をアピールする。
最初は笑われた。次第に、「しょうがないな」ってなって、お母さんがあたい用に取り分けてくれるようになった。作戦成功。
これが共存ってやつよ。お互い、悪くないでしょ。
―――
この家に来て、だいぶ経った。
ハチワレのかぐやちゃんは、相変わらずふわふわしてる。でも、芯はある。
あの子、見た目よりしっかりしてる。
きれいなグレーの彼、諭吉さんって言うみたいは、相変わらず静かでかっこいい。
男の子はうるさくて、おチビちゃんは静かで、でっかい人は不器用で、お母さんのご飯はいつもおいしい。
あたいは、縁側で丸くなりながら、ぼんやり外を見る。
春の風が来てた。やわらかいにおいがした。土が起きてくるにおい。花のにおいが少し混じってた。
あの子たち、元気かな。
どこかのお家で、ご飯もらえてるかな。あったかいところにいるかな。
あたいみたいに、誰かに甘えてるかな。甘えるのが下手な子もいたけど、うまくやれてるかな。
きっと、大丈夫。そう思うことにしてる。
だって、お腹が空いたら鳴けばいい。思いっきり泣けばいい。それだけのことなんだから。あの子たちも、そのくらいのこと、わかってる。あたいの子だもの。
さて、そろそろお母さんがご飯の準備を始める時間だ。今日は何かな。お肉だといいな。いや、お魚でもいい。なんでもいい。
お母さんがくれるものなら、なんでも。




