第一話の終わり ―でっかい人は、思った
急いで家に帰った。
上司は残業をしてほしそうだったが、見て見ぬふりをした。仕事を切り上げるのに、少し後ろめたさがあったが、今日できることは明日できる。それに、今夜は台風が来る。上司も無理は言わないだろう。
今朝見かけた白黒の子猫のことが、ずっと頭の隅にあった。あの細い声。あの小さな身体。竹林の端で、精一杯鳴いていたあの姿。仕事の合間にも、何度か思い出した。ランチの時間に、妻から「無事に保護できた」とLINEが入っていたのを確認して、ひとまず胸をなでおろしたものの、冷静になるにつれて、考えるべきことが次々と浮かんできた。
うちには諭吉がいる。
諭吉は穏やかな性格だと思っているが、それでも先住猫だ。新しい子を迎えることで、自分のテリトリーが脅かされると感じ、神経質になってしまわないか。広い家とはいえ、そういう心配がまったくないとは言えない。相性のことも、受け入れの準備も、本当はもっと考えるべきだったのでは。それでも――今夜は台風が来る。あの細くて小さな身体で外にひとりでいたら、命はどうなっていたかわからない。そう思うと、迷っている時間はなかった。妻には無理を言ってしまった。
それでも、あの子を迎え入れてくれた。
電車の中で、妻からのLINEをもう一度読み返した。子猫は怯えてはいたものの、逃げはしなかったらしい。私が見かけた竹林の境界から、竹林の奥に移動していたが、声をかけてもその場にとどまっていたという。そして、こんなひとことが添えられていた。
「最初は怖がってたけどね。娘がじっと見てたら、急におとなしくなってね。あの子のおかげで保護できたのよ」
竹林に娘を連れて行くのは危なかったのではと一瞬思ったが、結果的には、連れて行って正解だったのだろう。あの子の目は、不思議なところがある。猫がおとなしくなるのも、なんとなくわかる気がした。
――――――
玄関を開け、ただいま、と声をかけながら、そっとリビングに入った。
リビングに入ってすぐの右手に三段式のケージがある。諭吉のために買ったそれは、大型のゆったりしたサイズのものだ。しかし、そこには子猫はいなかった。リビングの奥、ダイニングの方に、見慣れないケージが置いてある。あそこか。
ダイニングに踏み入ると、まず諭吉が目についた。私の椅子の下、いつもの定位置にいた。こちらを見ている。何も言わない。ただ、見ている。その目が、いつもより少しだけ真剣な気がした。
今日、この家に新しい気配が加わったことを、諭吉はとっくに知っているのだろう。猫というのは、においに敏感だ。見えなくても、わかってしまう。それでも諭吉は、椅子の下から動かなかった。騒がなかった。ただ、じっとしていた。
それが、諭吉という猫だ、と思った。
妻に案内されて、真新しいケージの前に向かった。全体がテント生地のような布に覆われていて、中は少し薄暗い。諭吉の視界に直接入らないようにと、妻が考えて用意してくれたらしかった。気が利く。
薄暗いケージの奥、タオルの上に、今朝見かけた白黒のハチワレがいた。子猫にしても細く、小さな身体。少し怯えたように丸まっていたが、私が近づくと、そっとこちらを見た。大きな目だった。怖がっているのか、観察しているのか、その境界がよくわからない目だった。
やはり、この台風の中、外にひとりでいたら、どうなっていたか。野良として生きるには、まだあまりにも小さすぎる。このタイミングで保護できたのは、正解だった。いや、正解にしなければならない、と思った。
「怖がってるけど、ご飯はちゃんと食べたよ」
妻が静かに言った。食べられるなら、大丈夫だ。どんな状況でも、食べられる子は生きていける。
しばらく、ケージの前でじっとしていた。子猫も、こちらをじっと見ていた。どちらも何も言わなかった。それでいい。今日は、それでいい。
ふと気配がして振り返ると、諭吉がいつの間にか少し離れたところから、こちらの様子を見ていた。
ケージの中の子猫を見ている、というよりは、私を見ていた。
どうするつもりだ、と聞いているような目だった。
大丈夫だ、とだけ思った。根拠はなかったけれど、この家なら大丈夫だ、と思った。
――――――
「名前、なにか考えてる?」
妻と子供たちに声をかけた。実は、ひとつだけ名案があった。けれど、私から押し付けるのは違う。家族として迎え入れるのだから、みんなで考えるのが筋だと思うから。
「白黒のハチワレちゃんだから、その感じで考えてたけど……なかなか決まらなくてね」
妻が苦笑いする。子どもたちを振り返ると、唸るような顔をしている。名案が思いつかないようだ。なら、提案してもいいだろう。
「竹林で見つかった、小さな姫だろう?……"かぐや"って名前はどうかな」
その瞬間、子供たちの顔がぱっと明るくなった。妻も、そっと子猫を見つめて微笑んだ。
「かぐや、か。いいね」
息子が言った。娘は何も言わなかったけれど、ケージの前にしゃがんで、「かぐや」と小さく呼んだ。
子猫が、少し動いた。
反応した、というより、その名前を確かめるように、ほんの少し首を動かした。そう見えた。気のせいかもしれない。でも、そう見えた。
新たな家族に、新しい名前が生まれた瞬間だった。
ケージの奥で丸まりながら、かぐやはもう一度こちらを見た。
風の音が、窓の外で遠くなり始めていた。




