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この家の、あかり  作者: めこねこ
第二章 この家に、あかり

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第十三話 爪を、研ぎたい

<マロンとかぐやとチャトラン>


 なんか、ムズムズする。


 オレは、リビングの真ん中で、前足をじっと見た。

 爪だ。爪がムズムズするんだ。研ぎたい。バリバリと、思いっきり研ぎたい。こういう時は、研がないとどうにも落ち着かない。体の奥から、研げ研げって声がする。これも本能ってやつだ。ボスの息子の血が、爪を研げって言ってるんだよ。


 でも、困ったことがある。

 この家の壁は、きれいなんだ。


 どこを見ても、爪を研いだ跡がない。誰もが行儀よく、壁や柱に爪を立てていない。これじゃあ、オレが研いだりなんかしたら、みんなになんて言われるか。前にチャトランさんからも「この家の壁で研ぐと、お母さんにすっごく怒られるよ」って言われているし、ここは我慢するしかないのか。それにしても、ムズムズする。

 どこか、いい場所はないかな。

 オレは、家の中をパトロールした。ここでもない。あそこでもない。きれいすぎて、研げる場所がない。


 その時、思い出した。

 一箇所だけ、あるんだ。爪を研いだ跡がある場所が。


 お母さんがいつも立っている、キッチンの裏の壁。あそこだけ、なんか、ガリガリした跡がついてる。誰が研いだのかは知らない。でも、跡があるってことは、あそこは研いでいい場所ってことだろ。研いだ跡があるんだから、間違いない。

 でも、いつもはお母さんがそこにいる。だから、研げない。


 今日は、どうだ。

 そっと覗いてみた。

 いない。


 お母さんがいない。今日は出かけているのか、別の部屋にいるのか。とにかく、いない。

 チャンスだ。

 今ならいいよな。研いだ跡もあるし、お母さんもいないし。誰にも怒られない。完璧だ。

 オレは、キッチンの裏の壁に、そっと前足をかけた。


 カリッ。


 お、いい感じ。


 カリカリカリ。

 く〜、たまんない。これだよ、これ。爪の先から、ムズムズが抜けていく感じ。気持ちいい。なんでもっと早くここで研がなかったんだろう。やっぱりここは研いでいい場所だったんだ。


 カリカリカリカリ。


「ちょっと!」

 声がした。

 振り向くと、かぐやさんがいた。すごい顔をしている。


「あなた、何してるのよ!」

「え、爪、研いでるけど」

「そんなの見ればわかるわよ!なんでよりによって、そこで研いでるの!」


 オレは、ちょっとびっくりした。なんでそんなに怒ってるんだ。


「だってここ、研いだ跡があるじゃん。だから、研いでいい場所かなって」

「いい場所なわけないでしょう!そこ、お母さんがいつも立ってるところよ!そんなところで爪なんか研いだら、お母さんに追い出されちゃうわよ!」


 追い出される。


 その言葉に、オレはぴたっと止まった。

 追い出される。それは、困る。せっかくこの家に来たのに。妹もいるのに。やっと、ここがオレの家だって思えるようになってきたのに。追い出されるのは、絶対に嫌だ。


「で、でも、研いだ跡が……」


 オレは、しょんぼりしながら、壁を見た。確かに、研いだ跡がある。オレが今つけたやつじゃなくて、前からあるやつ。だから、ここは研いでいい場所だと思ったんだ。それの何が悪いんだよ。


「とにかく、ダメなものはダメなの。わかった?」


 かぐやさんが、ぴしゃりと言った。

 オレは、すっかりしょげてしまった。せっかくいい場所を見つけたと思ったのに。ムズムズも、まだ全部は抜けてないのに。

 その時だった。


「あら」


 別の声がした。

 チャトランさんだった。いつの間にか、すぐそばに来ていた。


「かぐやちゃん、ずいぶん偉そうに言ってるけど」


 チャトランさんが、にやりと笑った。


「そこで最初に爪を研ぎ始めたのは、かぐやちゃんじゃなかったかしらね」


 え。


 オレは、かぐやさんを見た。

 かぐやさんの顔が、さーっと変わった。さっきまであんなに偉そうだったのに、急に、バツの悪そうな顔になった。


「な……なんのことかしら」

「あら、とぼけちゃって。この壁の跡、最初につけたの、あんたでしょう。あたい、見てたわよ」


 かぐやさんの耳が、ぺたんとなった。

 なんだよ。研いだ跡、かぐやさんがつけたのかよ。じゃあ、なんでオレが怒られるんだよ。


「し、知らないわよ、そんなの!」


 かぐやさんは、シャーッとばかりに毛を逆立てて、ぷいっと顔を背けると、そのまま二階のほうへ走り去ってしまった。


 なんだったんだ、一体。

 オレは、ぽかんとしていた。

 チャトランさんが、やれやれという顔で、こっちを見た。


「マロン、壁で研ぎたい気持ちはわかるけどね。あそこはダメよ。お母さんが本当に困るからね」

「でも、ムズムズが……」

「わかってるわよ。だから、こっちにおいで」


 チャトランさんは、すたすたと歩いていった。オレは、ついていった。

 リビングの隅に、少し歪な木材で出来た枠に、段ボールが敷き詰められた四角いものが置いてあった。なんか、ガリガリした感じの表面。


「これ、爪とぎよ。ここなら、いくら研いでも、誰にも怒られないわ」

「これ、研いでいいの?」

「いいのよ。むしろ、ここで研ぎなさいって、お母さんが用意してくれたものなんだから」


 オレは、おそるおそる、前足をかけてみた。

 カリッ。

 お、いい。

 カリカリカリ。

 すごい。壁よりも、ずっといい。ガリガリして、爪がしっかりひっかかる。ムズムズが、どんどん抜けていく。


「どう?」

「最高!」


 チャトランさんが、ふふっと笑った。


「最初からここで研げばよかったのよ。誰にも怒られないし、好きなだけ研げるんだから」


 ホントだ。なんで今まで、ここで研がなかったんだろう。

 オレは、夢中で研いだ。カリカリカリ。気持ちいい。これだよ、これ。

 研ぎながら、ちらっと思った。かぐやさん、なんであんなに偉そうに怒ったんだろう。自分が最初に研いだくせに。

 まあ、いいか。

 今は、研ぐのに忙しい。

 カリカリカリカリ。


――――――


<おはぎとかぐや>


 二階の寝室で、わたしは丸くなっていた。


 ここは、静かでいい。みんながリビングにいる時間は、二階はわたしひとりの場所になる。誰にも邪魔されないで、ぼーっとできる。わたしは、こういう時間が好きだ。


 そこへ、かぐやさんが上がってきた。


 なんだか、機嫌が悪そうだった。耳が少し寝ているけど、しっぽが少し逆だって動きが荒い。何かあったのかな、と思ったけど、聞かないでおいた。こういう時のかぐやさんに下手に話しかけると、とばっちりを受けるから。慎重なわたしは、そういうことはしない。


 かぐやさんは、部屋をぐるりと見回した。それから、まっすぐに、でっかい人がいつも座る椅子のほうへ向かった。


 マッサージチェア、というらしい。でっかい人が、夜によく座っている椅子。ぶーんと音がして、勝手に動く不思議な椅子。でっかい人は、あれに座ると、いつも気持ちよさそうに目を閉じている。


 かぐやさんは、その椅子の前で立ち止まった。

 そして、おもむろに前足をかけた。


 カリカリカリ。

 爪を研ぎ始めた。


 わたしは、びっくりした。さっき下のほうで、何か騒ぎがあったような気がしたけど、ちゃとらんさんと、またケンカでもしたのかしら?


「かぐやさん、そこ、爪を研いでもいいんですか」


 わたしは、おそるおそる聞いてみた。

 かぐやさんは、研ぐ手を止めずに、平然と言った。


「いいのよ、ここは」

「でも……」

「でっかい人はね、なんにも言わないの。ここで研いでも、怒らないのよ。だから、いいの」


 そうなんだ。

 わたしは、その椅子を見た。確かに、よく見ると、椅子の横のところに、少しほつれた跡がある。前にも、誰かが研いだのかもしれない。もしかしたら、かぐやさんが研いだのかもしれない。


 でっかい人は、怒らない。

 その言葉に、わたしは、ちょっと心が動いた。


 実は、わたしも、さっきからムズムズしていた。爪を研ぎたい気分だった。でも、どこで研いでいいかわからなくて、我慢していた。

 でっかい人が怒らないなら。


「じゃあ、わたしも」


 わたしも、かぐやさんの隣で、前足をかけた。


 カリカリカリ。


 あ、いい。

 この布地、爪にちょうどいい。ひっかかりがあって、しっかり研げる。ムズムズが、すっと抜けていく。

 かぐやさんと並んで、カリカリ、カリカリ。二匹で、夢中になって研いだ。かぐやさんは、さっきの不機嫌が嘘みたいに、いきいきと研いでいる。ストレス解消、という感じだった。


 カリカリカリ。


 でも。

 ふと、わたしは手を止めた。

 椅子を見て、はっとした。

 これは……。


 二匹でこんなに研いだから、椅子の横が、かなり、ひどいことになっている。布がほつれて、ぴょんぴょんと糸が飛び出ている。下にあるフワフワしたものが少し見えている。これは、ちょっと、まずいんじゃないだろうか。


 でっかい人は、怒らないって、かぐやさんは言った。

 でも、本当にそうかな。

 ここまでひどくなっても、本当に、何も言わないのかな。


 わたしは、慎重な猫だ。こういう時、嫌な予感がする。そして、わたしの嫌な予感は、だいたい当たる。

 かぐやさんは、まだ夢中で研いでいる。さっきのことを忘れたみたいに、カリカリ、カリカリ。


 わたしは、そっと、椅子から離れた。

 だって。

 階段を上がってくる、足音が聞こえたから。

 重くて、どっしりした足音。でっかい人だ。


 わたしは、音もなく、部屋の隅に移動した。さっきまで研いでなんかいませんよ、という顔をして、丸くなった。慎重なわたしは、こういう時の身の処し方を、ちゃんと知っている。


 かぐやさんは、まだ気づいていない。

 カリカリ、カリカリ。

 足音が、近づいてくる。

 わたしは、丸くなったまま、薄目を開けて、様子をうかがった。

 かぐやさん、気づいて。早く、気づいて。

 でも、かぐやさんは、夢中だった。


 階段を登りきった。でっかい人がまっすぐに寝室に向かってくる足音。

 もう、ドアの目の前だ。

 わたしは、知らんぷりをして、目を閉じた。

 あとのことは、わたしは知らない。


 ただ、ひとつだけ言えるのは。

 慎重って、こういう時に、役に立つ。

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