第十三話 爪を、研ぎたい
<マロンとかぐやとチャトラン>
なんか、ムズムズする。
オレは、リビングの真ん中で、前足をじっと見た。
爪だ。爪がムズムズするんだ。研ぎたい。バリバリと、思いっきり研ぎたい。こういう時は、研がないとどうにも落ち着かない。体の奥から、研げ研げって声がする。これも本能ってやつだ。ボスの息子の血が、爪を研げって言ってるんだよ。
でも、困ったことがある。
この家の壁は、きれいなんだ。
どこを見ても、爪を研いだ跡がない。誰もが行儀よく、壁や柱に爪を立てていない。これじゃあ、オレが研いだりなんかしたら、みんなになんて言われるか。前にチャトランさんからも「この家の壁で研ぐと、お母さんにすっごく怒られるよ」って言われているし、ここは我慢するしかないのか。それにしても、ムズムズする。
どこか、いい場所はないかな。
オレは、家の中をパトロールした。ここでもない。あそこでもない。きれいすぎて、研げる場所がない。
その時、思い出した。
一箇所だけ、あるんだ。爪を研いだ跡がある場所が。
お母さんがいつも立っている、キッチンの裏の壁。あそこだけ、なんか、ガリガリした跡がついてる。誰が研いだのかは知らない。でも、跡があるってことは、あそこは研いでいい場所ってことだろ。研いだ跡があるんだから、間違いない。
でも、いつもはお母さんがそこにいる。だから、研げない。
今日は、どうだ。
そっと覗いてみた。
いない。
お母さんがいない。今日は出かけているのか、別の部屋にいるのか。とにかく、いない。
チャンスだ。
今ならいいよな。研いだ跡もあるし、お母さんもいないし。誰にも怒られない。完璧だ。
オレは、キッチンの裏の壁に、そっと前足をかけた。
カリッ。
お、いい感じ。
カリカリカリ。
く〜、たまんない。これだよ、これ。爪の先から、ムズムズが抜けていく感じ。気持ちいい。なんでもっと早くここで研がなかったんだろう。やっぱりここは研いでいい場所だったんだ。
カリカリカリカリ。
「ちょっと!」
声がした。
振り向くと、かぐやさんがいた。すごい顔をしている。
「あなた、何してるのよ!」
「え、爪、研いでるけど」
「そんなの見ればわかるわよ!なんでよりによって、そこで研いでるの!」
オレは、ちょっとびっくりした。なんでそんなに怒ってるんだ。
「だってここ、研いだ跡があるじゃん。だから、研いでいい場所かなって」
「いい場所なわけないでしょう!そこ、お母さんがいつも立ってるところよ!そんなところで爪なんか研いだら、お母さんに追い出されちゃうわよ!」
追い出される。
その言葉に、オレはぴたっと止まった。
追い出される。それは、困る。せっかくこの家に来たのに。妹もいるのに。やっと、ここがオレの家だって思えるようになってきたのに。追い出されるのは、絶対に嫌だ。
「で、でも、研いだ跡が……」
オレは、しょんぼりしながら、壁を見た。確かに、研いだ跡がある。オレが今つけたやつじゃなくて、前からあるやつ。だから、ここは研いでいい場所だと思ったんだ。それの何が悪いんだよ。
「とにかく、ダメなものはダメなの。わかった?」
かぐやさんが、ぴしゃりと言った。
オレは、すっかりしょげてしまった。せっかくいい場所を見つけたと思ったのに。ムズムズも、まだ全部は抜けてないのに。
その時だった。
「あら」
別の声がした。
チャトランさんだった。いつの間にか、すぐそばに来ていた。
「かぐやちゃん、ずいぶん偉そうに言ってるけど」
チャトランさんが、にやりと笑った。
「そこで最初に爪を研ぎ始めたのは、かぐやちゃんじゃなかったかしらね」
え。
オレは、かぐやさんを見た。
かぐやさんの顔が、さーっと変わった。さっきまであんなに偉そうだったのに、急に、バツの悪そうな顔になった。
「な……なんのことかしら」
「あら、とぼけちゃって。この壁の跡、最初につけたの、あんたでしょう。あたい、見てたわよ」
かぐやさんの耳が、ぺたんとなった。
なんだよ。研いだ跡、かぐやさんがつけたのかよ。じゃあ、なんでオレが怒られるんだよ。
「し、知らないわよ、そんなの!」
かぐやさんは、シャーッとばかりに毛を逆立てて、ぷいっと顔を背けると、そのまま二階のほうへ走り去ってしまった。
なんだったんだ、一体。
オレは、ぽかんとしていた。
チャトランさんが、やれやれという顔で、こっちを見た。
「マロン、壁で研ぎたい気持ちはわかるけどね。あそこはダメよ。お母さんが本当に困るからね」
「でも、ムズムズが……」
「わかってるわよ。だから、こっちにおいで」
チャトランさんは、すたすたと歩いていった。オレは、ついていった。
リビングの隅に、少し歪な木材で出来た枠に、段ボールが敷き詰められた四角いものが置いてあった。なんか、ガリガリした感じの表面。
「これ、爪とぎよ。ここなら、いくら研いでも、誰にも怒られないわ」
「これ、研いでいいの?」
「いいのよ。むしろ、ここで研ぎなさいって、お母さんが用意してくれたものなんだから」
オレは、おそるおそる、前足をかけてみた。
カリッ。
お、いい。
カリカリカリ。
すごい。壁よりも、ずっといい。ガリガリして、爪がしっかりひっかかる。ムズムズが、どんどん抜けていく。
「どう?」
「最高!」
チャトランさんが、ふふっと笑った。
「最初からここで研げばよかったのよ。誰にも怒られないし、好きなだけ研げるんだから」
ホントだ。なんで今まで、ここで研がなかったんだろう。
オレは、夢中で研いだ。カリカリカリ。気持ちいい。これだよ、これ。
研ぎながら、ちらっと思った。かぐやさん、なんであんなに偉そうに怒ったんだろう。自分が最初に研いだくせに。
まあ、いいか。
今は、研ぐのに忙しい。
カリカリカリカリ。
――――――
<おはぎとかぐや>
二階の寝室で、わたしは丸くなっていた。
ここは、静かでいい。みんながリビングにいる時間は、二階はわたしひとりの場所になる。誰にも邪魔されないで、ぼーっとできる。わたしは、こういう時間が好きだ。
そこへ、かぐやさんが上がってきた。
なんだか、機嫌が悪そうだった。耳が少し寝ているけど、しっぽが少し逆だって動きが荒い。何かあったのかな、と思ったけど、聞かないでおいた。こういう時のかぐやさんに下手に話しかけると、とばっちりを受けるから。慎重なわたしは、そういうことはしない。
かぐやさんは、部屋をぐるりと見回した。それから、まっすぐに、でっかい人がいつも座る椅子のほうへ向かった。
マッサージチェア、というらしい。でっかい人が、夜によく座っている椅子。ぶーんと音がして、勝手に動く不思議な椅子。でっかい人は、あれに座ると、いつも気持ちよさそうに目を閉じている。
かぐやさんは、その椅子の前で立ち止まった。
そして、おもむろに前足をかけた。
カリカリカリ。
爪を研ぎ始めた。
わたしは、びっくりした。さっき下のほうで、何か騒ぎがあったような気がしたけど、ちゃとらんさんと、またケンカでもしたのかしら?
「かぐやさん、そこ、爪を研いでもいいんですか」
わたしは、おそるおそる聞いてみた。
かぐやさんは、研ぐ手を止めずに、平然と言った。
「いいのよ、ここは」
「でも……」
「でっかい人はね、なんにも言わないの。ここで研いでも、怒らないのよ。だから、いいの」
そうなんだ。
わたしは、その椅子を見た。確かに、よく見ると、椅子の横のところに、少しほつれた跡がある。前にも、誰かが研いだのかもしれない。もしかしたら、かぐやさんが研いだのかもしれない。
でっかい人は、怒らない。
その言葉に、わたしは、ちょっと心が動いた。
実は、わたしも、さっきからムズムズしていた。爪を研ぎたい気分だった。でも、どこで研いでいいかわからなくて、我慢していた。
でっかい人が怒らないなら。
「じゃあ、わたしも」
わたしも、かぐやさんの隣で、前足をかけた。
カリカリカリ。
あ、いい。
この布地、爪にちょうどいい。ひっかかりがあって、しっかり研げる。ムズムズが、すっと抜けていく。
かぐやさんと並んで、カリカリ、カリカリ。二匹で、夢中になって研いだ。かぐやさんは、さっきの不機嫌が嘘みたいに、いきいきと研いでいる。ストレス解消、という感じだった。
カリカリカリ。
でも。
ふと、わたしは手を止めた。
椅子を見て、はっとした。
これは……。
二匹でこんなに研いだから、椅子の横が、かなり、ひどいことになっている。布がほつれて、ぴょんぴょんと糸が飛び出ている。下にあるフワフワしたものが少し見えている。これは、ちょっと、まずいんじゃないだろうか。
でっかい人は、怒らないって、かぐやさんは言った。
でも、本当にそうかな。
ここまでひどくなっても、本当に、何も言わないのかな。
わたしは、慎重な猫だ。こういう時、嫌な予感がする。そして、わたしの嫌な予感は、だいたい当たる。
かぐやさんは、まだ夢中で研いでいる。さっきのことを忘れたみたいに、カリカリ、カリカリ。
わたしは、そっと、椅子から離れた。
だって。
階段を上がってくる、足音が聞こえたから。
重くて、どっしりした足音。でっかい人だ。
わたしは、音もなく、部屋の隅に移動した。さっきまで研いでなんかいませんよ、という顔をして、丸くなった。慎重なわたしは、こういう時の身の処し方を、ちゃんと知っている。
かぐやさんは、まだ気づいていない。
カリカリ、カリカリ。
足音が、近づいてくる。
わたしは、丸くなったまま、薄目を開けて、様子をうかがった。
かぐやさん、気づいて。早く、気づいて。
でも、かぐやさんは、夢中だった。
階段を登りきった。でっかい人がまっすぐに寝室に向かってくる足音。
もう、ドアの目の前だ。
わたしは、知らんぷりをして、目を閉じた。
あとのことは、わたしは知らない。
ただ、ひとつだけ言えるのは。
慎重って、こういう時に、役に立つ。




