第十一話 空いた、席
<チャトランとおはぎ>
あたいは、ここに来るまでにたくさんの別れを経験してきた。昨日までご飯の取り合いで競い合っていた子が、次の日に来ないなんてしょっちゅうだった。理由は分からなくても、次の日も次の日も来なかったら、もう二度と会えないってことは理解していた。
でっかい人の椅子の下を、改めて見る。マットもなんにも用意されていないただの床。だけど、そこだけほんのりと温かい感じがするのはなぜだろう。
そんなあたいの様子が不思議だったのか、いつの間にか側に来ていたおはぎも同じところを見ていた。
「寂しいって言うんですよね、こういうの」
おはぎはまだ幼いけど、別れを理解しているのね。何となく、毛づくろいをしてあげたくなった。
「そうさね、寂しいって言うんだよね。あたいが外にいた時は、当たり前だって言ってたんだけどね」
視線をでっかい人の椅子の下からおはぎに移し、頭をぺろりと舐めてあげる。おはぎがくすぐったい顔になり、すぐに伏せてくる。構わず、そのまま毛づくろいをしてあげる。
「かぐやさん、大丈夫ですか」
「大丈夫さね、あの子なら。心配なのはマロンだね」
「え、お兄ちゃん」
あたいは黙って、おはぎの首筋を舐める。おはぎはそれ以上は聞いてこない。あたいの言葉を待っているのは分かるけど、どこまで話していいのかと迷ってしまう。
「マロンは、追っかける背中が欲しかったんだよ。だけど、それが見えなくなったからね」
それくらいなら、マロンも怒りはしないだろう。そう思って、一言だけおはぎに告げた。おはぎも納得したかのように言葉を切る。
「でも、あの子も分かるときがくるよ」
家の中での諭吉さんのにおいが薄くなっていくのを、毎日感じていた。それが完全に消えた時、マロンがどう立ち振る舞えるのか。そこを見守るのが、あたいの仕事なのかもしれないと思っている。
あたいは、ふと子どもたちのことを思い出した。地震で離れた子たちのこと。あの時も、においが消えた。消えたものは、戻らない。でも、消えた後も、生きていく。それが、あたいが外で覚えたことだ。
マロンにそれを伝えることが出来るのか。少し自信がないが、今はおはぎをそっと舐めて、あたい自身の心の整理を付けたかった。
――――――
<かぐやとチャトラン>
諭吉さんが、いない。
でっかい人の席の下、いつもの窓辺、どこを見てもいない。分かっていたことだが、ふと、ぽっかりと心に隙間が出来ていることに気がつく。諭吉さんの匂いが薄れるごとに、普段の自分たちが戻ってくる。
お腹は空くし、眠くもなる。爪を研ぎたくなるし、鳥や虫も追いかけたくなる。
でも、ふと、今まで側に感じていた存在がいないことに気が付かされる。
お気に入りの座布団から見えるでっかい人の席の下。改めてぼーっと見てしまった。
「かぐやちゃんも、寂しいわよね」
いつの間にか、チャトランさんが隣に並んで立っていた。も、ってなんなのよ、もって。ついついそう言いそうになり、でも、ここは我慢した。こんな時に、喧嘩はしたくない。
「チャトランさんはどうなのよ」
精一杯の強気で言葉を返したけど、少し声が上ずった気がした。それを察してかふふふと笑って、チャトランさんが優しい声で自分の気持を伝えてきた。
「そうさね、こういうことに慣れっこのあたいでも、寂しいもんは寂しいわよ」
声に寂しさを感じない。当たり前のこととして受け止めている。そう思うと、無性に腹立たしく感じた。でも、今の気持ちを吐き出し続けたら泣き出しそうな気持ちになり、慌てて心を落ち着ける。チャトランさんの前では泣きたくない。
「あたしは、慣れる気はしないわ」
それだけ言って、座布団から降りて二階に向かうことにした。ダメだ、これ以上話をしていたら、チャトランさんに余計なことを言う。そして泣いてしまう。
「席、いただくわね」
そう言って、どかっと寝転ぶ音が背後からした。振り返らずに「どうぞ、ご勝手に」と言って階段を上がっていった。
何度も眺めに行った窓辺は、やはり今日も誰もいなかった。分かっているけど、心のどこかで、やはり納得しきれていない気持ちが生まれる。それでも、どこかにいる気がして、ひょっこり隣に座ってくれる気がして、いつものように窓辺に座ると、ふわりと諭吉さんのにおいがした。
えっ……
多分、諭吉さんが以前に触ったカーテンが風に揺れたから漂ったんだろう。でも、なんだか、そばにいてくれている気がした。帰ってきてくれた気がした。
あたしにとって、消えることの意味は置いてかれるしか知らない。置いてかれたのなら、いつか再会出来ると思う気持ちが拭いきれない。でも……諭吉さんが動かなくなった日のことを思い出す。置いてかれたんじゃない、別れ。
チャトランさんのように、別れについて完全には理解出来ていないが、ただ、諭吉さんが来ない。待っていても、来ない。それだけはわかる。
チャトランさんの全部わかっている顔を思い出した。なんだかやっぱり腹立たしい。あたしよりも諭吉さんのことを理解している気がしてくる。
なんだか、一言言ってやりたくなった。涙は出ない。ただ、諭吉さんのことをもう少しチャトランさんと話をしたくなった。
そして、あたしの方が諭吉さんのことを理解していると伝えたかった。
それが今は、出来ることの全部かな、と思った。
――――――
<おはぎとマロン>
諭吉さんの姿が見えないことを、お兄ちゃんはどこまで理解しているのかしら。お兄ちゃんが諭吉さんのいた場所をちらりと見るだけで、あまり気にしていない感じがして、心配になる。
わたしがどこまで言っていいのかな、と思ってしまう。
以前のように、ドタドタと音を立てて歩かなくなっている。ゆっくり歩いて静かにしている。日常を過ごしているようで、何かに気を使っているようにも思える。その様子が、チャトランさんの言葉と重なって、余計に心配になる。
家の中のパトロールを終えて、お気に入りのケージの三段目にいるお兄ちゃんのところに、上がってみた。わたしが上がってくることは音で分かるはずなのに、こちらを見らずに目を閉じて丸くなったままだ。
「お兄ちゃん、あのね」
「眠いから、あとにしてくんない」
わたしとの話を拒絶してくる。それでも、なんとなく心配で、もう少しだけ喋っておきたい。
「いなくなったことなんだけど」
「何が」
分かっているけどボカシているのか、分かっていないのかが分からない。
「諭吉さんのこと」
「分かっているよ」
わたしは、少し黙ってお兄ちゃんの次の言葉を待った。目を閉じたまま、ふて寝のようにうずくまるお兄ちゃんの気持ちがなんとなく分かった気がした。
「いつ、帰ってくるんだろな」
そう言ってきた。でも、なんとなく、帰ってこれないことが分かっている気持ちで言っていることは理解できた。
わたしはそれ以上何も言えなくなった。なんだか、急に泣きたくなってきた。でも、ここで泣いたら違う気もした。少し考えて、一言だけ言葉を絞り出した。
「そうだね、寂しいね」
それだけ言って、ケージの三段目から離れて行った。ダメだね、これ以上は何も伝えられなかった。その背中に、お兄ちゃんがぽつりと言った。
「まだ教えてもらいたいことが、たくさんあったんだよな」
無性にチャトランさんが恋しくなって、冷蔵庫の上に向かって走ってしまった。
走りながら思った。マロン兄さんは、ちゃんとわかっている。ただ、認めたくないだけだ。それは、あたしも同じかもしれない。
――――――
<マロンとチャトラン>
なんとなく、みんながオレに対して優しい。
ってか、すっごくガキ扱いしている気がする。
妹でさえ、なんだかオレに対して腫れ物を扱うように接してくる。それがすごく嫌で、オレは諭吉さんのように振る舞っている。ゆっくりと歩いて、威厳と尊敬を集めるような、そんな大人のオレを演出している。
最近、諭吉さんの姿を見ていない。
なんとなく、わかっていた。この家から離れたって。
ただ、習っていないこともたくさんあった。だから、帰って来てもらわなきゃ困るって思っていた。
だって、今日もなるだけ静かに歩いてても、やっぱりドタドタと足音がなるし、諭吉さんのように、高いところから飛び降りても、トンと甲高い音がしない。
オレは、膝の使い方にコツがある気がしている。それをちゃんと聞いてみたかった。
ふっと、諭吉さんの匂いがした気がした。帰ってきたのかな?少し期待して、いつものでっかい人の椅子の下を覗きに行った。
でも、諭吉さんの姿は見えなかった。
最近、段々と諭吉さんのにおいが薄くなってきた。前はどこに行っても感じられたのに、今では全然だ。だからこそ、今回のにおいは間違いないって思ったのに。
「諭吉さん、帰ってこないわよ」
いつの間にか、側に来ていたチャトランさんに、不意にそう言われて、ドキッとした。帰ってこない……。分かっていたけど、理解したくない言葉だった。
「いつまで待っても?」
「そうさね、いつまで待ってもだね」
そう、優しく言葉を重ねてくれた。思った以上にその言葉が胸に重く響く。涙が出そうになる。
「まだ、習っていないことがたくさんあるんだけど」
困るんだ。諭吉さんにはまだ習っていないことがたくさんある。それに、諭吉さんが言ってたんだ。安心を与える存在になれって。オレが居るのが安心だって。だから、もっと役に立ちたかったんだ。
でも……。
なんとなく、安心を与える大きさを持てと言われた時、もう会えなくなるんじゃって思ってもいた。だって、諭吉さんがすごく嬉しそうで、そしてすごく寂しそうな顔をしていたから。
「どうしたら、いいんですか」
チャトランさんなら、なんとなく答えを教えてくれる気がした。だから聞いたのに……。
「あたいにはわかんないよ」
と冷たく言われた。予想とは違う言葉に、えっと言葉が詰まる。そんなオレの顔をチャトランさんはニヤッと笑って言葉を繋げた。
「自分で見つけるのを、諭吉さんは望んでるんじゃないのかい」
そのまま、フイッと離れていった。自分で見つける……。どうしたらいいのかは分からないけど、でも、なんとなく分かった気がした。
もう一度、でっかい人の椅子の下を見てみた。なんとなく、目標が出来た気がした。そうか、オレの居場所、ここにしたらいいんじゃないのかな。
そう思って、一歩踏み出した時に、少し離れたところからチャトランさんに笑われながら言われた。
「そういうことじゃ、ないんだよ」
ますます、どうしたら良いか分からなくなった。
けど、ちょっと前のモヤモヤとした不安は吹っ切れた気がした。とりあえず、いつもの調子でドタドタと走って二階に向かった。
かぐやさんと遊んであげようかな。




