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この家の、あかり  作者: めこねこ


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20/21

第十話 この家の、あかり

 ペットショップのガラスケースは、寒かった。


 匂いがしなかった。猫の、外の、土の、雨の匂いも、何も。ただ白い光と、冷たい空気と、消毒の匂いだけがあった。


 生き物がいる場所の匂いじゃなかった。何もない場所の匂いだった。ガラスの向こうに人間がいるのに、匂いが届かなかった。


 ケースの中には、何匹かいた。みんな、鳴いていた。上手に鳴くやつから、順番に、いなくなっていった。かわいい声で、甘えた声で、ガラスに向かって鳴いたやつが、ケースから出ていった。出ていったやつが、どこに行くのかは、わからなかった。でも、どこかに行ける。それだけで、よかったんだと思う。


 俺は、あまり上手く鳴けなかった。


 声が出ないわけじゃない。でも、なんか、届かなかった。届かせ方が、わからなかった。どんな声を出せばいいのか、どんな顔をすればいいのか、わからなかった。それに、見ず知らずの人間に、どうやって甘えた声を出せばいいのか、俺には想像もできなかった。


 仲間は、毎日、ガラスの向こうを見ながら、人間が立ち止まるのを待っていた。そして、立ち止まるたびに、鳴いていた。見てくれるたびに、精一杯、鳴いていた。


 俺はひとり、背を向けて寝ていた。


 そのうち、なんとなく、わかってきた。ここにい続けるのは、まずいらしい。何がまずいのかは、わからなかった。でも、体が知っていた。長くいるほど、よくないことが起きる。だから、出ていかないといけない。


 でも、焦ることができなかった。やり方が、わからなかった。


 ある日、俺たちはガラスケースから出され、広いサークルの中に入れられた。俺を含めて五匹。茶色いやつから、ふわふわのやつまで。ガラスケースにきてからずっと一緒にいる奴らだった。みんな疲れた顔をしていた。そうだよな。あそこは、狭すぎる。久々の空間に、みんな、戸惑いと開放感の両方を味わっていた。


 そして、誰かが言った。一番の古株だったと思う。

 これが最後のチャンスだ、と。


 ガラスケースの時より、人間が集まってきた。俺たちに手を差し伸ばそうとする人、施設の人に何かを告げる人。初めて会う人に抱かれるやつら。俺は少し離れたところで、それを観察していた。


 少し重い足音が聴こえた。

 辺りが暗くなった気がした。大きな影が、覆いかぶさってきた。


 振り向くと、でっかい人がいた。横に、いい匂いをさせている人がいた。


 いい匂いをさせている人は、俺たちをあちこち見ていた。でも、でっかい人は、俺をじっと見ていた。長かった。俺も負けじと見た。


 なんだか、深い目だな、と思った。


 なぜなんだろう。安心する目だ。こんな目を見たのは、初めてだった。ガラスケースの中で、何匹もの人間と目を合わせてきたけど、こういう目をしていた人は、いなかった。この目は、何かを求めているんじゃなくて、ただ、こちらを見ている。それだけで、こんなに違う。


 つい考え込んで、首をかしげた。


 他のやつらが鳴いている声が聞こえる。でも、俺の耳には入ってこなかった。

 なんだか、この人ならいいかもって、思えた。


 俺は、鳴いた。


 上手くはなかったと思う。でも、その時できる精一杯で、鳴いた。届けと思った。甘えた鳴き方はできなかった。でも、そういう鳴き方じゃなくていいと思った。「家族になりませんか」「色々と教えてください」「一緒にいてください」。そういう気持ちを、俺なりの声に込めた。


 でっかい人は、見続けた。


 それから、店の人を呼んだ。


 よし、と思った。まだ何も始まっていないのに、俺にはでっかい人のお腹の上で寝ている姿が、もう見えていた。


 すっごく楽しくなってきた。


 ここに来て、初めて、笑った気がした。


――――――


 最初の家は、狭かった。


 東京の、小さな部屋だった。狭いけど真ん中に階段があって、上と下とに行き来できた。だから、ガラスケースの中よりもずっとよかった。毎日探検して、毎日、退屈しなかった。


 匂いがした。人の、ご飯の、畳の、窓から入ってくる風の匂い。人が生きている匂いがした。こういう匂いに包まれたかった。ずっと、そう思っていた。それが叶ったことが、何よりも嬉しかった。


 でっかい人が帰ってくる足音が、段々とわかるようになってきた。重くて、でもどこか弾んでいる足音。あれが聴こえると、俺は玄関の方に向かった。でっかい人が扉を開けると、必ず、俺が待っていた。そういう決まりを、俺が勝手に作っていた。


 でっかい人は、いつも驚いたような顔をして、それから笑った。

 その顔が、好きだった。


 ただ、外が気になっていた。


 窓の向こうに、世界がある。ガラスケースの中からずっと見てきた外が、どんなところか、知りたかった。網戸に手をかけると、ちょいちょいってやれば俺が抜け出る隙間が出来た。怖かったけど、好奇心には勝てなかった。


 部屋から外に、出た。


 アパートの通路に出た瞬間、後悔した。降り立ったコンクリートの冷たさが肉球に染み込んできた。


 家の中にいた時には感じなかった、強すぎるにおいがあった。風のにおいでは感じられなかった、知らないにおいがした。知らない音が、四方八方から飛び交っていた。体が固まった。外に出たかったのに、出た瞬間に、帰りたくなった。


 とりあえず、暗くて落ち着くところを探した。階段の下に逃げ込んで、丸くなった。


 バタバタとする音が聴こえた。聞き慣れた足音が、焦っているようにあちこちを走っていた。そっと頭を上げた。お母さんと目が合った。


 お母さんの顔を、今でもよく覚えている。怒っていなかった。心配そうな、泣きそうな顔をしていた。でも、よかった、という顔もしていた。俺を抱き上げて、部屋に戻った。冷え切っていた肉球が、だんだんと温かくなった。


 そんなこともあったな。若かったな、あの頃は。外に憧れて、出てみたら怖くて、帰りたくなった。でも、帰る場所があった。


 それだけで、十分だったんだな。


――――――


 熊本に来た。


 初めての飛行機は、びっくりした。でも、熊本の家はアパートよりもずっと広くて、もっとびっくりした。


 匂いも、全然違った。緑の、土の、雨の匂い。空気が全然違った。東京の空気と、全然違った。濁りもなく、透き通るような、新鮮な匂いがした。一つ一つの部屋も広くて、窓も大きくて、たくさん太陽を感じることができた。


 大きな窓から庭を見た。鳥が来た。風が来た。草が揺れた。


 いいじゃないか、と思った。東京の窓から見える景色より、ずっといい。外に出たいとは、もう思わなかった。あの階段の下の記憶があるから。でも、ここから見ているだけで、十分だった。十分すぎるくらいだった。


 窓辺が、好きになった。


 日向ぼっこができる時間。ベランダから風が吹き込む時間。夕方に遠くの山に太陽が沈んでいく時間。全部、ここから見ていた。外は、ここから見ていれば、十分だった。


 毎日、この景色を見ながら、思った。


 こんなところに住める。この住んでいる場所を、守らなきゃな、と。


――――――


 かぐやが来た日のことを、よく覚えている。


 台風の前の日だった。


 空気がざわざわと音を立て、庭の木々を揺らしていた。空の雲が流れるように飛んでいく。それに合わせて、だんだんと暗くなっていった。


 でっかい人が出かけた後、しばらく経って、お母さんがおチビちゃんを連れて出かけた。慌てたように大きなタオルをバッグに入れて。それからすぐだった。


 ミーミー。


 小さくか細い鳴き声をたてる、白黒の子猫が、お母さんに抱っこをされて、うちに来た。


 俺は遠目で見ていた。近づくと怖がらせるんじゃないかと思って、様子を見た。しばらくしてでっかい人も帰ってきて、ようやく子猫に会ってみようと思った。俺はケージの小窓から、覗いてみた。


 俺を見た瞬間、その子は固まった。


 そうだろうな、と思った。知らない猫がいたら、固まる。俺は少しだけ目線をそらした。怖がらせてもしょうがないから。「まあ、いいよ」って気持ちで、そらした。受け入れたんだぞ、という気持ちを込めて。


 夜、その子は、そっと近づいてきた。俺のにおいを嗅いでいた。気づいてはいたけど、知らないふりをした。


 きれいな子だな、と思った。竹林から来た、って話は後から聞いた。


 竹林で台風を一人で越えるところだったのか、と思った。それは、怖かっただろうな。でも、ちゃんと声を出した。助けを求めた。その度胸は、大したもんだ。


 この家に来て、よかった。この子なら、ここでやっていける。


 そう思うと、なんだか、この家が少し賑やかになるような気がした。それが、悪くなかった。


――――――


 チャトランが来た時は、わかった。


 苦労してきたはずなのに、全然、それを感じさせない。根性が座っている子だな、と思った。


 疲れてるのに、心は折れていない。たくましさを感じた。かぐやを見る目を見ていると、さほど歳は変わらないはずなのに、慈しむような目をしていた。


 自分の過去を多くは語らない子だったが、目は雄弁に語る。ここに来る前に、いろんなものをなくしてきたのだろう。でも、まだ前を向いてる。そういう目だった。


 最初は、隣に行って、丸まって寝てやろうかと思った。時々、フッと淋しげな視線が気になったから。だが、夜ご飯をもらう時、他の誰よりも元気に、嬉しそうにご飯をねだっているのを見て、気が変わった。


 こいつは大丈夫だ、と思った。


 食べられる子は、生きていける。


 それでも、時々、淋しげな目をすることがあった。でも、後悔をしているような目ではなかった。なんていうか、我が子を心配する母の目と、お前たちなら大丈夫よという母の目。どちらもないまぜにした、ドシッとした目だった。


 我が家にはない、目だった。


 必要な目だった。


 チャトランが来てから、かぐやの顔が少し変わった気がした。どこかほっとしたような顔。あの子には、そういう存在が必要だったのかもしれない。俺には、そういうことは、できなかった。


――――――


 マロンとおはぎが来た日は、にぎやかだった。


 マロンは入ってきた瞬間から、目がギラギラしていた。俺を見て、最初は張り合おうとしていた。面白いやつだ、と思った。若いな、と思った。ボスの息子か。その気概は、大事だ。でも、俺は見て少しずつ変わってきた。いつの間にか、俺の背中を追いかけるようになっていた。いや、背中を目指している感じがした。ボスの息子だが、追いかける背中を見失っていた。その背中に、俺がなれた気がした。


 背伸びをして、なんとか追いつこうとするマロンの姿が眩しかった。そして、可愛かった。


 おはぎは、ケースの奥に隠れるようにいた。態度は怯えているが、でも、目は違った。ちゃんと、全部を見ていた。俺のことも、かぐやのことも、チャトランのことも、この家の全部を、静かに見ていた。賢いやつだな、と思った。


 そして、この子は、俺と目が合った瞬間、その時から全部わかっていた気がする。


 二匹が来てから、家の中が騒がしくなった。


 マロンがドタドタと走り回る。おはぎが静かについていく。かぐやが巻き込まれる。チャトランがたしなめる。でっかい人が大笑いする。お母さんがご飯を用意する。男の子がはしゃぐ。おチビちゃんが静かに笑う。


 騒がしかった。でも、悪くなかった。全然、悪くなかった。みんな、いい子だな、と思った。


 この家に来てから、ずっと一匹だった時のことを、思い出した。アパートの、静かな部屋。あの頃は、それで十分だと思ってた。でも、今の方がいい。誰かが喋り、鳴き、騒ぐ方が、いい。匂いが多い方が、いい。


 これなら、任せられるな、と思った。


 みんなに、この家を。


――――――


 飯が、だんだんと食えなくなってきた。


 匂いはわかる。


 お母さんが台所に立つと、ちゃんと反応する。用意されるご飯は、味気ないものだが、俺にとってはご馳走だ。でも、口に入れても、喉のあたりで、止まる。飲み込もうとすると、うまくいかない。何度やっても、うまくいかない。


 体が、言うことを聞かなくなってきた。


 二階に上がるための階段を踏みしめる足が重かった。窓辺に行くのも、前より時間がかかるようになった。家の中を見回る足が、少し、重かった。この家に来た頃は、毎日探検していたのに。今は、窓辺まで歩くのに、少し息が切れる。


 みんなが、そばに来るようになった。


 かぐやが、何も言わず、隣に来た。心配そうな顔をしていたけど、何も言わなかった。それがよかった。変に慰められるより、そこにいてくれる方がよかった。


 チャトランが、誰も見ていない時に、そっと頭を舐めてくれた。何度も、丁寧に舐めてくれた。あたたかかった。あの子が昔、子どもたちにそうしてやったように、俺にもしてくれた。


 マロンが、珍しく静かに、少し離れたところで丸まっていた。あいつが静かなのは、珍しいな、と思った。でも、その静けさが、今は、ありがたかった。


 おはぎが、ドアの影から、じっと俺を見ていた。

 あの子の目が、最初っから全部わかってる目だから。あの子は、静かに見守ることを続けていた。そういう子だから。


 ありがとな、と思った。みんな、そんな顔するな、とも思った。


 お母さんが、今までのご飯を止めて、やわらかくて美味しいものに変えてくれた。美味しいんだけど、やっぱり喉を通らなかった。


 でっかい人が、膝に乗せてくれた。小さなアパートにいた時、俺がまだ子猫だった時にソファーでそっと乗っけてくれたように抱えてくれた。懐かしさと温かさでお腹がいっぱいになった。


 男の子が、いつもより優しく、そっと背中を撫でてくれた。優しく抱きしめてくれた。お父さんと同じ匂いがした。そんな気がした。


 おチビちゃんが、何も言わずに、じっと俺の目を見ていた。逸らさずに応えた。微笑んでくれた。俺の気持ちが届いたみたいだ。安心した。


 みんな、わかってるんだな、と思った。


 そんな顔するな、と思った。まだ大丈夫だ。ちょっと、飯が食えないだけだ。


 まだここにいる。


――――――


 でっかい人の椅子の下が、好きだった。


 なんでかはわからない。匂いなのか、気配なのか、そこの空気の感じなのか。言葉にできない。でも、ここにいると、落ち着いた。どこよりも体が休まる気がした。何も考えなくて良い場所だった。


 ペットショップのガラスケースにいた頃のことを、思い出した。


 何もなかった。匂いも、温もりも、仲間も。白い光と、冷たい空気だけがあった。


 あそこを出て、ここまで来た。


 東京のアパートにいて、熊本に来て、かぐやに出会い、チャトランが来て、マロンとおはぎが入ってきた。騒がしくなった。にぎやかになった。


 随分遠くまで来たもんだな、と思った。


 今日も、でっかい人の椅子の下に来た。体が重かった。でも、ここは、いつもと変わらなかった。でっかい人の気配が、すぐ上に感じられた。床の匂いがした。長年染み込んだ、この家の匂いがした。


 みんなの匂いが、した。


 かぐやの、やわらかいけど気高い匂い。チャトランの、温かく包みこむような匂い。マロンの、若くて元気な力強い匂い。おはぎの、静かで思慮深い匂い。お母さんの優しくて俺をたくさん愛してくれた匂い。男の子の声が、直ぐ横から聞こえた。でも、すこし遠く感じた。おチビちゃんの、静かに寄り添ってくれている気配が、そばに感じた。


 全部、あった。全部、ここにあった。


――――――


 東京から連れてきてくれて、よかった。


 狭いアパートでも一緒にいてくれて、よかった。


 熊本に来られて、よかった。


 かぐやが来て、よかった。


 チャトランが来て、よかった。


 マロンとおはぎが来て、よかった。


 賑やかになって、よかった。


 この家で生きてきて、よかった。


 でっかい人。


 ガラスケースから救ってくれて、ありがとう。


 いつでも、どこでも、一緒にいてくれて、ありがとう。


 ちょっと、休むかな。


 あなたの椅子の下が、一番落ち着くんだ。ずっとそうだった。最初からそうだった。なんでかは、わからないまま終わるけど、まあ、それでもいい。


 かぐや、チャトラン、マロン、おはぎ。

 あとは、頼んだぞ。お前たちなら、大丈夫だ。


 みんなの匂いがした。


 あたたかかった。


 よかった、と思った。


 おやすみ。

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