第九話の陰で ―怯える、おチビちゃん
わたしにとって、猫を観察するうえで、どうしても外せないことがある。
抱き心地でもない。においでもない。ふわふわの毛並みでもない。
それは、目線。
それも、単にわたしと目が合うとか、そういうことじゃない。
目線の先に、なにがあるか。
それが、わたしの一番気になることだ。
――――――
猫ちゃんたちは、とても感覚が鋭い。
お母さんがお魚を焼けばクンクンと鼻を鳴らして二階から飛んで降りてくるし、猫ちゃんたちのご飯の袋を開ける音が響けば、ご飯だとこれまた飛んでくる。
そして、目。
猫ちゃんの視力はあまりよくないと聞くけど、目でお話をしていると思う。だから、人の気持ちを、目で感じてる。人の感情の動きを、大きな目で拾ってる。だから、目と目が合った瞬間、人の気持ちが猫ちゃんたちに届く。そして、猫ちゃんたちは、その気持ちに応えてくれる。声で、しぐさで、そっとそばに来ることで。
みんなは普通だから、猫ちゃんからの気持ちを感じることが出来ないみたい。
でも、わたしは、なんとなくそれを感じることができる。
どうやってるの、って聞かれても、うまく答えられない。息をするみたいに、自然にわかる。目が合った瞬間に、向こうの気持ちがすっと届く感じ。嬉しいのか、眠いのか、遊びたいのか、怖いのか。言葉じゃなくて、なんか、伝わってくる。
それが、ちょっぴり自慢。
でも、これをお母さんやお兄ちゃんに伝えても、きっとわからない。もし、方法を聞かれても、答えられる自信がない。だから、言わない。
みんながよく、わたしが猫ちゃんたちに好かれているね、って褒めてくれるけど、ちょっぴりズルをしているだけ。
向こうの気持ちが読めるから、怖がらせない。嫌がることをしない。それだけのことなんだ。
――――――
そんなわたしだから、わかる。
猫ちゃんたちの目線の先に、何かがあること。
それが、動くもの、だということ。
テレビに映された猫ちゃんたちの映像かもしれない。お庭を楽しくダンスしている小鳥ちゃんかもしれない。風に揺れるカーテンの動きかもしれない。お兄ちゃんが落としたピンポン玉かもしれない。
そういうものに向けられた目線は、わたしにもわかる。楽しそうで、生き生きしていて、体全体がそっちに向いている感じ。
でも、問題はそこじゃない。
問題は、床の上を、家の隙間を、じっと見ているときの目線だ。
あの目線は、ちがう。
楽しそうじゃない。どこかしんと静まった、本気の目をしている。体が低くなって、耳がぴんと立って、お尻を振りながら、ギューッと力を溜めている。ゆっくりと何かに狙いを付ける準備をしている。
その目が向いている先に、いるもの。
わたしは、その名前を言わない。
言いたくない。
大の苦手のやつを――黒くてすばしっこいやつを。猫ちゃんたちが、本気の目で追いかけるあれを。
わたしは、猫ちゃんたちのそんな目を見た瞬間に、凍りつく。
あれは確か、お昼過ぎのことだった。わたしは二階の自分の部屋で、スケッチブックに絵を描いていた。大好きなキャラクターのイラストを描いていた。このキャラクターにはこんな服装が似合うかなと、あれこれファッションショーをしていた。
マロンの気配がわたしの部屋の前で止まった。
いつもなら、ドタドタと走ってきて、わたしの膝の上に飛び乗るか、机に乗ってきてスケッチブックの上に前足を乗せてきて邪魔をしてくる。でも、その日は違った。
気配がするのに、一向に部屋に入って来ない。部屋の前のドアが開け放たれた入口付近で立ち止まっている。振り返って様子を見た。
耳がぴんと立っていた。目が、部屋の隅の一点を凝視している。
わたしはすぐにわかった。
あの目だ。
本気の目だ。
握っていたペンをそっと置き、マロンの目線を追った。部屋の隅、本棚の下の隙間のあたりを見ていた。暗くてよく見えない。でも、マロンは確かに何かを見ていた。
体が、じわりと冷たくなった。
わたしは、そっと立ち上がった。椅子からは音が立たなかった。できるだけ静かに、できるだけゆっくりと、部屋の入り口に向かって後ろ向きに歩いた。マロンは入口付近から動かなかった。目線も動かなかった。ただ、本棚の下を見ていた。
マロンを乗り越え、廊下に出た瞬間、わたしは階段を転がるように降りた。
台所にいるお母さんのところへ。
「お母さん、で、出た!」
洗い物をしていたお母さんが、水を止めて、わたしに振り向いた。わたしの顔を見て、すぐにわかったんだろう。
「どこ」
「わたしの部屋の本棚の下」
お母さんがため息をついた。それから、洗面台の下に置かれたスプレー缶を握りしめ、二階へと向かった。
わたしは、一階で祈っていた。
どっちでもいいから、お願いしますって。
――――――
お母さんが一階に降りてきた時には、右手に何かが包まれたティッシュ、左手にスプレー缶が握られていた。
マロンがお母さんと一緒に降りてくる。
ドタドタと音を立ててる。いつものマロンだ。そして、いつものケージの三段目に登るかと思ったら、今日はみんなが座るソファーにドカッと丸くなった。
どこか誇らしげで、どこか満足そうでもあった。お母さんがティッシュの塊を持っていたから、マロンが獲ったわけじゃないのは分かっていたけど、あの戦い終わった戦士のような顔はどういうことだろう。マロンなりに何かを成し遂げたって思っているのかしら。
わたしは、マロンの隣に座った。
マロンが、こちらを見た。
「頑張ってくれて、ありがとう」
声に出して言ったわけじゃない。心の中で言った。
でも、マロンはわかったみたいだった。少しだけ、鼻先をわたしの手に近づけた。
ちょっぴり、お父さんみたいな顔だなって思った。
――――――
次の日、おはぎとかぐやが珍しく二匹揃って縁側の網戸の前に座っていた。
わたしは少し離れたところから、その様子を見ていた。
おはぎとかぐやさんが並んで見ていたのは、庭に降り立った小鳥だった。茶色くて小さい鳥が二羽、ちょんちょんと地面を跳ねるように移動をしていた。
二匹の目線が、その鳥を追いかけている。
右にちょんちょん。左にちょんちょん。
そのたびに、体の姿勢は変わらないのに、首から上だけでじっと追いかけている。
喉の奥でクルルルと鳴いている声が、わたしのいるところまで聞こえてきた。お腹の底から響き出している、あの独特の音。猫ちゃんたちが動くものを見ている時に出る音色だ。
わたしは、その目線を見ながら、少しホッとした。
床の隙間じゃない。庭の鳥だ。網戸があるから、外には出られない。これは、大丈夫。
だから、二匹がシンクロしているその姿を、じっと見ていた。いつまで見ていても飽きないなって思っていたら……おはぎが、わたしをちらりと見た。あんなに集中していたのに、わたしの気配に気がついたみたい。でも、邪魔しないで、という顔ではなかった。一緒に見ていいよ、という顔だった。
わたしも、庭の鳥を見た。
ちょんちょんと跳ねる小鳥は、わたしたち三人のことをまったく気にしていなかった。網戸の向こうに、三つの視線があることを、知らないのか、知っていて無視しているのか。
その無防備さが、なんだかおかしかった。
そう思っていた時だった。
ドーン。
ものすごい音がした。
わたしは爆発音のした方を見た。おはぎも飛び上がって後退りしている。かぐやさんだけが、耳をぴくっとさせるだけで飛び上がらなかった。さすが、かぐや。
音のした方を見ると、マロンが網戸に体ごとぶつかって、弾かれていた。
そして何事もなかったように、庭を見ている。もちろん、先程まで庭先で飛び跳ねていた小鳥たちは飛び立ってその場にはいない。
しばらく、誰も何も言わなかった。
かぐやさんが、ふいっと顔を背けて部屋を出ていった。
わたしは、マロンを見た。マロンは、庭に小鳥がいないことを確認し終わったからなのか、何事もなかったような顔をしてこちらを見てきた。
「良い作戦だと思ったんだけどな」
そう言っている気がした。
わたしは、ごめん、と思いながら、マロンを抱っこする。顔のニヤケが止まらない。声には出なかったけど、肩が揺れていたかもしれない。
マロンは照れ隠しなのか、それともいつもの心地よさにうっとりとしているのか、わたしの腕の中を堪能していた。
やっぱり可愛いな、この子も。
そして、この子は、遊びも一生懸命なんだな、と思った。
その気持ちが、わたしから伝わったのか、甘く溶けている顔が、少し誇らしげな感じに見えた。
そんなわたしたち二人を、おはぎは少しうらやましそうに見上げていた。
――――――
さっき見たことを、台所で夕飯の準備をしていたお母さんに報告した。
ドーンと何かが弾ける音に、お母さんも気がついていたので、何事かと思っていたらしい。わたしからの説明を受けて、大笑いしていた。マロンは二階で諭吉といた。この場にいなくて良かったって思った。
「でもね、マロンは真剣だったんだよ」
一生懸命に狩りをしていたマロンの名誉は、わたしが守ってあげなきゃね。
お母さんは笑い終わったあと、ボソリとわたしに教えてくれた。
「マロンはね、この家を守ろうとしているんじゃないかな」
この家を守る?わたしは想像が出来なかった。何から守るのかな?小鳥さんは別に、わたしたちに何かをするわけじゃないし……。わたしの不思議そうな顔をお母さんは覗き込んで、ふふふと笑った。
「マロンはね、自分は強いんだって分かってもらいたいのよ。守れる力があるんだって。そのために狩りが出来るんだってのを私たちに見せたいのよ」
そしてね、とお母さんは続けた。なんだか、少し悔しくなった。
「たぶんね、今は諭吉に相談しているんじゃないかな」
「さぁ、猫さんたちのご飯を用意して」と言って、お母さんは夕飯の準備を再開した。お母さんはわたしと同じように気持が分かるのかな。少しだけ聞いてみたくなった。
「お母さん、わたしと同じように猫さんの気持ちが分かるの?」
お母さんはもう一度手を止め、こちらを見てニコッと笑った。
「どうかな」
「さぁ、私たちもご飯よ」と促されたので、猫さんたちのご飯の用意に入った。
わたしがご飯を用意し終わった頃、諭吉とマロンが揃って階段を降りてきた。
少しマロンが大きくなった気がした。何かあったのかな、諭吉さんと。
――――――
翌朝、リビングに下りると、諭吉さんがいつもの椅子の下にいた。
目を合わせてみた。諭吉さんだけ、実はあんまり気持ちが分からない。
すっごく深くて、重いんだよなって分かるだけ。お父さんと話をしている時みたい。わたしがわがままを言って困らせている時に見せる、お父さんの目に似ている気がした。
諭吉さんの目が、少しだけ細くなった。
わたしは、しゃがんで、諭吉さんの頭をそっと撫でた。諭吉さんは逃げなかった。目を細めたまま、そこにいた。
なんか、おはようって言ってくれている気がした。
この目が、わたしは好きだなって思った。お父さんの目みたいで好きだなって。
そういえば、諭吉さんって、マロンがするような目は見たことがないなって思った。あの、何かを追いかける目。どっちかっていうと、ドシンとした強さを感じる目。ただ、そこにいるだけで安心する、という目。
大丈夫だよ、って目。
――――――
猫ちゃんたちの目線の先には、いろんなものがある。
動くものを追いかける目。守りたいものに向ける目。誰かと一緒にいたい目。何かをわかってほしい目。
わたしは、その全部を、なんとなく読める。
でも、一番好きなのは、大丈夫だよ、って伝えてくれる目線。
特に、諭吉さんのあの目。
いつまでもこの目で見守られていたいな。
そして、マロンもいつか、こんな目でわたしたちを見てくれるのかな。




