第八話のために ―悩む、お母さん
私はいつも迷っている。
ペットフードの棚の前で、腕を組んで唸ることが、もはや日課になってしまった。
1.2キロで1,400円のご飯がいいか、800グラムで900円のご飯がいいのか。グラム計算でお得を取るか、食いつきのいいご飯を優先するか。もしくは、ウェットなものがいいのか、いつものカリカリがいいのか。メーカーを変えるべきか、それとも同じメーカーで種類を変えるか。時には夫を伴い、量販店をハシゴして、ご飯の選定を行う。
考え出すと、きりがない。
ついつい思う。喋ってくれたらな。そして、自分たちで選んでくれたらな。好き嫌いがわかれば、こんなに悩まなくていいのに。
でも、それが言えないから、私が悩む。それが、この家の私の仕事。
――――――
今日のお昼から、新しいご飯にしてみた。
まだ以前のご飯は残っている。食いつきが悪かった時には少し混ぜて様子を見ようと思っていたが、それは杞憂だった。
チャトランとマロンがぺろりと食べるのは、最初からわかっていた。あの二匹は、何が出ても文句を言わない。チャトランは外で暮らしてきたせいか、出されたものを迷わず食べる。マロンは、そもそも食べられれば何でもいい。質より量って感じだ。自分のご飯を平らげた後、他の子の皿まで偵察に来るのはいつものこと。
かぐやが残すことも、承知していた。あの子は新しいご飯が苦手だ。においを嗅いで、また嗅いで、それでも口をつけない。気分が乗った時だけ食べる。それがかぐや。
問題は、おはぎ。
この子は慎重に吟味するタイプで、しかも結構グルメなところがある。おはぎが食べない時は、チャトランでさえ残すことがある。そうなると、かぐやは絶対に食べない。だから、おはぎが食べるかどうかが、この家のご飯の指針になっている。
そのおはぎが、ぺろりと食べてくれていた。
このご飯で正解だな、と安心した。
――――――
諭吉は、あまり食べていなかった。
仕方がない、と思うしかなかった。
諭吉の体質がわかったのは、最初の検診の時だった。ロシアンブルーの説明書きにも書いてあった。腎臓が弱い子が多いと。猫はもともと水をあまり飲まないから、結石になりやすい。そのため、水をたくさん飲ませる環境を作るか、食事にミネラルが少ないものをあげなければならない、と。
すぐに動いた。
ご飯の皿の横に水入れを置くのはもちろん、キッチンの横にも水入れを用意した。どこにいてもさっと飲める環境を作った。子どもたちにも手伝ってもらった。流れる水が好きな子が蛇口の近くで陣取っていたら、細めに蛇口をひねって飲ませてあげて、と伝えた。息子は言われた通りにやってくれた。娘は言わなくても、猫たちの様子を見て、自分から動いてくれた。
でも、諭吉には、それだけでは足りなかった。
結石を防ぐために、医療用の特別なご飯を用意することになった。他の子のご飯の、二倍近い値段がする。でも、仕方がない。味は美味しくないらしく、最初は見向きもしなかった。それでも、このご飯しかないと出し続けた。少しずつ、慣れてくれた。
今では、他の子に混じってご飯をあげても、他の子のご飯を奪ったりせず、自分のご飯だけを静かに食べてくれる。
自分でわかっているのかしら、と思うことがある。これが自分のご飯だと。これを食べなければいけないと。
諭吉は賢い猫。もしかしたら、本当にわかっているのかもしれない。
――――――
最近は、食も細くなった。
年齢的には、もうすぐ十歳になる。猫の十歳は、人間でいえば五十五歳から六十歳くらいだという。働き盛りを過ぎて、そろそろ引退、という頃合い。
諭吉を見ていると、凛々しく背筋の伸びたシルエットは、とてもそんな年齢には見えない。でも、数えてみると、もうそんな歳なのか、と改めて感じる。
諭吉をこの家に迎えた日のことを、時々思い出す。
夫とふらりと入ったペットショップにいた諭吉。私は最初、元気にアピールしている子に注目していた。しかし、夫が諭吉を選ぼうと言った。他の子たちがみんな鳴いている中で、諭吉だけが静かにこちらを見ていた。
と、コテッと首をかしげた。
その姿に惚れてしまった。
一目惚れだった。値段が安かった。その理由は、今ならわかる。それでも連れて帰った。
あの選択は、正しかった。
諭吉でなければ、かぐやを受け入れなかったかもしれない。チャトランも、マロンも、おはぎも。諭吉がこの家の真ん中にいて、認め、受け入れてくれたから、次々に新しい子が来ても、この家がひとつでいられた気がする。
もう少しだけ、元気でいてほしい。
そう思うと、ついつい、諭吉には甘くなってしまう。他の子には厳しくはないけれど、諭吉に対しては、何か特別なものを感じてしまう。もしかしたら、夫も同じなのかもしれない。あの人も、椅子の下の諭吉に、毎日一声かけてから座っている。
ふと見ると、マロンが諭吉のご飯を食べていた。
あらまあ、と思いながら、止めるに止められなかった。
他の子たちはなじまないというのに、マロンはがっつくように食べている。案外、美味しいのかしら。この子の舌はどうなっているんだろう、と毎度思う。
諭吉は少し離れたところから、それを見ていた。
どうだ、うまいか。そう言っているように見えた。いや、うまくないだろう、という顔をしていたかもしれない。どちらにしても、怒りも抗議もなかった。ただ、見ていた。
その顔を見て、胸がちくりとした。
諭吉のこの感じは、夫みたいね、と思った。争わず、試させて、怒らず、見守る。ただ、どっしりとそこにいる。この家に来た時からずっと、そうだった。
それが、諭吉という猫だ。
マロンが食べ終わって、満足そうに去っていく。諭吉は、いつの間にか二階に上がっていた。
また、かぐやと一緒かしら。
そう思うと、ほんのりと心が暖かくなる。あのお似合いの二匹のことを考えると。
台所に立ちながら、今夜は何を作ろうかと考えた。猫たちのご飯と、家族のご飯。どちらも、毎日迷う。でも、その迷いが、この家の日常だ。
賑やかで、ちょっと困らせて、でも、いてくれてよかったと思える日常。
それが、この家のあかり。




