越えられた一線
開かれた扉から、五つの影が滑り込むように入ってきた。
灰色のフード。
だが先頭の男だけは隠しきれない。
白髭と、あの目――大神官ニコラス。
その背後に、細身の少女。淡い緑の長髪が、布の隙間から覗く。
残る三名は護衛だろう。隙のない陣形で二人を囲んでいる。
そして。
――空気が、変わる。
言葉を発する前から、この場の主導権を奪ってくるような圧。
ニコラスはゆっくりとフードを下ろした。
「これはこれは、国王陛下。変わらぬ威光、何よりでございます」
「そなたもな。老獪さに曇りがない」
穏やかな言葉。
だが、互いに一歩も引かない。
――腹の探り合いだ。
そのままニコラスの視線が、滑るように移る。
梨香へ。
「勇者殿のご活躍、耳にしております。実に見事であったとか」
「――その勇者は貴殿の手から離れたはずだが?」
即座に、宰相が割って入る。
「随分と耳が早い。来訪もまた、迅速であるな」
だが。
ニコラスは、笑みすら崩さない。
「情報は、常に巡るもの。――特に興味深いものであれば、なおさら」
一拍。
視線が、ゆっくりとジャンへ落ちる。
「さて陛下。こちらの王孫殿ですが――」
静かに。
だが確実に、核心へ踏み込む。
「先日、力を振るわれたそうですな」
宰相の表情が、わずかに強張った。
「……何が言いたい」
「噂は耳にしております。ジャン王孫殿下の力――他者を支配するものだと」
「その力が効くのは昆虫のみだ」
即答。
だがニコラスは首をわずかに傾ける。
「……本当に?」
たった一言。
それだけで、空気が軋む。
――知っている。
そう言っているのと同じだ。
背筋に、冷たいものが走る。
「――同じ昆虫として、いかが思われますかな」
視線が、こちらに突き刺さる。
「導きの甲虫――ヘラクレス殿」
『……っ』
見透かされている。
いや――試されている。
「……おや、失礼。言葉を交わせぬのでしたな」
わざとらしく肩をすくめる。
その瞬間。
「パパ……いや、ヘラクレスは屈しなかった」
梨香が一歩前へ出た。
「ジャンの力に。彼をただの虫と侮るな」
『梨香……』
ニコラスの目が細まる。
「――ならば、理解しているはずだ。その力の本質を」
沈黙。
俺は短く伝える。
『……ジャンの力は、虫を操るスキルだ。それ以上でも、それ以下でもない』
「――ヘラクレスは、そう言っている」
梨香が代弁する。
「邪悪でも、特別でもない。ただのスキルだと」
一瞬の静寂。
そして。
「……なるほど」
ニコラスは、あっさりと引いた。
「今は――そういうことにしておきましょう」
――今は、だと。
その余裕が、逆に不気味だ。
その時。
「お待ちくださいませ!」
鈴のような声が、場を切り裂いた。
少女が一歩前に出る。
フードが外れ、緑の髪が広がる。
「まだ疑いは晴れておりませんわ!」
「……シェリー、さん……!?」
ピルクの声が震える。
「ピルク君……やはり、あなたでしたのね」
静かに歩み寄るシェリー。
その視線は冷たい。
「勇者の側にいるとは聞いておりましたが……教会を捨ててまでとは」
「何が言いたいんですか」
低く問うピルク。
シェリーは一切迷わない。
「偽りの勇者に与し、教会に背いた――その通りということですわね」
空気が凍る。
「……偽り、ですって?」
「ええ。教会に刃向かう存在が、神に選ばれたはずがございませんわ」
「……取り消してください」
静かな声。
だが、その奥で燃えている。
「リカーシャさんを侮辱しないでください」
「侮辱ではありませんわ。事実です」
一歩も引かない。
「わたくしは聖女見習い。神の意志を代弁する立場にありますの」
そして、見下す。
「堕ちたあなたとは違って」
――限界だった。
「……っ!」
ピルクが踏み出す。
だが。
「やめろ、ピルク!」
梨香が肩を掴み、止める。
「ですが……!」
「今は違う。ここで感情に流されるな」
歯を食いしばるピルク。
その様子を、ニコラスが静かに見ていた。
「……シェリー」
「……はい」
「その程度の者に、時間を割くな」
冷たい声。
「聖女であろう。ならば――見るべきは上だ」
一瞬の沈黙。
やがてシェリーは目を伏せる。
「……仰せの通りに」
だがその拳は、わずかに震えていた。
「……くっ……」
ピルクもまた、拳を握り締める。
ぶつかることなく。
ただ、火花だけが散った。
――これが。教会との、正面衝突。
「さて――少し、確かめさせていただきましょうか」
その一言と同時に。
ニコラスが、迷いなく一歩踏み出した。
「え、何……?」
ジャンの声がわずかに震える。
空気が、張り詰める。
「――それ以上、近づかないでください」
アイゼルが静かに前へ出る。
だが。
「……恐れる必要はございません」
ニコラスは止まらない。
その歩みは、あまりにも自然で――だからこそ、異様だった。
「確認するだけです」
伸ばされる手。
その指先が、ジャンに触れようとした瞬間。
「――触るな、と申し上げております」
アイゼルが、その手首を掴み上げた。
――同時だった。
衛兵の槍が一斉に構えられ、カルラの手が薙刀へ伸びる。
空気が裂ける。
『……来るぞ』
俺も角を構える。
梨香も、剣の柄に手をかけた。
戦闘になる。
――そう確信した、その瞬間。
「やめて……来ないで……!」
ジャンが、目を閉じた。
次の瞬間。
――空間が、歪んだ。
「……っ!」
分かる。
この感覚は――ジャンのフェロモンだ。
それも、制御されていない。
爆発的な放出。
「な、何だこれは……!?」
「……やはりか」
教会側の護衛が杖を構える。
だが、ニコラスだけは動かない。
ただ、見ている。
――観察している。
「……くっ……!」
衛兵も、カルラも、動ききれない。
何かに、足を止められている。
場が、崩壊しかける。
「一体、何が……!」
シェリーの声が揺れる。
その視線はジャンへ、そしてニコラスへと往復する。
理解できていない。
――だからこそ、恐れている。
そして。
全員が一歩踏み出しかけた、その時。
「――やめよ」
低く。
だが、絶対の声。
国王の一声だった。
その一言で。
場の全てが、止まる。
「ここは王の間である。武を振るうこと、余は許さぬ」
命令。
否――断絶。
その言葉に、誰一人として逆らえなかった。
槍が下がる。
薙刀が止まる。
魔力が引く。
そして。張り詰めていたものが、一斉に解けた。
「……あはは……っ」
ジャンが、その場に崩れ落ちる。
力の抜けた笑い。
だが、その額には汗が滲んでいた。
――制御しきれていない。
誰の目にも、明らかだった。
ニコラスは、その様子を静かに見下ろす。
表情は変わらない。
だが。
その目だけが、わずかに細められていた。
――確認は、終わった。そう言わんばかりに。
場に残ったのは、沈黙。
そして――決して元には戻らない、空気だった。




