第5話:『セーフゾーンの条件』
神崎が切り裂いた感染者の断面から、黒く凝固しかけた血液が階段の段差をぽたぽたと伝い落ちていく。
その生々しい痕跡を前に、湊は数秒間立ち尽くしていた。
(あいつは……俺のことになんて気づきもしなかった)
高校の頃からそうだった。学年トップの成績、生徒会長、整った容姿、運動神経。
何をやってもそつなくこなし、取り巻きに囲まれていた神崎蓮。
対して一条湊は、クラスの隅で適当に漫画を読み、赤点を回避するだけの冴えないモブ。
同じ世界が壊れたというのに、あいつは自前の「異能」のような力でスマートに怪物を両断して去り、自分は賞味期限切れの納豆とハバネロ水を駆使して、泥棒まがいの隣人を追い払うのがやっと。
「……ま、張り合っても腹が減るだけか」
湊は小さく頭を振って自嘲し、思考を切り替えた。
惨めさに浸る時間すら、この世界では命取りだ。生き残るためには、目の前にある青い板を徹底的に使い倒すしかない。
視界の端で点滅しているシステムウィンドウをタップするように意識を集中させる。
【未割り当てSP:50】
(さっきは敏捷に全振りして助かったが……次は外に出るんだ。足が速いだけじゃ、囲まれたら詰む)
敏捷はすでに22。常人の倍近くまで引き上げられているため、次は攻撃の破壊力と持久力、そして耐久力だ。
「システム、筋力に20、体力に20、敏捷に10振る」
――カチリ。
【ステータス更新】
名前:一条 湊
レベル:3
HP:75 / 75(+20)
MP:25 / 25
筋力:30(一般成人の約3倍)
敏捷:32(常時スプリント級の瞬発力)
知力:10
運:6
未割り当てSP:0
背筋から四肢の末端にかけて、熱い電流が駆け抜けた。
骨密度が凝縮され、筋肉の繊維が鋼のように引き締まる感覚。先ほどまで重く感じていたモップスピアが、まるで割り箸のように軽く指先に馴染む。
長谷川たちから巻き上げた【金属バット】をインベントリから実体化させて右手に握ってみる。
片手で軽く振るだけで、ビュンッと空気を鋭く引き裂く重い風切り音が鳴った。これなら感染者の頭蓋骨くらい一撃で粉砕できる手応えがある。
「よし、準備はいい。……行くか」
湊はスニーカーの靴紐を固く結び直し、1階のエントランスへと階段を降りた。
神崎が通り抜けたガラス扉は粉々に割れ、外の生ぬるい風が埃とともに吹き込んできていた。
一歩、アパートの敷地からアスファルトの路地へ足を踏み出す。
――ピロン♪
【フェーズ1:アパート敷地内からの脱出――条件達成】
【現在地:東京都新宿区・第14観測区(危険度:D+)】
【セーフエリアの候補地をスキャン中……】
【推奨ポイント:前方80m先『コンビニエンスストア』】
【条件:店舗内の感染者を全て排除し、主要出入口を封鎖せよ】
視界の路地の先に、半透明の黄色いマーカーがピン留めされたように浮かび上がった。
あそこか。駅前の大通りに面する手前にある、いつも利用していた小さなコンビニだ。食料と水の補給も兼ねられる。
だが、路地は決して安全ではなかった。
アスファルトには乗り捨てられた軽自動車が電柱に激突してフロントを潰しており、ガラスの破片が散らばっている。
そして、その周囲を徘徊する人影が三つ。
青いウィンドウが瞬時に対象を識別する。
【対象:変異感染者(フェーズ1)×3】
【脅威度:低】
【行動パターン:視覚・聴覚に依存した直線的追殺】
3体のうちの1体――元は宅配便の制服を着ていた若い男の感染者が、湊の靴音に反応して首をギチギチと鳴らしながら振り向いた。
白濁した瞳孔が湊を捉える。
「ア……グアァァァッ!」
喉を掻きむしるような咆哮を上げ、宅配員の感染者がアスファルトを蹴って突進してきた。常人なら竦み上がるほどの猛スピード。
だが、敏捷32の湊の視界には、その突進がまるでスローモーションのコマ送りのように映っていた。
(遅い……全部見える)
さらに、スキル【急所看破】が自動発動する。
突進してくる怪物の、右の側頭部と顎の下に、鮮やかな赤い光の球が明滅した。
湊は半身に構え、相手が間合いに入る寸前まで動かない。
怪物の爪が湊の胸元を裂こうと伸びた、まさにその瞬間――湊は左足をわずかに軸にして体をひねり、怪物の突進を紙一重でかわした。
すれ違いざま、右手の金属バットをフルスイング。
筋力30の剛腕が、赤い急所へ吸い込まれるように叩き込まれる。
バゴォォッ!!
スイカが破裂したような鈍い破壊音が路地に反響した。
側頭部を真横から粉砕された感染者は、錐揉み回転しながら電柱へと激突し、ピクピクと四肢を痙攣させた後、完全に動かなくなった。
【経験値×25 を獲得】
「……マジかよ」
湊自身がその威力に息を呑んだ。
人間の頭部をここまで容易く破壊できる力。これがステータスの上昇、システムの力か。
残る2体の感染者が、仲間の死体を意に介さず、左右から挟み込むように雪崩れ込んできた。
1体はエプロン姿の主婦、もう1体は作業着姿の老人。かつては普通の日常を生きていた人間たちだ。
(躊躇うな。こいつらはもう人間じゃない。立ち止まったら死ぬのは俺だ)
湊は感情のスイッチを意図的に切り落とした。
右から飛びかかってきた主婦の感染者の前蹴りを横ステップでかわし、金属バットの先端を喉仏へ突き出すように打ち込む。
ゴキッと気道が潰れる音が響き、体勢を崩したところへ、左手に構えたモップスピアを一気に振り下ろした。
ザシュッ!
頭頂部を貫通し、即座に絶命。
最後の一体、作業着の老人が背後から湊の肩に爪を立てようとしたが、湊は振り返りざまに回し蹴りをその鳩尾へ叩き込んだ。
筋力30の蹴りは、体重60キロ以上の肉体を軽々と2メートル後方へ吹き飛ばした。
アスファルトを転がる老人の感染者へ、湊は容赦なく踏み込み、バットを振り下ろす。
――ドグシャッ。
路地に、重い静寂が降りた。
【経験値×25 を獲得】
【経験値×25 を獲得】
【レベルアップ! Lv.3 → Lv.4 に上昇しました】
【筋力+1、敏捷+1、体力+1、運+1】
【50 SP を獲得】
肩で息をしながら、湊はバットの血糊を電柱に擦り付けて落とした。
返り血の生臭さが鼻をつくが、先ほどのような激しい嘔吐感はない。恐ろしいほど急速に、この地獄に適応し始めている自分がいた。
「ハァ……ハァ……コンビニまで、あと数十メートル」
湊は顔を上げ、目的地であるコンビニの看板を見据えた。
『コンビニエンスストア』
ガラス張りの自動ドアは半分開いたまま停止しており、店内の照明は消えて薄暗い。だが、陳列棚の奥から、複数の気配が蠢いているのが見えた。
そして、そのコンビニの脇――ゴミ捨て場の影に、誰かが隠れてこちらを覗き見ている視線を、湊の研ぎ澄まされた感覚が捉えた。
感染者ではない。
息を潜め、湊の戦いぶりを恐怖と計算が入り混じった目で見つめている、生きている人間の視線だ。
「……また、厄介ごとか」
湊は金属バットを肩に担ぎ直し、コンビニの闇と、物陰の生存者に向けて、冷たい視線を向けた。




