第4話:『善悪の天秤』
喉元に突きつけられた包丁の切先から、黒い血がポタリと男の胸元を汚した。
「ひっ……! た、助けてくれ……頼む、殺さないでくれぇ……!」
鉄パイプを取り落としたジャージの男は、両手を顔の前に突き出し、情けない悲鳴を上げながら床を這いずり下がった。
股間からは生温かいアンモニアの臭いが漂っている。恐怖のあまり完全に失禁していた。
その背後では、ハバネロ水を両目に浴びた長谷川が、今なお「目が、皮膚が溶ける、誰か水をくれぇ!」と廊下の壁に頭を打ち付けながら悶絶している。
湊の視界には、青いシステムウィンドウが静かに滞空していた。
【選択肢B:防衛的殲滅】侵入者を全員無力化、または殺害する。
【選択肢C:捕食者の誘因】階下の感染者を引き寄せ、彼らを肉壁にして脱出する。
(ここで全員殺せば、確実に経験値とポイントが入る。後腐れもない……)
冷徹な計算が頭をよぎる。敏捷22の身体は、男が立ち上がって逃げる隙すら与えずに頸動脈を貫けるだけのスピードを持っている。それを湊自身、本能的に理解していた。
だが、槍を握る湊の指先が、わずかに強張る。
「……殺す価値もねぇよ」
湊は低く吐き捨て、槍の切先を数センチ引いた。
聖人ぶる気は毛頭ない。ただ、システムの提示する「肉壁にして脱出」や「皆殺し」の甘い報酬に無思考で乗っかるのは、自分の意思をこの青い四角形に明け渡すような薄気味悪さがあった。
だが、タダで許すほど湊もお人好しではない。
「おい、ションベン垂れ」
「は、はいぃっ!?」
「身ぐるみ全部置いていけ。服、靴、ポケットの中身、そいつらの持ってる武器も全部だ」
「え……? でも、そんなことしたら……」
「今すぐ喉笛に風穴開けられるのと、パンツ一丁で部屋に引きこもるの、どっちがいい?」
湊が無表情のまま槍の先端を男の鼻先に突き出すと、男は「脱ぎます! 今すぐ脱ぎます!」と叫び、狂ったように上着とズボンを脱ぎ捨て始めた。
湊は手早く、気絶しているバール男と、のたうち回る長谷川のポケットからもライター、缶詰2個、万能ナイフ、そして彼らの武器である金属バットとバールを回収した。
【臨時インベントリ:金属バット(鈍器)、バール(工具/打撃)、十徳ナイフ、ツナ缶×2、オイルライターを収納しました】
「お前ら、自分の部屋に戻ってドアにバリケードでも築いてろ。次俺の前にその汚ねぇ面を見せたら、今度こそ脳天から串刺しにする」
男は下着一枚の姿で、気絶した仲間を引きずり、目を押さえて呻く長谷川の腕を引っ張りながら、転がるようにして上の階へと逃げていった。
廊下に、再び静寂が戻る。
足元には、最初に仕留めた佐々木の死体と、飛び散ったハバネロ水、そして黒い血だまり。
――ピロン♪
【クエスト[隣人たちの狂宴]が変則的に解決されました】
【判定:生存脅威の完全排除(追放・無力化)】
【特殊クリアボーナス:敵対者の全略奪(カルマ値:中立・現実主義)】
【経験値×80 を獲得】
【50 SP を獲得】
【警告:生存者グループに強い怨恨が残されました。再遭遇時の敵対確率:88%】
「やっぱり恨まれるか。ま、殺さなかっただけでも感謝してほしいくらいだけどな」
湊はため息をつき、モップスピアの先端を佐々木の服で拭った。
システムは「中立・現実主義」と判定したらしい。全員殺していればもっと多くの経験値が手に入ったのかもしれないが、人間を解体するような感覚に慣れすぎるのも恐ろしかった。
一歩ずつ、狂気に呑まれないように足場を固める必要がある。
(それにしても……)
湊は廊下の端、階段の吹き抜けを見下ろした。
長谷川の叫び声、そして先ほどのドタバタ劇。
防音性の低い安アパートの廊下で、あれだけの騒音を出してしまったのだ。
「……静かすぎる」
普通なら、下の階や外にいる感染者たちが音を聞きつけて群がってくるはずだった。
だが、階段の下からは、腐敗臭こそ漂ってくるものの、足音ひとつ聞こえてこない。
湊は息を潜め、靴音を殺しながら階段へと近づいた。
壁に背中を預け、2階へと続く踊り場を覗き込む。
踊り場の踊り場に敷かれた薄汚れたリノリウムの上に、それはあった。
「……なんだ、あれ……」
湊は思わず息を呑んだ。
そこには、3体の感染者が折り重なるようにして倒れていた。だが、湊が佐々木を殺した時のように頭部を突かれたのではない。
まるで精密機械で切断されたかのように、3体とも首から上が綺麗にスパッと両断され、壁には一直線の黒い血の帯が引かれていた。
人間業ではない。日本刀の達人がいたとしても、暗がりで3体同時に、これほど正確に頸椎を切り裂くことなど不可能なはずだ。
切断面から立ち上る湯気は、まだ温かい。
つい数分前――湊が長谷川たちと対峙している間に、何者かが階段を駆け上がり、瞬時にこの3体を屠って通り過ぎたのだ。
その時、湊の視界にノイズが走った。
【! 警告:近傍に『高エネルギー反応』を感知】
【未登録の干渉波形:解析不能……エラー】
【システム権限の重複は確認されず。
対象は『外部要因による覚醒体』と推測されます】
青いウィンドウが、今まで見たこともない赤混じりの警告色に点滅している。
「覚醒体……? システムを持ってるのは俺だけじゃないのか……?」
湊が呟いたその時、アパートの1階エントランスから、乾いた靴音が響いた。
コツ、コツ、コツ――。
感染者の引きずるような足取りではない。背筋を真っ直ぐに伸ばし、自分の力に絶対の自信を持つ者だけが鳴らす、堂々とした足音。
階段の踊り場の隙間から、湊はその姿を目撃した。
返り血ひとつ浴びていない白いカッターシャツ。
手には、どこから調達したのか、青白い燐光を帯びた細身のサバイバルナイフ。
そして、端正な顔立ちに浮かぶ、冷徹でありながら狂気を孕んだような澄んだ瞳。
「……神崎……?」
湊の喉から、掠れた声が漏れ出そうになった。
神崎 蓮。
高校時代の同級生であり、何をやらせても湊の遥か上を行っていた男。大学卒業後は大手商社に進んだと風の噂で聞いていたが、なぜこんな場所にいるのか。
神崎はアパートのガラス扉を押し破って外の通りへと歩み出ると、周囲を取り囲もうとする数体の感染者たちを一瞥した。
彼の右手から、蜃気楼のような陽炎が立ち上る。
「浄化する」
神崎が静かに呟いた瞬間、不可視の刃のような衝撃波が走り、感染者たちの胴体がサイコロのようにバラバラに崩れ落ちた。
システムのような青い画面は、神崎の周囲には一切展開されていない。
彼は、自分自身の内なる『何か』を使って怪物を消滅させていた。
神崎は眉ひとつ動かさず、崩れ落ちた肉塊を踏み越えて、立ち込める霧の奥――新宿駅の方向へと姿を消していった。
【対象のロストを確認。空間警戒レベルを通常に戻します】
【プレイヤー一条 湊へ、新たなメインクエストを提示します】
青い画面が、静寂を取り戻した湊の目の前に滑り込んできた。
【メインクエスト:東京崩壊・生存圏の確保(全10段階)】
[フェーズ1:アパート敷地内からの脱出(難易度:D)]
概要:このアパートは完全に孤立し、周囲の感染者密度が上昇しています。外の世界へ踏み出し、安全な一時中継地点を見つけなさい。
クリア条件:アパート敷地外への脱出、および半径100m以内のセーフエリア確保
推奨:残存SPの割り振り、および新装備の確認
湊は、神崎が去っていった階段の先を見つめたまま、拳を固く握りしめた。
「あいつは……自力であんな化け物じみた力を手に入れたってのかよ」
自分は、得体の知れないシステムにケツを叩かれ、ハバネロ水を撒き散らして泥臭く生き延びているというのに。
劣等感と、冷たい闘志が、湊の胸の奥で静かに火を灯した。
世界は壊れた。
だが、理不尽な格差だけは、前と変わらずそこに転がっていた。




