第3話:『理性の剥落』
薄い玄関ドアを隔てた廊下に、男たちの湿っぽい足音が溜まっていく。
「おい一条、いるんだろ? 開けろよ」
ノックの代わりに、金属バットの先端でドアノブをコツコツと叩く音が響いた。
声の主は、3階の角部屋に住む小太りの男・長谷川だ。
世界が狂う前は、ゴミ出しの分別ルールにうるさい細目の冴えない中年男だった。
だが今、ドアスコープの向こうに見えるその目は、獲物を追い詰めたハイエナのように血走り、口元には下品な笑みがこびりついている。
「無視すんなって。下の佐々木をやったのはお前だろ?
感謝してんだよ、危ねえ奴だったからな。……だからよ、助け合おうぜ?お前の部屋にある食い物と水を出し合って、みんなで生き残る相談をしようって言ってんだ」
猫撫で声の裏に、隠しきれない飢餓と暴力の匂いがべったりと張り付いている。
後ろに控える二人の若者――同じくアパートの住人で、コンビニ帰りのようなジャージ姿の男たちも、手にしたバールや鉄パイプを落ち着きなく握り直していた。
彼らの足元には、先ほど湊が刺し殺した佐々木の死体が無造作に転がっている。
(助け合う、ね……)
湊は無言のまま、三和土の冷たい床に片膝をついていた。
手には血糊でベタつくモップスピア。
彼らの言う「相談」が何を意味するかなど、考えるまでもない。
ドアを開けた瞬間に組み伏せられ、持っている食料も水も根こそぎ奪われ、用済みになれば外の感染者除けの囮として放り出されるのがオチだ。
人間は、法と秩序のタガが外れた瞬間、これほど容易く肉食獣へ退行する。
震えていた湊の指先から、奇妙なほど熱が引いていた。
代わりに、冷え切った思考が頭蓋の奥で静かに回転を始める。
その時、視界の正面に青い光の枠がノイズ混じりに弾けた。
――ピロン♪
【突発イベントが発生しました】
[選択クエスト:隣人たちの狂宴(難易度:E+)]
概要:崩壊したコミュニティの生存者3名が、あなたの資源強奪を目論んでいます。終末における最大の脅威は、常に知性を持った同族です。
クリア条件:以下のいずれかを選択・完遂せよ。
・選択肢A:【無抵抗の従属】ドアを開け、全物資の80%を差し出す。(生存率:12%/報酬:経験値×10)
・選択肢B:【防衛的殲滅】侵入者を全員無力化、または殺害する。(生存率:45%/報酬:経験値×150、100 SP、スキルブック『威圧』)
・選択肢C:【捕食者の誘因】階下の感染者を引き寄せ、彼らを肉壁にして脱出する。(生存率:68%/報酬:経験値×200、150 SP、称号『冷酷な策士』)
「……おいおい、システムさんよ。選択肢Cが一番エグい上に報酬高いってどういう了見だ」
湊は声を出さず、乾いた唇の端を吊り上げた。
このシステムは、湊を正義の味方に仕立て上げる気など微塵もないらしい。生き残るためなら、同胞を餌にすることすら推奨してくる。悪趣味極まりない。だが――
「選択肢Aの生存率12%って、開けたらほぼ殺されるって答え合わせじゃねぇか」
外から苛立ちを含んだ怒鳴り声が飛んできた。
「おい一条! 返事くらいしろコラ! 死体の山に火ぃつけて、この部屋ごと焼き殺されたいのか!?」
長谷川がバットでドアを強く殴りつけた。
ガンッ! という甲高い金属音が狭いワンルームに反響する。
湊は息を吸い込み、わざと震え声を作ってドア越しに応えた。
「ま、待ってください……! 開けます、開けますから! 乱暴なことはしないでください……!」
演技だと悟られないよう、極限まで怯えた情けないトーン。
ドアの向こうで、男たちの嘲笑が漏れた。
「ほら見ろ、ビビってやがる。早く開けろ、鍵外せ!」
「いま、チェーン外します……でも、本当に食料を分けたら、手出しはしないって約束してくれますよね……?」
「当たり前だろ! 俺たち仲間じゃないか、なぁ?」
長谷川が仲間の男たちと目配せし、ニヤリと下卑た笑みを交わすのがドアスコープ越しに見えた。
ジャージの男がバールを握り直し、ドアが開いた瞬間に踏み込む体勢を取っている。
約束を守る気など最初からない。
湊は冷徹にステータス画面を開いた。
名前:一条 湊
レベル:3
HP:55 / 55 MP:25 / 25
筋力:10 敏捷:12 知力:10 運:6
未割り当てSP:50
(50ポイント……全部『敏捷』に振る)
【警告:極端なステータス配分は肉体への負荷を伴います。実行しますか?】
「構うな、全振りだ」
――カチリ。
【ステータス更新:敏捷 12 → 22(一般成人男性の約2倍)】
次の瞬間、湊の全身の筋肉に、炭酸水を直接流し込まれたようなパチパチとした刺激が走った。
足の裏が床に吸い付くように軽く、呼吸が深く、周囲の空気の粘度が下がったかのような錯覚。
世界がほんの少しだけ、ゆっくりと動き始める。
さらに、インベントリから先ほど手に入れた【ランダム食料ボックス】を取り出し、思考の中で展開した。
【アイテム使用:[ランダム食料ボックス]】
【獲得:『超激辛ハバネロチリペッパーパウダー(業務用500g)』を獲得しました】
「……は? 食料ボックスから香辛料?」
思わず眉をひそめかけた湊だが、次の瞬間、その口元に歪な笑みが浮かんだ。
「いや……上等だ。使える」
湊は素早く台所へ戻り、プラスチックのボウルにハバネロパウダーをぶちまけた。そこへ残り少ない水道水をほんの少し垂らし、濃厚なペースト状に練り上げる。立ち上る刺激臭だけで鼻の奥がツンと痛み、涙が滲むほどの劇薬だ。
「おい一条! 何モタモタしてんだ、早く開けろ!」
外からの怒声が限界に達し、ドアノブがガチャガチャと激しく揺れる。
「今開けます! ドア、少し重いので引いてください!」
湊は左手でドアの鍵を外し、ドアガード(チェーン)を掛けたまま、ドアをわずか数センチだけ細く開けた。
「おっ、やっと開いたか――」
長谷川が待ちきれない様子で、チェーンの隙間に顔を寄せ、中を覗き込もうと目を細めた。
その瞬間。
「うわ、すいません手が滑った!」
湊の白々しい叫び声とともに、チェーンの隙間から、赤いペーストをたっぷり含んだ洗面器の水が一気にぶちまけられた。
「ぶッ――!? ぎゃあああッ!? 目が、目がァァァッ!!」
至近距離からハバネロ水を顔面、特に両目に直撃された長谷川が、この世の終わりような悲鳴を上げて廊下に転がった。
皮膚が焼けるような激痛にのたうち回り、目を手で押さえながら狂ったように叫ぶ。
「ひ、長谷川さん!? てめぇ、何しやがっ――」
後ろにいたバール持ちのジャージ男が、武器を振り上げようとした。
だが、遅い。
敏捷値を22まで引き上げた湊の身体は、男の動きがまるでスローモーションのように見えていた。
ジャキンッ!
湊は迷わず内側からチェーンを外し、ドアを外側へ向けて全力で蹴り飛ばした。
ドゴォッ!!
重い鉄の扉が、踏み込もうとしていたバール男の顔面にカウンターで激突する。
「ガハッ!?」
鼻骨が砕ける生々しい感触。男は吹き飛び、廊下の壁に後頭部を強打して白目を剥いて崩れ落ちた。
わずか二秒。
残る一人は、鉄パイプを持ったもう一人の若者だけだった。
彼は床でのたうち回る長谷川と、一撃で気絶した仲間を見下ろし、そして――ドアの影から血まみれのモップスピアを提げて歩み出てきた湊を見て、完全に腰を抜かしていた。
「ひ……っ、あ……」
湊の瞳には、怒りも、怯えもなかった。
ただ底知れない冷たさだけが宿っている。
その無機質な視線は、先ほどまでドアの向こうにいた怪物のそれと、何も変わらないように見えた。
「おい」
湊が一歩、足を踏み出す。
「お前ら、さっき『死体の山に火をつけて焼き殺す』って言ったよな?」
「ち、ちが……俺は長谷川さんに言われて、ついてきただけで……っ!」
鉄パイプの男はガチガチと歯を鳴らし、武器を取り落として尻餅をついた。
湊は男を見下ろしたまま、視界の隅に浮かぶクエスト画面に目をやった。
【選択肢B:防衛的殲滅】と【選択肢C:捕食者の誘因】の文字が、青く冷たく明滅している。
この男たちを生かして返せば、恨みを持って再び仲間を集めて襲ってくるかもしれない。
安全を期すなら、ここで全員の息の根を止めるべきだ。システムの言う通りに。
湊はモップスピアの切先を、床にへたり込む男の喉元へと、ゆっくりと突きつけた。
切先から、先ほど殺した佐々木の黒い血が、ポタリと男の胸元に落ちる。
終末の理不尽が、湊の魂を試すように、重くのしかかっていた。




