第2話:『ドアスコープの向こう』
ガコン、ガタンッ!
安アパートの薄いスチール製ドアが、外側からの激しい衝撃に軋んだ音を立てる。
冷たい鉄のノブが、ガチャガチャと狂ったように上下に揺れ動く。鍵がかかっているため開かないが、ドア枠を固定しているネジが悲鳴を上げているのがわかった。
「……ッ」
湊は息を殺し、足音を消して玄関の三和土へと進み出た。
両手に握りしめた『即席モップスピア』のアルミパイプが、掌の汗でじっとりと濡れていく。
(落ち着け。考えるんだ。システムが言ってたろ……)
視界の隅に浮かぶ、青く輝く無機質な文字。
【緊急クエスト:階下の脅威を排除せよ(難易度:E)】
残り時間は表示されていない。だが、ドアが破られれば部屋の中に雪崩れ込まれ、狭いワンルームで組み付かれて終わる。それだけは確実だった。
湊は息を止め、慎重に玄関ドアの覗き穴――ドアスコープに片目を寄せた。
魚眼レンズ特有の歪んだ視界の先。薄暗い共用廊下に立っていたのは、見覚えのある姿だった。
下の階、201号室に住んでいる男だ。
確か名前は佐々木といったか。
いつも安物の香水と煙草の匂いを漂わせ、夜中に大音量でゲームをしては隣人と揉めていた、粗暴なフリーターの男だ。
だが、今の佐々木は人間ではなかった。
シャツの前襟は引き裂かれ、露出した胸元から首筋にかけて、黒く変色した血管がミミズのように脈打ち浮き出ている。
白目は完全に血走って濁り、剥き出しになった歯茎からは、黄色く濁った唾液が糸を引いて垂れていた。
(あいつ……完全に感染してる……)
佐々木は鼻をヒクヒクと鳴らし、ドアの隙間に顔を擦り付けるようにして嗅ぎ回っていた。
システムが言っていた「納豆の匂い」に引き寄せられたというのは、どうやら冗談ではなかったらしい。発酵臭に狂ったように反応している。
その時、湊の視界に半透明のポップアップが割り込んできた。
【対象をロックオンしました】
対象:感染者(フェーズ1/元・佐々木 健太)
生命力(HP):30 / 30
脅威度:低
特性:【痛覚遮断】【肉体リミッター解除】【音・臭気への過剰反応】
弱点:頭部(延髄、脳幹の破壊)
推奨攻略法:ドアの郵便受けを利用した限定的刺突。
「……おいおい、急に親切だな」
湊は引きつった笑いを漏らした。
だが、その提案は理に適っていた。ドアを全開にして戦えば、力任せに押し倒されて噛みつかれる危険がある。
だが、郵便受けの細いスロットからなら―― 一方的に攻撃できる。
(やるしかない。殺さなきゃ、俺が食われる)
湊は喉の渇きを覚えながら、インベントリに眠っていたもう一つの報酬を思い出した。
先ほど手に入れた【初期スキル選択チケット】だ。
「システム、チケットを使う!」
心の中で叫ぶと、視界が一瞬で暗転し、三つの光るカードが展開された。
【初期スキル選択:以下の3つから1つを選択してください】
1. [直感回避(Lv.1)]:敵の初撃に対する回避率が微小上昇する。(生存率重視)
2. [急所看破(Lv.1)]:敵の弱点部位が赤く発光して視認できるようになる。(戦闘補助)
3. [ポーカーフェイス(Lv.1)]:他者から感情を読み取られにくくなり、精神的動揺を軽減する。(対人特化)
迷う時間はなかった。目の前の怪物を仕留めるために必要なのは、生存の保険でも対人戦の駆け引きでもない。「確実に頭を仕留める一撃」だ。
「2番!『急所看破』を選択!」
【スキル[急所看破(Lv.1)]を習得しました】
ピキリ、と頭の奥で神経が繋がるような感覚が走る。
再びドアスコープに目を向けると、外で蠢く佐々木の、喉仏の少し上――顎の下から後頭部へ抜けるラインに、小さな赤い光の球がぼんやりと浮かび上がって見えた。あそこが脳幹だ。
「よし……」
湊は左手で郵便受けの内蓋を、音を立てないようにゆっくりと押し下げた。
外の冷たく淀んだ空気と、鼻をつく腐敗臭がダイレクトに部屋の中へ流れ込んでくる。
隙間から外を見ると、ちょうど佐々木の太ももと腹部が見えた。背丈からして、頭の位置はもう少し上だ。
カチャリ。
郵便受けの金属音が小さく響いた瞬間、佐々木がピクッと反応した。
「ギ……ッ!?」
血走った瞳が下を向き、郵便受けの隙間から湊と目が合った。
肉食獣が獲物を見つけたような濁った歓喜の呻き声。佐々木は郵便受けに指を突っ込もうと、無理やり顔を押し下げて覗き込んできた。
赤い光が、郵便受けの真正面にピタリと重なる。
(今だッ!!)
湊は腰を落とし、両腕の筋肉をきしませて『モップスピア』を一気に突き出した。
ザシュッ――!!
「ア……ガッ!?」
手応えは、熟れすぎたスイカに棒を突き立てたように鈍く、重かった。
三徳包丁の鋭利な切先が、郵便受けの隙間から佐々木の開いた口へと吸い込まれ、そのまま上顎を突き破って頭蓋の奥深くへと突き刺さる。
ドロッとした、異様な生温かい黒い液体がモップの柄を伝って湊の手首に飛び散った。
鉄錆と腐敗の匂いが爆発的に広がり、胃が激しく痙攣する。
「う、ぐ……あぁぁぁッ!!」
湊は恐怖と吐き気を誤魔化すように叫びながら、さらに柄を両手で押し込み、横に抉るように捻った。
グチャリ。
脳を破壊された佐々木の身体から、プツンと糸が切れたように力が抜けた。
バタン、と廊下に倒れ込む重い音。包丁が骨から引き抜かれ、血塗られた刃先が郵便受けから部屋の中へ戻ってくる。
「ハァ……ハァッ……ハァッ……!」
湊はその場にへたり込み、血まみれのモップスピアを取り落とした。
掌が激しく震えて止まらない。心臓が早鐘のように肋骨を打ち鳴らしている。
人を殺した。昨日まで同じ世界で、同じ空気を吸って生きていた人間を、この手で。
だが、そんな湊の感傷を嘲笑うかのように、頭の中で小気味よいファンファーレが鳴り響いた。
――ピロリロリン♪
【緊急クエスト達成:[階下の脅威を排除せよ]】
【経験値×50 を獲得】
【レベルアップ! Lv.2 → Lv.3 に上昇しました】
【筋力+2、敏捷+1、体力+1】
【報酬:50 SP、[ランダム食料ボックス]がインベントリに送られました】
ステータスが上昇した瞬間、全身の疲労と吐き気が、まるで冷たい水を浴びせられたようにスッと引いていった。
レベルアップによる肉体の回復と最適化。
このシステムは、湊が罪悪感に浸ることすら許さず、効率的に「生存のための兵器」へと作り替えようとしているかのようだった。
「……なんて、悪趣味なゲームだよ」
湊が自嘲気味に呟き、震える手で血を拭おうとした、その時だった。
外の廊下から、佐々木のものとは違う**『靴底がコンクリートを擦る音』**が聞こえてきた。
一つではない。二人、三人。
ゆっくりと、だが確実にこの部屋の前に近づいてくる足音。
感染者のような無秩序な足取りではない。
周囲を警戒しながら、獲物を囲い込もうとする人間の足音だ。
「おい、佐々木の野郎が倒れてんぞ」
「頭やられてる……死んでるな。中から刺されたか?」
ドアの向こうから、低く濁った男たちのヒソヒソ声が漏れ聞こえてきた。
湊は息を呑み、再び床の槍を握り直してドアスコープに目を当てた。
そこに映っていたのは、感染者ではなかった。
金属バットやバールを手にした、このアパートの別の階の住人たち――生き残った三人の男たちだった。
その中心にいる小太りの男は、湊の顔見知りでもある3階の住人だ。だが、その顔には隣人を気遣う表情など微塵もなく、ぎらついた欲望と狡猾な笑みが張り付いていた。
「おい、一条の部屋だろここ。あいつ、一人暮らしのくせに引きこもってやがったからな」
「食い物溜め込んでるかもしれねぇぞ。佐々木を殺せるくらいの武器もある」
「開けさせようぜ。開けなきゃ、佐々木の死体をドアの前に山積みにして火ぃつけて燻り出してやるって脅せばいい」
彼らの目には、理性の光はなかった。
怪物が徘徊する世界で、早くも「人間を狩る側」へと堕ちた同類たちの、生々しい悪意。
湊はスコープから目を離し、薄暗い玄関で静かに立ち上がった。
先ほどまで胸を焦がしていた「人を殺してしまった」という罪悪感は、男たちの言葉を聞いた瞬間、氷のように冷たく凍りついて消えていた。
「……そうかよ」
湊の目が、わずかに細まる。
助けを求めて泣きつくような善人になるつもりは毛頭ない。
奪われるくらいなら、奪い返すまでだ。
視界の隅で、青いシステムウィンドウが、まるで湊の思考を見透かしたかのように、新たな通知をチカチカと明滅させ始めた。




