第1話:『賞味期限切れの日常』
賞味期限が三日切れた特売の納豆は、フィルムを剥がすと普段よりほんの少しだけアンモニアの臭いが強かった。
一条湊(いちじょう・みなと、二十四歳)は、割り箸の先で豆を執拗にかき混ぜながら、ベランダ越しに見える外の景色をぼんやりと眺めていた。
いつもなら、午前八時半の新宿区外れの路地は、駅へ小走りで向かうサラリーマンの革靴の音や、保育園へ急ぐ電動アシスト自転車のブレーキ音で満ちているはずだった。
だが、いま耳に届くのは、湿った風が電線を揺らすヒューという低い音と、遠くで時折響く、金属が擦れ合うような鈍い重低音だけだ。
電波は三日前に死んだ。
水道は昨夜から赤錆色の水がチョロチョロと出るだけになり、電気は一昨日の夜、街灯が一つずつプツンと消えていくのと同時に完全に落ちた。
「……混ぜれば混ぜるほど、現実逃避できるってテレビで言ってた気がするな」
湊は独り言を呟き、かき混ぜる手を止めた。
ベランダの手すりから身を乗り出して真下を見下ろす。
アパートの前の細い路地を、スーツをボロボロにした中年男性がふらふらと千鳥足で歩いていた。
ただし、首の角度がおかしい。
左肩に完全にくっつくほど直角に折れ曲がっており、口元からはどす黒い粘液がだらだらと垂れ流されている。
その男――かつて隣の棟で愛想よく挨拶を交わしていた住人は、道路に転がっていた野良猫の死骸を見つけると、動物のような身軽さで飛びつき、バリバリと骨を砕く音を立てて貪り始めた。
「……うん、無理」
湊は静かに窓を閉め、遮光カーテンをきっちり引いた。
世界は終わっていた。
テレビが最後に伝えたニュースでは「狂犬病に酷似した新型ウイルスによる暴動」だの「都市封鎖」だの言っていたが、あれはどう見てもゾンビだ。ゾンビ映画で何度も見た、噛まれたら終わり、脳を破壊しないと止まらない、あの最悪の怪物たちだった。
部屋にある食料は、パックご飯が二つ、カップ麺が三つ、そして今混ぜ終えた賞味期限切れの納豆。
備蓄が尽きれば、飢えて死ぬか、外に出てあの肉塊の一部になるかの二択。
就職活動に失敗して派遣のデータ入力を細々と続け、ようやく正社員雇用の話が持ち上がっていた矢先のこれだ。
湊の人生は、いつだって肝心なところで梯子を外される。
「母さん、仕送り用の乾麺、もっと送っといてくれればよかったのに……」
天井を仰ぎ、情けないため息をついた、その瞬間だった。
――ピロン♪
静寂に包まれたワンルームに、信じられないほど場違いで、妙に耳触りのいい電子音が鳴り響いた。
スマホの着信音ではない。
頭蓋骨の内側に直接、良質なスピーカーを埋め込まれて鳴らされたような、クリアな高音。
「な、んだ……?」
湊が目をしばたたかせた瞬間、視界の中央に、空間を切り裂くようにして半透明の青い板が展開された。
【システム起動シーケンス:完了】
【適合者生体ID:一条 湊(Ichijo Minato)を確認しました】
【ようこそ、『終末適応OS(Arch-Type ver.0.09b)』へ!
対象文明圏の崩壊率が規定値(80%)を超過したため、救済プロトコルに基づき、あなたへ特異端末権限を譲渡します。】
「……は?」
湊は目をこすった。強く瞑ってからパッと開けてみる。
青い光のウィンドウは消えるどころか、湊の視線の動きに合わせて滑らかに追従してきた。
まるで最新のスマートグラスをかけているかのようだが、彼の顔には百均で買った伊達メガネすら乗っていない。
【プレイヤー初期ステータスを読み込み中……】
名前:一条 湊
レベル:1
職業:無職(派遣期間満了に伴う)
生命力(HP):45 / 45
精神力(MP):20 / 20
筋力:8(平均成人男性:10)
敏捷:11(逃げ足だけは人並み以上)
知力:10
運:6(割と不遇な人生)
【固有スキル】:未開放
【所持ポイント】:0 SP
「おいコラ、職業の補足説明と運の評価は余計だろ。誰が無職で不遇だ、事実だけど」
思わず青い画面に向かってツッコミを入れた。
声に出して喋ると、ウィンドウがふわりと揺れ、次の文字列を紡ぎ出した。
【チュートリアル・クエストが生成されました】
[クエスト:初めての第一歩(難易度:F)]
概要:終末を生き抜く基本は『現状把握』と『自衛手段の確保』です。部屋にある物で武器を作成し、生き残る覚悟を決めなさい。
クリア条件:即席武器の作成(打撃、刺突、あるいは投擲属性)
報酬:経験値×10、小型飲料水(500ml)×2本、初期スキル選択チケット×1
制限時間:00:14:59(時間超過時ペナルティ:窓の鍵が遠隔解除されます)
「はぁッ!? ペナルティ!?何考えてんだバカ!!」
カウントダウンが既に無情にもチクタクと数字を減らし始めている。
00:14:55、00:14:54――。
ペナルティの『窓の鍵が遠隔解除』という文字を見た瞬間、先ほど真下で猫を貪っていた男の姿が脳裏をよぎった。
もしあの男が、あるいは他の奴らがアパートの非常階段を上がってきて、ベランダから侵入してきたら?
「冗談だろ……幻覚じゃないのかよこれ!?」
湊はパニックになりながらも、反射的に台所へ走った。
即席武器の作成。台所といえば包丁だ。
引き出しから三徳包丁を取り出し、手に握る。
【判定:既製品の調理器具(未加工)。『作成』の条件を満たしていません。】
「注文が多いなクソシステムめ!」
湊は部屋を見回した。作成、作成……何かと何かを組み合わせる必要があるのか?
目に入ったのは、掃除用のクイックルワイパーの柄と、布粘着テープ、そして今持っている三徳包丁。
ゾンビ映画の定番、即席の槍だ。
「うおおおお、やればいいんだろ、やれば!」
床に座り込み、ワイパーの先端のシート取り付け部分を足でへし折る。アルミパイプの先端に包丁の柄を押し込み、布粘着テープを狂ったようにぐるぐる巻きにした。
一巻き、二巻き、これでもかと力を込めて巻きつけ、包丁がグラつかないように固定する。
息を切らしながら完成したブツを持ち上げた瞬間、視界の中で青い光が弾けた。
――ファンファーレ♪
【クエスト達成:[初めての第一歩]】
【即席モップスピア(刺突属性/耐久度:15)を作成しました】
【報酬が付与されます:経験値×10 を獲得】
【レベルアップ! Lv.1 → Lv.2 に上昇しました】
【全ステータスが微小上昇し、HP・MPが全快しました】
【インベントリが解放されました。報酬アイテム(飲料水×2本、初期スキルチケット×1)を収納しました】
目の前の空間に小さな波紋が広がり、ポン、と音を立てて冷えたペットボトルの緑茶が二本、畳の上に転がり落ちてきた。
湊は息を呑み、震える手でそのうちの一本を拾い上げる。
冷たい。ラベルには見慣れた大手メーカーのロゴ。結露した水滴が指先を濡らす。
「本物……だ……」
これは夢でも、空腹が見せた幻覚でもない。
世界が地獄へ堕ちていく中で、湊の目の前にだけ、現実を塗り替える『ゲームのような法則』が降って湧いたのだ。
【プレイヤーの精神状態が安定しました】
【これより、本番クエストを発行します】
無機質なシステムメッセージが、新たな文字を淡々と表示していく。
だが、その内容は先ほどのチュートリアルとは比較にならないほど、血の匂いが漂っていた。
【緊急クエスト:階下の脅威を排除せよ(難易度:E)】
概要:アパートの踊り場に、変異感染者(フェーズ1)が1体侵入しました。この個体はあなたの部屋の納豆の匂いに引き寄せられています。生存のため、対象の頭蓋を破壊し、完全に活動を停止させなさい。
クリア条件:感染者の撃破×1
報酬:経験値×50、ランダム食料ボックス×1、50 SP
失敗条件:死亡
ドダン――ッ。
部屋の薄いアルミ製の玄関ドアから、鈍く重い衝撃音が響いた。
何かが、外側から体当たりをしている。
グルルル……ァ……
ドアの郵便受けの隙間から、腐敗した生ゴミと鉄錆を混ぜたような異臭が、ツンと部屋の中に流れ込んできた。
湊は息を止め、両手で握りしめた『モップスピア』の柄に、白くなるほど力を込めた。
汗が額を伝い、顎から畳へと落ちる。
理不尽に壊れた世界で、理不尽なシステムを押し付けられた青年の、本当の「最初の一歩」が始まろうとしていた。




