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 カーチャの想定通り、翌日からいじめが始まった。とはいえ、新しく増えた嫌がらせの内訳は私物の窃盗ぐらいしかなく、管理に気を遣えば簡単に防げてしまうだけに周囲に効果があるのだと思わせるには苦労した。

 キースにまとわりつくカーチャには噂話と悪口なんて初日からのものだったし、だからといって直接的な危害を加えられる段階になるまではまだしばらく時間がかかる。今は、適度に反応を返して悪感情を煽ってやりながら、それをキースには隠すことが簡単に出来る程度の被害で留めるよう操作していた。


「カーチャ、迎えに来たよ」

「キース様ぁ! ありがとうございます」

「今日の授業はどうだった?」


 恒例となっている図書館の自習室での勉強会のために迎えに来たキースは、授業内容についていけているかを聞いている。しかし、カーチャはそれに教科書で口元を隠して眉を下げ、上目遣いに返した。無言の返事は、人によってどうとでも取れる。


「そうかそうか。大丈夫だよ、私が全部教えてあげるからね」

「はぃ……ありがとうございますぅ」


 胸を張って頼もしさを出すキースに肩を抱かれて、カーチャは教室を後にする。自分たちのいなくなった教室の中で、残っていた生徒たちがひそひそと、さっきのカーチャの態度をいじめによって心を痛めた結果だと誤解している確信を持ちながら、どうにも笑みに歪んで仕方ない口元を教科書で隠し続けた。




 相変わらず私物化されているに等しい自習室の中で、ぴったりとくっつきながらカーチャとキースは同じ教科書を覗き込んだ。


「これで分かったかな?」

「はい! キース様の教え方とっても分かりやすくて、すぐに覚えられます」


 嘘ではないが、本当でもない。キースの教え方は丁寧で、基礎的なことに関しては分かりやすい。学院入学前の子供を相手に家庭教師をするなら大変優秀な部類だろう。カーチャが基礎などはとっくに修めているのでなければ、この言葉は本当になっていた。

 肩が触れ合った状態で顔を上げると、その顔さえ触れそうになるほど近くから見合わせることになる。そのままにっこりと笑って褒めると、キースは満足そうに笑った。それが普段見ないほど穏やかな顔だったので、思いがけず表情に出そうなほど不愉快になってしまったカーチャは、それを見せないようにキースの肩に懐くことで顔を隠す。都合のいいように誤解してくれたキースが頭を撫でてくるが、脱色で痛んでいた髪はキースがくれた香油でなめらかになっているので、こればかりは拒めない。


「キース様は、こんな私にも根気よくお付き合いくださって、とってもお優しい素敵な王子さまです。こんな方とお近づきになれて、カーチャは幸せです」

「カーチャ……。君は、君こそ、私にとって得難い贈り物だよ。君に出会えて、私はなんて幸せ者なんだろうと感じ入るばかりだ」


 キースがやさしくカーチャの手と自分の手を重ね合わせる。


「カーチャ。早く、君とずっと一緒にいられる約束が出来たらいいのに」

「キース様……どうか、お気になさらないでください。カーチャは、いつまでも待ってます」

「ふがいない私ですまないね。きっと、きっと叶えてみせるから」


 この国で公的に複数人の妻を持つことを許されているのは、国王だけだった。特例として、在位の長い王の跡継ぎまでが高齢になりそうなために許されたり、他国との政略のために婚姻が必要な時代の適齢の王子にすでに妻がいた場合に離縁してまで政略結婚をする反発と天秤にかけて許された事などがある。しかし、キースとカーチャには当てはまらない。そもそもが、まだミュリエルとの婚姻すら終わっていない今のキースが、カーチャに約束出来るはずもなかった。

 キースは、甘やかな声で真摯に謝る。本当に申し訳なく思っていることが伝わってくる声音は、カーチャが政治的思惑があって近づいただけであれば、絆されてしまってもおかしくなかっただろう。ミュリエルによって排除されてきた浮気相手たちも、こうして絆されたものもいるはずで、ある意味ではこれも王としての資質だった。

 カーチャは、ただ重なるだけの手を眺めて、ひっそりとため息を吐く。どうにも、この哀れな王子様を傷つけたくて仕方ない、凶暴な気分だった。

 

「キース様こそが、次の王様です。他の誰でもなく……だって、王様が認められた王太子様なんですもん」


 言った途端に、キースの体が強張る。そうでないことは誰よりもキース自身が知っているからだ。


「ぁあ……ああ、そうだ。その通りだよ、カーチャ。私こそが、次の王なんだ。そうだよ、カーチャ。君をこの国で一番のひとにしてあげるからね」


 キースの目はカーチャから逸らされている。俯いて、どこでもないところを見ている姿は、これまでカーチャに見せてきた王子様としての理想的な姿とはまるで違った。

 カーチャはキースが見ていないのをいいことに、にんまりと笑う。隙を見せる方が、悪いのだ。


「うれしい……ありがとうございます、キースさまぁ。きっと、頭のお堅いテレンス様じゃぁ、こんな私にやさしくなんてしてくれません。キース様だから、カーチャはこんなにしあわせなんです」


 テレンスとは、キースの弟、第二王子の名前だ。母親が違い、キースは国王が王太子だったときに恋仲になった伯爵令嬢が母であり、テレンスはその後に政略結婚で迎えられた辺境伯家の令嬢が母だった。それぞれの政治的立場から母同士もほとんど交流することはなく、キースとテレンスも、兄弟と言うにはあまりにもお互いの距離は遠かった。

 他人にも近しい弟の名前を出されて、キースの顔からより表情が抜け落ちていく。

 

「テレンス、あいつは、そうだな。こんなことはしてやらないだろう」

「そうですよぅ! カーチャみたいな目下のひとのことも思えるキース様はすごいんです。エルボロー嬢も、みんなも、分かろうとしてないだけです」

「分かろうと、か。そうだな。君の言う通りだよ、カーチャ」


 キースの目が、段々カーチャに向き始める。


「テレンスがなんだと言うんだ。陛下に選ばれたのは私じゃないか。あいつがどれほど努力しようとも、選ばれたのは、私なんだ」


 実のない自信を取り戻したキースは、にっこりと笑ってカーチャを見る。それに合わせてカーチャも顔を上げて、綺麗な笑顔を作って返した。

 常に傍にいないジェシーが悪い。こんな言葉に惑わされるキースが悪い。ここまで放置しているミュリエルが悪い。それだから、悪い女に簡単に騙されてしまうのだ。

 そんな内心を隠して、カーチャは優しくキースの頬に触れる。キースはカーチャの柔らかな手にすり寄るが、その様があまりにも幸せそうで、カーチャは哀れさに笑ってしまった。この程度を幸せに思える素朴な人を国の頂点にだなんて、周りは一体何を考えているのかと憤りさえ覚える。そうして、その周りに対して恨みを晴らそうとしているのだと思い返し、今までよりは、優しく触れられた気がした。

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