23話
「はぁ…はぁ…!」
私は走っていた。辺境の夜の森を。
危険なのは百も承知だ。でもどうしても耐えられなかった。
「気持ち悪い…!気持ち悪い気持ち悪い!!!」
生まれて初めての感情だった。王女として、僧侶という職業を授かった時、覚悟していた。
していたはずだった。
私は神聖教会と王族との揺るぎない結束のため、教会に深く連なる殿方のところへ嫁ぐことになるだろうと。
王族として生まれ、国の為に選ばれた殿方と婚姻する。当たり前の事だと。相手がどのような相手だろうと…。
相手は辺境伯のご子息で、父は教会の幹部クラスの方だそうだ。ご子息はお身体が弱く、滅多に外に出ることはないそうで、殆ど誰も見たことが無いと言われている方だった。
馬車に揺られる事一週間、街道はそれなりに整備されているとはいえ、長い馬車の旅は想像していたよりずっと辛かった。ようやくたどり着いた町は、あまり活気があるようには見えず、幽鬼の様な目でこちらを見る民からは歓迎されているようには思えなかった。
そんな中、辺境伯が住む館は大きく手入れが行き届いており、付近のボロボロな住居の中で不自然に浮いてるように見えた。
「王都よりはるばるよくぞお越しくださいました。セシル様、さぁどうぞこちらへ」
「わざわざありがとうございます。ガマル卿…」
「息子が中で首を長くして待っております故」
そう言うと屋敷の中へ通される。
そこにいたのは病弱と言われていたご子息。
と、思われる醜悪な見た目をした男だった。
外出を嫌い、日を浴びぬ生活をしているためか、異常に白く、ぶつぶつと荒れた肌。自重で立つことすらままならぬであろう程の巨漢の男が気持ちの悪い笑みを隠そうともせず座っていた。
「あ…え…?」
腰を抜かさなかったのは王女としての矜持か、責任か。
「息子は病気がちで、椅子から立ち上がることも難しいのです。セシル様の御膳ではありますが、椅子に座ったままの愚息をお許しください」
父親のガマル辺境伯は丁寧な物腰を崩さないが、この異様な光景に目を見開いていたのはセシルただ一人だった。
周りにいるメイドも、自分が連れてきた侍女も誰一人として表情を崩さない。
思考がうまくできずに固まって動けなくなっていると、巨漢の男がメイドに目配せをし、車輪のついた椅子をセシルの横まで移動させた。
臭い。すえた汗の臭いとそれを誤魔化すための香の臭いが混ざって凄まじい悪臭を放っている。
「…今夜、寝室へ…」
そう言い残し、メイドに椅子を押させて下がって行った。
「セシル様はお疲れの様ですので、お部屋にご案内して差し上げるのだ」
半ば放心状態だった彼女は自室に案内されて、一人崩れ落ちた。
連れてきた侍女は帰ってしまい、この屋敷で今夜あの醜悪すぎる男に呼び出されてしまった。もう間違いない。本来ならば長旅を憂い、一言労う言葉が先に出るはずだ。それに自己紹介すらも行われていない。
どう考えてもまともな男ではない。
「そうなのですね……私は…生贄なのですね…お父様」
そう、口に出した時セシルは自分でも驚いた。このような時には涙が溢れるのだと思っていたが、先立って出たのは何よりも激しい怒りだったからだ。
幼い頃から僧侶として厳しい訓練を受け、いつか神官として教会に務められる様、特に心をコントロールする訓練は厳しく行ってきたつもりだったが、自分はこんなにも直情的だったのかとそう思った。
「あんな男に抱かれるくらいなら…!」
ここは馬車でも一週間はかかる辺境。万が一にも逃げられることはないと高をくくっていたガマルはセシルという王女を見誤っていた。
セシルは見た目こそ清廉な女性であったが、幼少期は冒険者に憧れた活発な少女だったのだ。
「王女が逃げただと!!?」
ガマルはドタドタと階段を駆け上がり、セシル王女を軟禁していた部屋のドアを開け放った。
時刻は既に夜。王女はいつの間にか2階の窓を開けて逃げ出していた。ガマルとて逃げ出される可能性を考えていなかった訳ではない。しかしここは王都から街道を通って一週間もかかる辺境の地である。まさかその日の内に逃げ出されるとは思ってもみなかった。
もちろんあのバカ息子が受け入れられるとも到底思っていなかったが、多少強引にでも既成事実が出来てしまえばあとは上手くやる。そういう手筈だったのだ。
「この暗さだ!遠くには行けないハズ!探せ!なんとしても!!もし殺しでもしてしまったら私の首がなくなってしまう!!!」
ガマルは発狂しながら兵士に命令し、自身も松明を片手に馬に乗り駆けていく。
巨漢の男は、自室で苦手な風呂に入ったあと今か今かとセシルを待っていた。男はワイングラスを握った手をワナワナと震わせたあと、地面に投げ捨て獣の様に吠えたてた。
屋敷に住むメイドや執事は決して近づこうとはせず、セシルを探すふりをしていたそうだとか。
結局ガマルは三日三晩セシルを探し続けたが見つけることができず、もしそんな体たらくを報告すれば間違いなく自分の首が飛ぶため、どうか誰にもセシルの死体が見つからないことを祈って事実の隠蔽に走ったのであった。




