第四話 大理石の要衝でセクハラ受けた
「あら、検閲所が見えてきたようですわ」
パステルピンクのフリルドレスの裾を優雅に整え、ベレナ・エレナはピタリと足を止めた。その裾の裏側では、重みを持った何本もの投げナイフが、カチカチと密やかな金属音を奏でている。長距離の徒歩行軍にも関わらず、巻き上げたシニヨンヘアに一切の乱れがなかった。
「あれが、検閲所……」
ファナ・モナが、背中に担いだ巨大なハルバードの柄をぎゅっと握りしめ、チェストベルトで極限まで押し潰された圧倒的な胸元をポンチョの上から抱え込むようにして、不安そうに小声を漏らした。
前方の街道を塞ぐように、異様な建造物が立ち塞がっていた。
それは、公国特有の白大理石を積み上げた美しい門塞……などでは断じてなかった。どこかの建築現場から削り出された大理石の巨石、打ち捨てられた神殿の柱の破片、そして傷のついた大理石の瓦礫が、まるで子供が乱雑に積み上げた積み木のように荒々しく組み上げられた、歪で巨大なバリケードであった。
高さ五メートルを超えるその瓦礫の要塞は、街道を完全に遮断し、その中央には分厚い大理石の板を鉄帯で補強した不恰好な観音開きの門が鎮座している。
「領境の検問所なら、ローザ・マグラ川の渡し場を兼ねてるはずなんだけど、河なんかどこにもないねえ」
キムナ・カラムナが大きすぎる伊達メガネの鼻当てを指先で押さえ、ダボダボのガウンの広大な袖をたなびかせながらキョロキョロと周囲を見回す。腰の革ベルトに収まったゴツい鉄扇が、その忙しない動きに伴ってユラユラと揺れていた。
「ま、細かい事はいいか。ともかく当初の計画通り、山賊に追われてるんですうって万能通行手形を切って逃げ込もう」
カラムナがガウンの袖を胸の前で誇らしげに組み、ニヤリと笑う。
「細かい事じゃ、ないと思います……」
モナが引きつった顔で、周囲の乾燥した岩肌と泥土を見回した。どこをどう見ても、北極点の氷解水を湛える豊かな大河の気配など微塵も存在しない。
それに───と改めて目の前の建造物を見直す。
「なんか、どちらかというと、瓦礫の山、みたいな……」
「老朽化でしょう。この国らしい杜撰さですわ」
「うん、老朽化だね。間違いない」
モナは「これを老朽化の一言で片付けるのか」と戦慄したが、納得している二人を説き伏せる事が出来るほどの自信もないので、口をつぐんだ。
「止まれぇぇい! ここから先は我らが関所の領域なり! 通行したくば『美観維持費』および『領地警護料』として金貨三枚を支払え! 払えぬならば——」
バリケードの上部に組み上げられた大理石の見張り台から、型落ちの革甲冑を身に纏った荒くれ者たちがぞろぞろと顔を出し、粗末な弩や槍をこちらへ突きつけてきた。
それを見上げてエレナは不快そうに顔をしかめた。
「まあ、この国は兵士も山賊と区別がつかないくらい言葉遣いがひどいのですわね。さすが神聖(w)公国と言っておきましょう」
「あの、エレナ先輩。待ってください。あの人今、『我らが関所』って、言ってましたけど……官営なのに『我らが関所』って、おかしくないでしょうか……」
「あの言葉遣いの悪さを聞けば、教育の程度も推して知るべしですわ。大方住み込みで働いている内に自分の家と区別がつかなくなっているのでしょう。徴収した税を着服しているならなおさら、国のものという自覚も薄らいでいるのではないかしら」
明らかに間違った認識なのに、説得力があるなあ、とモナは妙な感心をした。
「た、助けてくださーい! 後ろから下品で汚い山賊どもが押し寄せてくるんですー!」
カラムナは男たちの脅しなどハナから耳に入っていない様子で、大げさに両手を振って門をバシバシと叩いた。
「なに? 山賊だと?」
見張り台の男たちが顔を見合わせる。
男たちの一人がひとつ頷いて中に入っていく。と思ったら、すぐに戻ってきた。
「中に入れるのか?」
「ああ。なんだかチグハグな取り合わせだが、身なりは悪くない。しかも女だけで他に護衛の一人もついていない。それが山賊に追われているってんだからな。儲け話の匂いがするからすぐに連れてこいってオカシラからのお達しだ」
門の横に設置された小ぶりな石造りの通行口がギギギと重い音を立てて開き、中から数人の男が飛び出してきた。
「よし。入れ! 」
男たちは三人の腕や服の袖を乱暴に掴み、強引に関所の内側へと引きずり込んだ。
「きゃっ!?」
「ひいぃぃ?!」
「無礼者! 吾に触れるな下郎!」
抵抗ついでに男を殴りつけようとしたエレナは、そこでふと気付いて動きを止めた。
「ちょっとお待ちなさい。今ずいぶんと可愛らしい悲鳴が上がりましたが、まさかカラムナさんですか?」
「え、まさか。参謀はそんな可愛い悲鳴なんか上げないよ。モナ君じゃない?」
「モナさんが男に触られてあんな可愛い声を上げるわけないでしょう。モナさんの場合はもっと、おびえたような情けない声ですわ」
「え……」
モナが心外な事を言われたというようにエレナの方を見た。
ドシンと重い音を立てて石造りの門が閉ざされ、太い丸太の閂が下ろされる。三人が足を踏み入れたのは、天井が高く、大理石の太い柱が無造作に並ぶ、だだっ広い広間であった。周囲には、粗末な革甲冑を着た三十人ほどの無頼漢たちが、品定めするような下品な目つきで取り囲んでいる。
そして、その広間の中央、一段高くなった大理石の台座の上に、一人の男が踏んぞり返っていた。
男は、型落ちした公国の絢爛な儀礼服を身に纏っていた。金糸の刺繍は擦り切れ、肩章のフリンジはボロボロだったが、その下にある肉体は異常だった。丸太のように太い腕、大理石の重量に耐え抜いてきたことが一目でわかる異様な背筋の盛り上がり。男は胸を大きく張り、誇らしげに顎を突き出した。
「ほう……我が関所に飛び込んでくるとは、命知らずな乙女たちよ! 我が名はブラド・フォン・マーブルシュタイン! 第九次分家、血統順位第382位にして、この大理石要塞の主なり!」
ブラドが無駄に仰々しい宮廷言葉で高らかに名乗りを上げ、太い腕を組み直した。
「あら。ここ、検問所どころか、山賊の根城だったんですのね。紛らわしいこと。これだから神聖くずれの公国は」
「……だから言ったのに……細かい事じゃ、ないって、言ったのに……え? 神聖くずれ……?」
エレナが悪びれることなく言い放ち、モナはグチグチと呟きながら、エレナの口から漏れ出た聞き慣れない単語に反応していた。
その一方でカラムナは───伊達メガネの奥の垂れ目を右に左に高速移動させていた。ガウンのポケットの中で、彼女の指先が狂ったような速度で算盤を弾くように動く。
門の構造は内開きで閂は一本、防壁の厚みは十分だが内部の通気口が著しく少ない。
脈拍が上がっていた。額に脂汗が浮かぶのも気付かない。
ブラド・フォン・マーブルシュタイン。元貴族って事か。型落ちの儀礼服に血統順位382位ときたもんだ。元の身分にだいぶ固執してるな。大理石の瓦礫に囲まれて、虚栄心がいきすぎて妄想に片足突っ込んでやがる。
息が浅い。気がついたら指先が震えている。
しかし筋肉は凄まじいな。効率的な鍛え方をしたものじゃない。野放図に、その時その時、使いたい筋肉を使ってたら自然と力がついていった、みたいな、元々素養がある者が活動欲求に従って動いていたら自然とこうなった、という体だ。正面対決よりもっとうまい利用の仕方があるだろう。
右足が勝手に貧乏ゆすりを始めていた。意識的に止める事は可能だが、鼓動の速さに同期するその動きを止める気には、なかなかなれない。
あれならエネルギーのポテンシャルに応じて性欲も相当だろう。だがモナ君の巨乳ではダメだろうな。閣下は「高貴」がお好みだ。
「あ、あー……ブラド卿とお見受けいたします。 いやはや素晴らしい! まさかこんな街道の辺境にて、ローゼンバルト神聖公国の正統なる高貴な血を引くお方にお目にかかれるとは! それにしても見事ですね、この大理石の重厚な質感! ただの山賊や無頼漢には到底不可能な、洗練された美的感性と圧倒的な建築美がこの要塞全体から溢れ出ているではありませんか、この門の積み方一つ取ってもただの壁ではなく一種の芸術作品、382位という輝かしい血統順位をお持ちでありながらなぜこのような場所で私設関所などという控えめな事業を営んでおられるのか参謀には不思議で不思議で溜まりませんよ本来ならば中央の宮廷にて美化長官なり建築総監なりの要職に就かれて然るべきお方だそうでしょう!?」
息を吸う隙すら挟まず、カラムナの口からマシンガントークが爆発した。音節と音節が繋がり、句読点は消し飛び、早口言葉のような猛烈な勢いで言葉の弾丸が広間に撒き散らされる。
「……あ、あの……カラムナ先輩……」
モナが怯えたように、カラムナのガウンの裾を指先でチョンチョンと突いた。
「口数が、すごく、多くなってます……」
危機感が高まるほどに口数が増えていくカラムナの習性を知っているモナが、警告を口にする。
だがカラムナにはそれに反応する余裕もない。
「さておきブラド卿! あなたのその輝かしい血統と圧倒的な筋肉、そして大理石を扱う洗練された感性、実に素晴らしい! にも関わらず、なぜこんな打ち捨てられたような私設関所で燻っているのでしょう、きっとよんどころのない理由がおありなのではないですか?」
「ぬ……? ぬう……ッ!?」
ブラドはカラムナのマシンガントークの勢いに一瞬圧され、目を白黒させたが、「正統なる高貴な血」「洗練された美的感性」「宮廷の要職」というワードが脳髄を直撃したようで、すぐにブハッと鼻息を荒くして胸を大きく反らした。
「ふ……ふははは! わかるか! この泥ネズミどもの中で、ただ一人我が真価を見抜くか、メガネの小娘よ! そうだ! 我はかつて『宮廷美化・石材品質監査官』として、我が国の美観を一身に支えていた選ばれし貴族! 宮廷の腐れ役人どもの目利きが狂っていたが故に一時的に身を引いているに過ぎん!」
「でしょうね! そうでしょうとも! 一目で分かりましたよ! その溢れ出る気品と、大理石を持ち上げる圧倒的な腕力! しかしもったいない」
「なんだと?」
急に語調をかえたカラムナに、ブラドは上体を前に傾けて反応した
「そんなあなただからこそ、こんな斜陽の国の貴族に返り咲いてどうするというんでしょう。どうせならもっと勢いのある国に渡って、そこで名をはせるべきではないでしょうか」
「むぅ」
ブラドが唸る。
言っている事はわかる。激しく同意もする。だが、では具体的にどうしろというのか。そんな思いを凝縮する唸りだった。
凝縮するその思いを弾くように、カラムナがパンと手を打って言った。
「はい、そこでこちら! 隣国ガルプ王国の歩道家元・上級貴族、ベレナ・エレナ嬢です!」
カラムナは流れるような動作で、バッと横に立つエレナを両手で示した。
「え、エレナ先輩のご実家って、上級貴族でした……?」
モナが目を丸くして尋ねる。
「上級とか中級とか、そんな些細な事は気にしたこともありませんわ」
エレナはパステルピンクのフリルを軽く揺らし、顎をツンと上げて澄ました顔で微笑んだ。本当は中級貴族の実家であったが、「上級」と持ち上げられて悪い気がせず、あえて否定もしないでぼやかすスタイルだ。実際、身分至上主義のエレナが気にしていないはずがない。
「こちらのエレナ嬢とご結婚されれば、自ずとガルプ王国の貴族格が得られます!」
「ちょっと!?」
エレナのシニヨンヘアが一瞬で跳ね上がり、驚愕の声が広間に響き渡った。
「なるほど、それはいい!」
ブラドがギラギラとした目を輝かせ、丸太のような太ももをパンッと叩いた。
「冗談ではありませんわ!」
エレナが激怒してフリルの下に忍ばせた投げナイフの柄へ手を伸ばそうとするが、ブラドは一切気にせず、下品な笑みを浮かべてエレナの全身を舐めるように見回した。
「貴様の気持ちなどどうでもよい。政略結婚は貴族の習いだろうが」
「こんなレイプまがいの話を政略結婚とは、拡大解釈にもほどがあるでしょう!」
エレナが殺気立った声を上げる。
「か、拡大解釈、おそろしい……」
モナがポンチョの胸元をぎゅっと抱え込み、ガタガタと震えた。
「しかし、元貴族とはいえ今は平民でしかも山賊でいらっしゃる。やはりそれなりの功がないと、いくら結婚すると言っても納得がもらえないのは、仮にも貴族でいらっしゃったのですから、わかりますよね?」
「犯罪者がいくら功を積み重ねても貴族にはなれないと思うけど……」
と呟くモナの声に被せて、カラムナは畳みかけるように、さらに言葉を滑らせた。
「しかしこれがまた、都合がよい事に門の外には治世を乱す輩が集まっております。これを平らげて姫を救い出したとなれば、十分な功になるとは、思いませんか?」
「うぬ……ッ!」
ブラドの太い眉が跳ね上がった。男の単純な思考回路の中で、カラムナの提示した「功績」「結婚」「貴族への復帰」というパズルが完璧に組み上がっていく。
「素晴らしい! 誠に示唆に富んだ提案なり! ではさっさと賊どもを平らげて、今宵、我が嫁に我が剣を授けるとしよう」
ブラドが胸を張り、ニヤリと下品な笑みを浮かべた。
「……っ!」
それを聞いた瞬間、エレナの顔から一瞬で血の気が引いた。パステルピンクのフリルドレスの下で、彼女の全身が不快感と生理的嫌悪によって細かく震え始める。
「き……気持ち悪いですわ……!!」
「……なんですか……?」
モナが首を傾げ、純粋な瞳で尋ねた。
「うわ、あんな直接的なセクハラ、初めて聞いた。我が剣って……うわーきもちわるっ」
カラムナが心底ドン引きした顔で肩をすくめた。
「おい、お前たち! 門を開けい! 外の雑種どもを叩き潰し、我が武功の礎としてくれるわ!」
ブラドの怒号のような命令が飛ぶ。手下たちが「うおーっ!」と野太い歓声を上げ、分厚い大理石の門の閂を外して一斉に外へと雪崩れ込んでいった。
「お、なんだ、やるのかこの野郎!」
「てめぇらあの女どもとどーゆー関係だコラ!」
「こっちにも一匹回せコラ!」
「この関所、前から邪魔だったんじゃボケが!」
門の外では、水たまりで泥まみれになったハインリヒ一味と、香料樽を汚されて狂乱したガストン一味が、待ち構えていた。そこへブラド一味が突撃したことで、関所の前は三つの山賊グループが入り乱れる大混戦へと発展したのだった。
◇
「おい、お前たち。動くなよ。カシラが戻るまで、ここで大人しく——」
広間に監視として残されていたブラドの手下二人だったが、言いかけて、三人いたはずの女が、二人しかいない事に気付いた。
「あれ、一人たりないぞ、もう一人はどうした」
「大の方です」
カラムナが真顔で答えた。
シュッ。
三歩道秘技『水渡り』で足音も気配もなく滑り込んだエレナが、裏で「悪役令嬢忍者」と囁かれる精密な手刀で、二人の男の頸動脈を寸分狂わず打ち抜いたからだ。男たちは声も上げずにその場に崩れ落ちた。
そして、手刀を振り下ろした勢いのまま——
バカッ!!
「痛ぁっ!?」
エレナは振り向きざま、隣に立っていたカラムナの頬を、力任せの平手打ちで張り倒した。
「ゴメンて! いや、どっち? 結婚の事?それとも、大の方?」
「両方ですわ」
「いや参謀もまさかこの切り札を切らされる事になるとは思わなかったんだよね!」
カラムナが頬を押さえて大理石の床に転がりながら叫んだ。
「だいたいあなた、いつも切り札を切るのが早すぎるのですわ! 吾を山賊の嫁に売るような真似をして、タダで済むとお思いになって!?」
エレナの眉間に深いシワが刻まれ、シニヨンヘアから後髪がひとすじ、ハラリと落ちた。
「むしろカラムナ先輩は、切り札しか持ってないような気がする……」
モナがポンチョの中からぼそりと呟いた。
「策の層が薄い事は自覚があるよ。でもモナ君はちょっと言い過ぎ」
カラムナが床から立ち上がり、服についた埃を払いながら口を尖らせた。
「とにかく、脱出する前に腹ごしらえですわ」
エレナが胸元に手を当て、優雅に溜め息をついた。切り通しでガストンの非常食をかじって以来、走りに走って胃袋は完全に空っぽだった。
三人は広間の奥へと進み、粗末な厨房へと足を踏み入れた。
「おお。山賊のくせに厨房とは贅沢な。さすが元貴族なだけはあるなあ」
まず目をひくのがカマドだ。厨房の中心設備である。その近くには乾いた薪の束と、薪にする為に乾かしている生木が大量に積まれているのが見られた。
食べ物を探すエレナとモナを尻目に、カラムナはカマドの方を興味深そうに眺める。
「まさかあなた、こんな状況でお料理をなさるおつもり?」
「いや別に。……何その『冷笑に入る直前』みたいな顔。あ、分かった。参謀が『そうだ』と言ったら『料理みたいな下賤な事もなさるのですね。さすが参謀様はお勉強熱心でいらしゃいますこと、おーっほっほっほ』って嗤うつもりだったんでしょう!」
「なんですのそれ」
「でも、考えてみると、貴族のそういうトコ、ちょっと面白いよね。人に能力がある事が、その人を見下すタネになるんだから」
「能力の内容によりますでしょう。下賤の技をもつ者を、下賤の者だと判断する事は、別におかしい事ではありませんわ」
「そうだね、おかしくないね。うんうん。おかしくはない。ただ、そう。うん、ただちょっと面白いだけさ」
「なにが面白いのやら」
エレナは肩をすくめて嘆息した。
ほどなく、厨房に併設された食料庫で、大理石の冷気で保存された大量の塩漬け肉と、硬い干しパンが蓄えられているのが見つかった。
「んむ……んぐ……! 塩分が身体に染み渡るねえ……!」
カラムナが干し肉を噛みちぎりながら、ダボダボの袖で口元を拭った。
「モナ、もう少しお食べなさい。これからの行軍、その無駄な体力を維持するのも大変でしょうから」
エレナが干しパンを小さくちぎってモナに手渡す。
「あ、ありがとうございます……エレナ先輩……」
モナが控えめにパンをかじる。
「さて」
塩漬け肉を素早く平らげたカラムナが、伊達メガネを指先でクイと押し上げた。
「じゃあそろそろ、火をつけますか」
「火?」
モナが首をかしげる。
カラムナは、カマドの近くに、乾燥がてら積み上げられている大量の『生の生木』に目をやった。
「この関所、通気口が極端に少ないんだよね。大理石の重みで密閉性は抜群。そしたらあとは、この水分をたっぷり含んだ生木を、厨房の熾火にくべて燃やすだけって寸法さ」
「まあ。そんな事したら大変ですわね。……不完全燃焼を起こして、濃厚な白煙と有毒ガスが充満してしまいますわ」
エレナが冷ややかな笑みを浮かべた。
「目にも激痛をもたらすから、気をつけて。安全第一で作業にとりかかろう」
カラムナはガウンの袖から火打ち石を取り出すと、熾火の上に生木を山のように覆いかぶせ、火をつけた。
モクモクモク……!
一瞬にして、白く不気味な生煙が爆発的に立ち上り、天井の低い私設関所の内部へと蔓延し始めた。目に刺さるような激痛と、呼吸を狂わせる有毒な煙が、大理石の広間を瞬く間に呑み込んでいく。
「げほっ! 参謀たちも吸ったらヤバいから、早く脱出するよ!」
「言われるまでもありませんわ」
三人は口元を布で覆い、裏手の勝手口から夜の空気の中へと飛び出した。
一方、関所の表では——
「ゲホッ! ゴホッ! なんだこの煙は!?」
「目が! 目が痛ぇぇぇ!」
「火事だ! 関所が火事だぞぉぉ!」
有毒な生煙にいぶり出されたブラド一味が、涙と鼻水を流しながら、悲鳴を上げて門の外へ雪崩れ出てきた。
そこへ、外で待ち構えていたハインリヒとガストンの混成軍勢が「出てきたぞ!」「撃ち殺せ!」と容赦なく襲いかかった。
「貴様ら! 我が関所に何をしやがる!」
「黙れ靴泥棒の仲間が!」
「靴とか知らねえよ。そんなに大事な靴だったら金庫にでもしまっとけボケナス!」
「俺の香料を返せぇぇ!」
三つの山賊グループが、互いの誤解と憤怒をこじらせ、完全に理性を失った大乱闘へと突入していった。
その混沌とした地獄絵図の隙間を縫うように、カラムナ、エレナ、モナの三人は夜の街道を疾走していった。
それを目ざとく見つけた一人が、戦いの中で叫び声を上げる。
「待て! あの女どもが逃げるぞ!」
「なに!? あのピンクと巨乳か!?」
「メガネもだ!」
「メガネはどうでもいいだろう!」
「どうでもいいとはどういう事だ!」
遠くの声がかすかに聞こえたカラムナが、袖まくりしながら後戻りしようとするのを、エレナが小突いて引き戻す。
一方、入り乱れて殴り合う山賊たちの間では、あらたな流れが生まれようとしていた。
「あの放火魔は絶対許せねえ!」
「あいつら、うちの香料も滅茶苦茶にしやがったんだ!」
「このままコケにされたまま黙っていかせたら、メンツがたたねえぞ」
「そうだ。こんな所で殴り合ってる場合じゃねえ!」
「アイツらをボコすのが先だ!」
ブラド、ハインリヒ、ガストンの山賊たちは、互いに殴り合いながらも、奇跡的な利害の一致を果たした。
「あの3人を捕まえろぉぉぉっ!!」
数百人の無頼漢たちが、一つの巨大な「怒りの地響き軍勢」となり、三人の後を猛追し始めたのだった。




