第五話 本日の業務は終了しました。
夕靄の混じる乾燥した風が、太古の氷解水を運ぶ大河の気配を帯び始めていた。
ローザ・マグラ川。北極点の巨大な氷山から湧き出た冷水が、乾燥し切ったローゼンバルト神聖公国の皮膚を裂くように奔流する唯一の大血管である。川幅は広い場所で数キロメートルに及び、朝夕には生温かい大気と氷解水の寒気が衝突して、乳白色の濃霧が水面を覆い尽くす。水そのものが莫大な富であり権力であるこの国において、その対岸へと人を渡す「渡し船の所有権」は、大貴族たちが血で血を洗う利権の渦そのものだった。
その大河の川岸に鎮座するのが、白大理石を贅沢に組み上げた要塞のごとき水上検問所である。
「すいませーん。山賊に追われているんですー。入れてくださーい」
ダボダボに余った袖を大げさに羽ばたかせ、キムナ・カラムナが分厚いオーク材の二重扉を鉄扇の柄でバシバシと叩いた。
返ってきたのは、扉の覗き窓から覗く、疲弊し切った文官の冷ややかな目線と、呆れたような声だった。
「時間外だ。翌朝の始業時刻に出直してこい」
バタン、と小窓が容赦なく閉ざされる。
「万能通行手形、きかないですわね」
ベレナ・エレナがパステルピンクのフリルドレスの裾を優雅に整えながら、心底呆れたように溜め息をついた。シニヨンヘアは完璧に巻き上げられたままだが、その足元には長距離の疾走によるかすかな砂塵が残っている。
「えーい、ダメだというなら勝手に通るまでだ!」
カラムナはガウンの帯をガッと締め直し、伊達メガネを指先でクイと押し上げた。
「え? 参謀なのにそれ? ……いえ、何でもないです……」
背後で両腕を抱え込んでいたファナ・モナが、引きつった顔でぽつりと呟いた。チェストベルトの激しい締め付けによって、彼女の圧倒的な胸元の質量はポンチョの上から不自然に歪み、かえって尋常ではない存在感を放っている。
「モナ君、キミ、最後に『何でもないです』っていえばなに言ってもいいって思ってない?」
カラムナが半目で振り返る。
「ごめんなさい……びっくりしたので、つい……」
「分かった。ごめん。参謀が悪かった。モナ君を追求すると、全部こっちに跳ね返ってくる仕様だった。はい、この話はここまで。終了。いいね? エレナ君、壁よじ登ってロープ垂らして」
「そんなスキル、もってませんわ」
エレナがフリルの袖をひるがえし、ツンと澄ました顔で即答した。
「え、三歩道にそういうのないの?」
「三歩道を忍者スキルかなんかと思ってますの? 三歩道はあくまで歩く事を極める技術ですのよ」
「いやなんかこう、垂直な壁を歩いて登る秘術とかあるのかなと思って」
「そんな人外みたいな事、出来るわけないでしょう。常識でお考えなさいな」
「えー……水の上を歩いて渡る人にそんなこと言われても」
カラムナが心底納得いかないという顔で天を仰いだその時——。
ズズズ……ッ!
街道の地平の彼方から、大地を揺らすような重低音が響き渡った。夕靄の向こう側から、もうもうと立ち上る暗灰色の土煙。ハインリヒの泥まみれの残党、ガストンの香水と足臭に狂った暴徒、そしてブラドの瓦礫要塞から燻り出された無法者たち——数百人に膨れ上がった山賊の大軍勢が、手に手に松明や長ドスを掲げ、怒号を上げて迫ってきていた。
「あちゃー、思ったよりも結構な軍勢だね。こりゃオーバーキルだったか?」
カラムナが伊達メガネの奥の垂れ目をまあるくした。
「検問所に駆け込んでも、検問所自体がもたないかも知れませんわね」
エレナが投げナイフの柄に指をかけ、冷ややかな視線を向けた。
「こ、こ、構造的欠陥……!」
モナが怯えのあまり、ガタガタと膝を震わせながら口を滑らせた。
「う。モナ君、相変わらずいいところ突いてくるね。参謀は自分の策に対してその言葉を言われるのが一番、心臓をえぐられるんだよ。今知ったけど。いやでも、こりゃ本格的にヤバいね。主にモナ君のおっぱいがヤバい。このままじゃ山賊どもの無数の手でモナ君のおっぱいがもみくちゃに」
「いやあああ!!」
カラムナの煽り文句が完結するより早く、モナの脳内で「恐怖」と「拒絶」の許容量が限界を突破した。
裏返った絶叫とともに、モナの瞳から理性の光が掻き消える。背中から引き抜かれた巨大なハルバードが、夕闇を引き裂く凄まじい旋風を描いた。
ドガァァァン!!
「ひっ……!?」
「な、なんだ何事だ!?」
破城搥のごとき勢いで叩きつけられたハルバードの刃が、大理石の門枠とオーク材の二重扉の接続部——巨大な鉄製蝶番を集中的に砕き破った。バキバキと凄まじい音を立てて木屑と大理石の粉塵が舞い散り、扉が内側へ向かって歪み始める。
「やめてぇぇぇ! 触らないでぇぇぇ!」
ドガォン! ズドォン!
モナが理性を失った手負いの獣のごとくハルバードを打ち振るうたび、堅牢を誇る水上関門の扉が悲鳴を上げて歪んでいった。
「襲撃だ! 防衛隊出動!」
たまらず内側から閂が外され、武装した関所の兵士たちが十数人、槍を構えて飛び出してきた。
「捕まえろ! この狂暴な女を抑え込め!」
十数がかりでハルバードの柄に組み付き、モナの巨体を押し潰すようにして力ずくで取り押さえる。遅れてカラムナとエレナも、素直に両手を挙げて取り囲まれた。
そこへ、建物の奥から足音も静かに歩み出てきた男がいた。
神聖公国水上関門特命管理官——ルードヴィヒ監察官である。
整えられた文官服には一切の皺がなく、胸元には規則に従って整列したいくつもの執務用印章が整然と吊り下げられていた。彼の目は、目の前で繰り広げられる山賊の大軍勢や、半壊した大理石の扉、そして組み伏せられている女たちに対しても、一切の感情を宿していなかった。
ルードヴィヒは歪んだ扉の隙間から、外で武器を構えて怒号を上げる山賊たちを一瞥すると、極めて事務的な、抑揚のない声を張った。
「時間外の施設立ち入りは不法侵入とみなされ、『水上環境保全有志互助会』の認定は取り消されます」
ピタリ、と山賊たちの動きが止まった。
『水上環境保全有志互助会』——それは、この関所周辺で不法占拠を続ける山賊たちが、毎月一定の「協力寄託金(実質のみかじめ料)」を納付することで、領主から公的に目溢しをもらうための、この領独自の規定であった。
提案したのはルードヴィヒだが、領主が承認した正式な規定だ。
収入項目が増えて、名目上「山賊」もいなくなる一石二鳥の素晴らしい献策だとして、領主の覚えもめでたいが、とんでもない詐欺である。
ともあれ、この認定を剥奪されるということは、明日から公国正規軍による「害虫駆除」の対象になることを意味するのだ。
「チッ……事なかれ主義の文官め……!」
ハインリヒが顔を歪めて忌々しそうに吐き捨て、ブラドも「ぬぬ……我が血統の前に書類など……」と唸りながらも、それ以上踏み出すのを躊躇せざるを得なかった。
ルードヴィヒは外の騒気からあっさりと視線を外すと、捕らえられた三人に向き直った。その手には、既に羊皮紙の検分記録板が握られている。
「時間外における不法接触、施設破壊未遂。および出所不明の治安リスク……。暫定的に『水上旅客安全基準および密輸品隠匿防止規定』を適用し、明日の始業時間まで施設内に拘束します」
ルードヴィヒは淡々とペンを走らせると、兵士たちに短く命じた。
「三人から危険物を押収。留置牢へ移送しなさい」
兵士たちがカラムナの鉄扇やエレナの投げナイフ、モナのハルバードを取り上げていく。
しかし、ルードヴィヒのペンが、モナの全身を検分した位置でぴたりと止まった。
彼の視線は、モナの顔でもなく、彼女が放つ殺気でもなく、ただその胸元の異常な膨らみ——チェストベルトによって歪に押し潰された圧倒的な容積へと向けられていた。彼の瞳にセクハラ的な欲望など微塵もなく、そこにあるのはただ純粋な「計算の不一致」に対する拒絶であった。
「……不可です」
ルードヴィヒは不快そうに小さく眉間を寄せた。
「この個体の容積および推定量目は、当関所における『標準旅客容積規格』を著しく超過しています。乾燥国における船舶の過重および不均衡な容積配置は、転覆事故を誘発する重大な規定違反です。また、その不自然な膨らみは『違法香料または危険物』の隠匿を強く疑わせる。これを時間外に正式査定するには三種類の追加書類と本国への申請が必要となるため——」
ルードヴィヒは淡々と羊皮紙に横線を引いた。
「処理能力を超過しています。この一個体は施設外へ排出し、なかったことにしなさい」
「え……?」
モナが顔を蒼白にした。
扉の外では、それを聞きつけた山賊たちが「ガハハ! あの巨乳は放り出されるぞ!」「俺たちで美味しくいただこうじゃねえか!」と下卑た歓声を上げ始めている。
「嫌……嫌ぁぁぁ! 出さないで! 外に出さないでぇぇぇ!」
モナがパニックを起こして悲鳴を上げる。
その時、エレナが静かに一歩前へ踏み出した。
「待ちなさい。体積を減らせばいいのでしょう。モナ、鳩歩きの技、今こそいかすときですよ」
「え……? あ、あの歩き方……ですか……?」
モナが涙目でガタガタと震える。
「背に腹は代えられませんわ。あの汚らわしい山賊どもに揉みしだかれたいのですか? 呼吸を吐き出し、骨を畳むのです!」
「ひ……ひぃぃぃ……っ!」
極限の恐怖に背中を押され、モナは死に物狂いで三歩道秘技『鳩歩き』の骨格操作を起動した。
スゥゥゥ……ッ!
モナが肺の中の酸素を最後の一滴まで吐き出すと同時に、横隔膜が限界まで引き上がる。ピキピキ、ミシミシと、彼女の身体の中から恐ろしい骨の軋み音が響いた。左右の肋骨が格子のように組み合わさり、鎖骨が内側へと滑り込む。
チェストベルトの下で極限まで圧縮されていた圧倒的な肉体が、みるみるうちに体内へと引き込まれ、彼女の胸郭全体が物理的に縮小していく。肩が落ち、首が微細に前後し、わずか数秒の間に、モナの身体は公国の華奢な「標準規格」の容積へと収縮した。
「……なっ!?」
「骨が……縮んだ……!?」
周りの兵士や扉の外の山賊たちが目を剥いて絶句した。
しかし、ルードヴィヒ監察官だけは、体積が激減したモナを見ても一切表情を変えなかった。驚きも、感嘆もない。ただ、手元の羊皮紙の数値をチラリと見比べると、事務的に頷いた。
「規格内に収まりました。これならよし」
ルードヴィヒは手元の麻縄を取ると、モナの身体へ素早く巻き付けた。
彼の手つきには一切の無駄がなかった。公国規定『留置者拘束手順書』の図解通り、完璧な角度と結び目で、麻縄がモナの身体をギチギチと締め上げていく。寸分の狂いもない「男結び」。過不足のない締め付け。
なお、手枷や足枷といった金属拘束具は使用されない。金属具の使用には『安全措置特別報告書』の作成が義務付けられており、定時を過ぎた時間外執務でそのような面倒な書類を作る気など、ルードヴィヒには微塵もなかったからである。
ルードヴィヒは麻縄を結び終えると、羊皮紙を平らなデスクの中央へ置いた。
そして、胸元の印章を手に取ると——
ペタン。ペタン。
羊皮紙の真中央、ガイドラインの枠線に対してミリ単位のブレもなく、完璧な垂直と圧力で判子を捺した。
「……っ!?」
それを見たエレナの身体が、微かに戦慄した。
(な……なんという洗練された無駄のない動き……! 一分の隙もない軸のブレ、判子を捺す瞬間の完璧な体重移動……! この男……只者ではありませんわ……! 姿を偽っているが、もしやどこかの流派の武の達人……!?)
エレナは一人で勝手に、事なかれ主義文官の「事務手慣れ」に対して、深遠な武人としての敬意と戦慄を抱いていた。ルードヴィヒが単なる手先が器用なだけの運動音痴であることを、彼女はまだ知らない。
「留置牢へ」
ルードヴィヒの短い指示により、三人は暗い地下牢へと連行されていった。
◇
地下留置牢。
冷たい大理石の壁に囲まれた狭い部屋には、鉄格子がはめられていた。しかし、見張り兵の姿はどこにもない。時間外の警備配備は規定にないため、ルードヴィヒが配置を省略したからである。牢屋の管理としてはザル以外の何物でもなかった。
「……うぅ……苦しいです……息が……っ」
壁際で丸くなったモナが、圧縮された胸郭を押さえながら浅い呼吸を繰り返している。
「よく耐えましたわ、モナ。これで外の山賊どもに引き渡されることはなくなりましたもの」
エレナが拘束された腕を器用に動かし、シニヨンヘアの崩れを気にしながら言った。
そこへ、暗い廊下の奥から足音が近づいてきた。
現れたのは、酒臭い息を撒き散らし、制服のボタンを外した不埒な警備兵が二人だった。時間外で上司の目が届かないのをいいことに、留置された女たちを物色しにきた素行の悪い男たちである。
「ヘヘ……見ろよ。上物が繋がれてるぜ」
「さっきの巨乳の女だろ? ほら、縄でギチギチに縛られて動けねえや」
二人の兵士が下卑た笑いを浮かべ、鉄格子の扉を鍵で開けて中へと侵入してきた。
「や……やめて……近寄らないで……っ」
モナが怯えて壁際へ後退る。
だが、ニヤニヤと笑う兵士の一人が、その手を伸ばし、モナの肩へ触れた。
ヌッ。
男の指先が、ポンチョの布地越しにモナの肌へ触れた——その瞬間。
モナの脳内で、絶望の閾値が完全に弾け飛んだ。
「いいぃぃぃやああぁぁぁぁぁっっっ!!!!」
極限の恐怖に直面したモナが、体内で維持していた『鳩歩き』の骨格操作を——手放した。
ドゴォォォォンッ!!
圧縮されていた骨格、組み合わされていた肋骨、そして押し潰されていた巨大な胸元の質量が、物理法則を無視した爆発的な速度と復元力で解放された。
「パンッ!!」という、まるで高圧ガスタンクが破裂したかのような乾いた重爆音。
極太の麻縄が弾け飛び、千切れた縄の断片が、高圧の弾丸となって室内へ飛散した!
「ぶはっ!?」
モナの真前に立っていた兵士の顔面に、復元した胸郭と千切れた麻縄の結び目がダイレクトに激突。鼻骨を粉砕された兵士は、鼻血を吹いて空中で一回転し、壁に叩きつけられて一瞬で昏倒した。
もう一人の兵士は同じ打撃を股間に受けて悶絶していた。
「ぐはぁっ……!?」
男は卵を潰された蛙のような悲鳴を上げ、股間を押さえて絶息寸前の表情だ。
「きゃあぁぁぁ!」
自分の肉体の破裂に驚いたモナが、両手を振り回してさらに暴れる。
その混乱に乗じ、エレナも洗練された『鳩歩き』の応用で関節を滑らせ、スルリと麻縄から抜け出した。そして、床で悶え苦しんでいた兵士の頭部へ、パステルピンクのハイヒールで無慈悲なカカト落としを叩き込む。
ドカッ!
「……ふぅ。見苦しい不法者ですわね」
エレナが裾のフリルを優雅に払った。
「三歩道は忍者スキルじゃないって言わなかった?」
壁際で縄に縛られたままのカラムナが、伊達メガネをズレさせながら呆れ顔で尋ねた。
「ただの応用ですわ。それよりも、他の兵士が来る前にこの部屋を出ないと」
「いや、それはたぶん大丈夫。けっこう大きな音だったけど、たぶんここの兵士は指一本だって動かさないよ」
「どうしてそんな事が言えますの」
「時間外だから」
「……呆れて物が言えませんわ」
エレナが心底底冷えするような溜め息をついた。
「ヘタすると、脱獄してるのが見つかっても追いかけてこないかもね。規定だから牢屋に入れただけ、って認識なら。まずは武器を取り返して、あと、規定が書かれた冊子を探そうか。たぶんそれが鍵になるはず」
不埒な目的で入ってきた兵士たちによって、留置牢の鉄扉は開けっ放しになっていた。エレナは落ちていたナイフを拾うと、カラムナの縄をサッと断ち切った。
◇
夜の検問所内部は、不気味なほどに静まり返っていた。
業務時間を過ぎたロビーや書庫は灯火が消され、暗闇が広がっている。兵士や文官たちは自室で眠っているか、食堂で酒を飲んでいるらしく、廊下を渡る風の音だけが響いていた。
ただ、規定に従って巡回を行っている見回りの兵士が、数人だけ懐中灯を持って廊下を歩いている。
三人は影から影へ潜みながら、静かに移動した。
「あの……見つかっても追いかけてこないって話は……」
モナが壁に背中を預け、不安そうに小声で尋ねた。
「見回りしてんのに参謀たちの事みつけて追いかけてこなかったら、そりゃ見回りじゃなくてただの散歩だよ。さすがにそれはないんじゃないかな」
カラムナがガウンの袖を握り直し、伊達メガネをクイと直した。
「……発言が無責任……」
「なんかどんどん遠慮なくなってきてない?」
カラムナが口を尖らせる。
執務室の棚を漁っていたカラムナの手が、一冊の分厚い革綴じの冊子を引き当てた。
『水上関門危機管理マニュアル』。
「あったあった。どれどれ……」
カラムナは伊達メガネの奥の目を高速で滑らせ、マニュアルのページをパラパラとめくった。その天才的な情報処理能力が、莫大な文章の中から「利用できる規定」を一瞬で抽出する。
「使えそうなのは……これと、これと。……こんなところかな」
カラムナはそう呟いてから、一拍置いてニヤリと口角を吊り上げた。
【規定第31条:船上火災・危険物発火時の緊急消火注水弁】
貴重な木造船や関所施設への延焼を防ぐため、船上で火気・爆発の危険が発生した場合、船底の消火弁(注水弁)を開いて船体を速やかに着底・沈没させ、鎮火する装置。
【規定第44条:重犯罪者・不法集団の密航阻止(出航物理凍結)】
許可なき集団による強行乗船や逃走が発生した際、関所のメインレバーひとつで繋留中の全船の注水弁を一斉開放し、対岸への逃走を物理的に遮断するシステム。
「いや、これは素晴らしい。どういう仕組みなんだろう。まあこんなの、どうせ魔道具だろうから仕組みなんか考えても仕方ないか。しかしこんなしっかりした安全対策がされていたということは、昔の公国はちゃんとした国だったのかも知れないねえ」
カラムナは忍び笑いを漏らし、エレナへ作戦を耳打ちした。
「エレナ君。気配を消して桟橋へ向かって。繋留されている渡し船のうち、一番端の一隻だけ……注水弁の連動ワイヤーを外しておいて」
「お安い御用ですわ」
エレナは三歩道『水渡り』を発動し、暗闇の中に溶け込むように姿を消した。
一方、カラムナとモナはロビーのバックオフィスの片隅で、押収されていた自分たちの武器——鉄扇、ハルバード、そしてエレナの投げナイフを回収した。
ロビーへ戻ると、先ほどモナが叩き壊しかけたメイン扉が見えた。蝶番が歪み、開け閉めすら不可能な状態になっている。
その扉の向こう側で、夜露に濡れながら手をこまねいていた山賊たちが、チラリと見えたカラムナの姿に気づいた。
「おい! 中にあの女たちがいるぞ!」
カラムナは壊れた扉の隙間からひょっこりと顔を出し、爽やかに手を振ってみせた。
「それじゃあ『水上環境保全有志互助会』の皆さん。そろそろ失礼しますね。川向うの領にいらっしゃる事があれば、またお声おかけください。ではごきげんよう」
わざとらしく貴族の礼で頭を下げる。
慇懃無礼ここに極まれリ。
一斉に、外の山賊たちがブチ切れた。
「こら待てふざけんじゃねえ!」
「こんなもんやってられるか!」
「ブち殺してやる!」
互助会の認定取り消しなどという脅しよりも、目の前の煽りと怒りが完全に上回った。山賊たちは手に手にした丸太や斧で、壊れかけていた扉を一斉に殴りつけ始めた。
ガン! ガン! ドガァァン!
「よし、逃げるよ!」
カラムナとモナは背を向け、桟橋へと通る廊下をダッシュした。
背後で、凄まじい音とともに大理石の門扉が内側へ向かって吹き飛んだ。松明の赤々とした炎を掲げ、数百人の山賊どもが、口から泡を吹いて関所のロビーへと雪崩れ込んでくる。
「追えぇぇ! 逃がすな!!」
桟橋へ到達したカラムナとモナは、既にエレナが工作を終えて待っていた一隻の渡し船へと飛び乗った。
「ワイヤーの解除、完了していますわ」
「上出来! 出航だ!」
エレナがモヤイロープを切り放ち、渡し船はローザ・マグラ川の暗い奔流へと滑り出した。
追いついてきた山賊たちが、桟橋へ雪崩れ込んでくる。
「クソッ、逃げられたか!?」
「大丈夫だ。渡し船がまだ山ほど繋留してある」
「乗れ! あいつらを追うぞ!」
ハインリヒ、ガストン、ブラドの山賊たちは、我先にと桟橋に繋がれた残りの十数隻の渡し船群へ群がり、松明を掲げたまま飛び乗った。一斉にオールを漕ぎ出し、カラムナたちの船を追って川へ繰り出していく。
◇
関所二階の監察官自室。
静かな部屋の中で、ルードヴィヒ監察官はピンセットを手に、完成間近の精密な『三本マストの木造戦艦模型』の甲板作業に没頭していた。
そこへ、血相を変えた見回りの兵士が、ノックもなしに扉を叩き割る勢いで飛び込んできた。
「ル……ルードヴィヒ監察官! 大変です! 留置牢の脱走者が山賊どもを関所内へ引き込みました! 山賊どもが松明を持ったまま、繋留中の渡し船群を強奪して対岸へ逃走を開始しています!」
ルードヴィヒの手元が、ぴたりと止まった。
彼はピンセットをそっと作業台の上に置くと、深い溜め息を一つ吐いた。彼の顔に不快感と疲労感が浮かぶ。
せっかくの定時後の趣味の時間が、不確定なイレギュラーによって脅かされていることに対する不快感であり、そして就業時間外でこれを処理しなくてはいけないという疲労感だ。
ルードヴィヒは淡々と立ち上がると、壁に掛けられた『危機管理規定集』を一瞥した。
「報告を整理しなさい。山賊群が松明を所持したまま船に強行乗船した……これは規定第31条【船上火災・危険物発火の恐れ】に該当します。また、許可なき不法集団による強行出航……これは規定第44条【不法集団の密航阻止】に該当する」
「全船隻の緊急消火注水弁を開放するよう指示しますので、当直の文官にそのように伝えてください」
「りょ、了解しました!」
兵士の顔に一瞬、「え、マジでそれ実行すんの?」という表情が浮かんだが、すぐに引っ込めて敬礼した。回れ右をして、桟橋でオロオロしている当直文官の元に走る。
そしてその当直文官の操作で、命令は即座に実行された。
◇
ローザ・マグラ川の真っ只中。
カラムナたちの船を猛追していた山賊たちの足元で、不気味な「ゴボボボボ……!」という水鳴りが響き渡った。
「おい……なんだこれ……!? 水が入ってきて……!?」
「なっ!? 船底の弁が開いてるぞ! 塞げ! 塞げぇぇ!」
「ぶはっ!? 沈む!? 沈むぞぉぉ!」
「ルードヴィヒてめえええええ!!!」
注水弁を一斉に開放された十数隻の渡し船群は、火災防止と密航阻止の合理的規定に基づき、寸分の狂いもない綺麗なフォーメーションを保ったまま、次々と漆黒の川底へと沈没していった。
松明の火が「ジュッ……ジュッ……」と音を立てて水面に消えていく。
暗い大河の上に残されたのは、泥と水に塗れて泳ぎ回る数百人の山賊たちの、虚しい阿鼻叫喚だけであった。
◇
夜霧が薄れ、東の空が白み始めた頃。
対岸の安全な領地に辿り着いた一隻の渡し船が、静かに浅瀬へと乗り上げた。
船の上で、カラムナが腰の鉄扇を取り出し、パチンと音を立てて開いた。伊達メガネの奥の垂れ目を細め、満足げにニヤリと笑う。
「四角四面な頭の硬いヤツは扱いやすい」
ガウンの袖をなびかせ、自慢げに胸を張るカラムナ。
その横で、エレナがパステルピンクのフリルドレスの汚れを丁寧に払いながら、ぽつりと呟いた。
「……ですが、あの判子捺しの無駄のなさは、吾も少し見習いたいところですけれど」
「今度は、判子捺しに興味を……エレナ先輩がどこに向かおうとしているのか、時々分からなくなります……」
ハルバードを背負い直したモナが、引きつった顔でボソリと言い放った。
「お。モナ君、今度はエレナ君にまで牙を剥き始めたね」
カラムナが面白がってニヤニヤと笑う。
「別に牙でもなんでもありませんわ。吾の向かう先は決まっています。モントーリエ様以外、あり得ませんもの。そうではなくて?」
エレナが胸元に手を当て、恍惚とした表情で朝焼けの空を見上げた。その横顔には、一本の槍のごとく凛烈な副団長への、揺るぎない崇拝が満ちていた。




