第十一話 三回の音(2)
『VRMMO -関東封鎖戦域-』
第十一話 三回の音(2)
「ただし十五分ごとに交代。全員で壁を見ない。古賀さんは五分後に外の警戒へ戻ってください」
「壁の前に人を残さない時間も作る?」
「こちらの物音に反応しているか確認したい」
葛西が頷く。
「向こうが人なら、こっちが静かになった時に叩くかもしれん」
カイトへ連絡し、機械室の音を記録させる。
発電機の回転数、送水量、換気設備の稼働状態も時刻と一緒に残す。音だけを聞いても、後で再現できなければ意味がない。
最初の十五分は何も起きなかった。
二回目の交代で、古賀が機械室を離れる。
ルーク、新城、葛西の三人は壁から距離を取り、照明も一段落とした。
時間だけが過ぎる。
第三七号の別の区画では、人が食器を片付け、負傷者が眠り、警備員が交代している。その生活音が遠く聞こえた。
壁の前へ集まっていると、施設全体がこの一点を見ているような錯覚になる。
午後九時十一分。
こん、と鳴った。
乾いた音。
金属を小さな工具で叩いたような、発電機の振動より高い音だった。
間を置いて、もう一度。
そして三回目。
新城の手が止まる。
葛西は息を殺し、指を三本立てた。
三回。
録音中のカイトが管理室から囁く。
『聞こえた。波形も三つ。配管の連続音じゃない』
ルークはすぐ壁へ近づかなかった。
二十秒待つ。
追加の音はない。
壁のこちら側が反応するのを待っているようにも思えた。
「二回、返します」
葛西からチョークの柄を借り、壁を二度叩く。
こん、こん。
返事はない。
十秒。
二十秒。
今度は三回。
暗い隔壁の向こうから、ほぼ同じ間隔で三回返ってきた。
「聞こえている」
新城の声が小さくなる。
「人間とは限らない」
戻ってきた古賀が機械室の入口で言った。
「入力に同じ信号を返す装置かもしれない。保守用の確認音ならあり得る」
「では、違う組み合わせを試します」
一回。
少し長く間を空けて、二回。
向こうから返った音も、一回と二回。
同じ。
真似をしている。
偶然ではない。単純な定時動作でもない。
人か、こちらの信号を認識できる装置。
「声を通せる場所を探す」
葛西が壁の下部を調べ始めた。
塗装の盛り上がりを指で押し、工具の柄で音を比べる。床から三十センチほどの場所に、四角い輪郭が埋もれていた。
塗膜を削ると、小さな金属蓋が現れる。
ねじは錆びていた。力任せに回せば頭が潰れる。
葛西が油を差し、時間を置き、一本ずつ緩めた。
「この施設を作った奴、隠すならもっと丁寧に隠せ」
「見つけても開けられないようにしたかったのかもしれません」
「それなら溶接する。これは、必要な奴だけが開ける蓋だ」
最後のねじが外れた。
蓋の奥には、腕一本も通らない細い孔。黒い布と腐った吸音材が詰められている。
「後から詰めた跡だ」
古賀が細い棒を使い、少しずつ引き出す。
埃が舞わないよう濡らした布で受ける。中に罠や鋭利な物がないか確認しながら、油で黒くなった布を取り除いた。
奥から冷たい空気が流れてきた。
湿ったコンクリート。
古い配線。
長く閉じた部屋の匂い。
わずかに、煙か火薬に似た臭いも混じる。
「向こうで発砲があった可能性」
古賀が言う。
「いつかは分からない」
ルークは孔へ顔を近づけた。
声を掛ける前に、言葉を選ぶ。
こちらの人数も、施設の状態も、詳しく知らせない。
「こちら第三七号。聞こえるなら、一回叩いてください」
間を置かず、こん、と返る。
「話せますか」
何も聞こえない。
孔の先で、微かな物音。布が擦れるような音。
やがて、掠れた息が通ってきた。
『……聞こえます』
女性の声だった。
カイトが管理室から割り込む。
『録音開始。音量上げる。こっちでも聞こえてる』
琴音の返事を待つ間、ルークは壁の向こうへいる人物を勝手に想像しないようにした。
若い女かもしれない。
高齢者かもしれない。
武装者が声を変えているかもしれない。
助けを求める相手だと決めつければ、警戒が緩む。罠だと決めつければ、本当に助けを待つ人を見捨てる。
今分かっているのは、こちらの信号を理解し、声を出せる何者かがいるということだけ。
判断は、次の情報を得てから。
「名前を言えますか」
『石塚……琴音』
「一人ですか」
返事が遅れた。
息を吸う音。
『生きているのは、私だけです』
機械室にいた全員が動きを止めた。
ルークは声の調子を変えないよう意識する。
「負傷していますか」
『右脚。切ったのか、撃たれたのか……暗くて分からない。歩けますけど、長くは無理です』
「水は」
『少しだけ。昨日から分けて飲んでる』
「食料は」
『ないです』
「息苦しさ、頭痛、吐き気は」
『頭が重い。息も、さっきより……』
新城が換気設備の図面を探し始める。
琴音のいる区画は密閉に近い。換気が止まっているなら、残り時間は多くない。
「そちらから扉を開けられますか」
『開けないで』
弱かった声が、急に強くなった。
『私の部屋の外に、二人います』
「味方ではない?」
『白い札を探してる。昨日、野瀬さんを撃った人たちです』
壁の向こうで何かが擦れた。
琴音の息が止まる。
遠くから、硬い靴音のようなものが一度だけ聞こえた。
『まだ帰ってない。さっきも廊下を歩いてた』
第三七号の地下に、負傷した生存者。
その外に武装者二人以上。
この壁を開ければ琴音を救えるかもしれない。同時に、今まで存在すら知らなかった侵入口を、第三七号へつなぐことになる。
「石塚さん。こちらで方法を考えます。今は音を出さないでください」
『置いていかないで』
その言葉は、考える間もなく返ってきた。
ここまで二日か、それ以上。
壁の向こうに人の声が届いた瞬間、また静かになれば、見捨てられたと思うだろう。
「置いていきません」
ルークは言い切った。
「ただし、すぐ壁を壊すこともできません。あなたを助けた後、外の人間をこちらへ入れない方法を作ります」
『……はい』
「五分ごとに短く呼びかけます。返事が難しい時は、一回だけ叩いてください」
『分かりました』
通信を切らず、音量だけ落とす。
ルークは現実時刻を見た。
午後九時二十分。
明日は仕事がある。
だが琴音の空気も、外の武装者も、朝まで保留してはくれない。
「新城さん、残りの空気を最悪条件で見積もってください。葛西さんは人が通れる開口部と、開けた後に閉じる方法を探す。古賀さんは片桐班長を呼んでください。真壁班長へ、地下側から武装者が侵入する可能性があると報告」
管理室へ戻る前に、ルークは機械室の出入口を振り返った。
もし敵が壁を越えてきた場合、最初に接触するのは浜田になる。そこを抜かれれば、管理室と医務室へ通じる分岐まで短い。
葛西へ、使っていない金属棚を二つ動かしてもらう。通路を塞ぐのではなく、直進できない角度へ置く。搬送用の道は残す。
古賀には、機械室内の照明を一度に消せる位置を確認してもらった。
新城は閉域線のうち、地下側らしい回線を一時的に切り離す。向こうに設備が生きているなら、こちらの端末情報を読まれる可能性がある。
声を聞いたからといって、救助だけに頭を占領されない。
迎える準備と、拒む準備を同時に進める。
『ルークは?』
カイトが聞く。
「救助計画を作る」
『寝ろって言われたばかりなのに』
「終わったら寝ます」
『それ、終わらないやつだろ』
返事はしなかった。
人を助けるだけなら、壁を壊せばいい。
助けた一人と、第三七号にいる十九人を同時に守るには、開ける順番を決めなければならない。
管理室へ戻る途中、結衣が通路の奥からこちらを見ていた。
「誰かいるの?」
子供にも、壁の向こうの声が聞こえたのかもしれない。
「いる。今から迎えに行く準備をする」
「帰ってこられる?」
ルークはすぐに「大丈夫」とは言えなかった。
「帰ってこられるようにする」
結衣は少し考え、真由のいる医務室へ戻っていった。
保証できないことを保証しない。
それでも、やることは言葉にする。
機械室の壁から、今度は一回だけ、小さな音がした。
琴音がまだ起きているという合図だった。




