第七話 水の道(3)
『VRMMO -関東封鎖戦域-』
第七話 水の道(3)
自分たちが知らない場所で、第三七号へ水を送らない判断が下されていた。責めることはできない。ここにいる人々も、自分たちの人数を守ろうとしただけだ。制御室は一階の奥にあった。中央の監視盤は一部が砕かれ、配線が露出している。一号ポンプの表示が赤く点滅していた。二号ポンプは停止。三号ポンプは《整備中》のまま、表示が消えている。床には、一人の男が横たわっていた。三十代後半。作業服。額に包帯。意識はあるが、起き上がれない。
「新城!」
秋庭が駆け寄る。
「一号を止めろって言っただろ」
男は掠れた声で言った。
「止めたら住宅の水が切れる」
「回し続けたら全部切れる」
葛西が監視盤を見る。
「こいつが設備を見てたのか」
「都市基盤の技術者だ」
秋庭が答える。
「三日前から寝てない」
「だから倒れた」
葛西は新城の前へしゃがんだ。
「二号は何が死んでる」
新城は葛西の顔を見た。
「あなたは」
「第三七号の元管理主任だ」
「……第三七号、生きていたのか」
「人が十四人いる。水がない」
新城は目を閉じ、息を整えた。
「二号は、主軸じゃない。制御系の故障だ。予備制御器へ切り替えれば動く可能性がある」
「可能性か」
「切替器が地下の点検廊にある。昨日、取りに行こうとして――」
新城が右脚を見る。ズボンの膝下が裂け、簡単な固定がされている。
「落下した棚に挟まれた」
真由の確認が必要な怪我だ。今すぐ歩かせる状態ではない。
「場所を教えろ。俺が見る」
葛西が言う。
「地下は浸水している」
「深さは」
「膝下。ただし奥は分からない。照明も一部死んでる」
「切替器だけで動くのか」
「それだけでは無理だ」
新城は監視盤の図を指した。
「吸水側の格子が詰まっている。一号の振動が増えているのは、そのせいだ。詰まりを除いて、二号を予備制御へ切り替える。両方できれば、北側系統を開いても南部住宅の圧は維持できる」
「できなければ」
ルークが聞いた。
「一号を止めるしかない」
「全系統が断水する?」
「そうなる」
制御室にいる全員が、同じ監視盤を見た。第三七号だけの問題ではなくなった。もともと、第三七号だけの問題ではなかったのだ。
「残り時間は」
ルークが聞く。新城が一号ポンプの振動値を見る。
「分からない。十分かもしれない。二時間かもしれない」
「作業を分けます」
ルークは施設図を机へ広げた。
「葛西さんと古賀さんは地下の切替器。カイトと秋庭さんは吸水設備への経路確認。俺は新城さんから操作手順を聞き、全体の連絡を取る」
「お前は行かないのか」
カイトが聞く。
「誰かが両方の進行を把握する必要がある」
「楽する気だな」
「代わるか」
「今のは冗談」
古賀が秋庭を見る。
「こちらの人間を一人ずつ付けろ。設備を壊したと疑われたくない」
秋庭は頷いた。自警班から二人が同行する。葛西と古賀は地下点検廊へ。カイトと秋庭は貯水設備側へ。ルークは制御室に残った。新城のそばには、秋庭側の中年女性が一人。名前は本庄。元は南環住宅の自治会役員だという。
「本当に、第三七号へ水を開けるの」
本庄が聞いた。
「二号が動けば」
「動かなかったら?」
「開けません」
「あなたたちは困るでしょう」
「困ります」
「それでも?」
「第三七号へ十四人います。南環住宅には何人いますか」
本庄は少し迷った。
「四十八人。子供が九人」
「なら、こちらだけを優先する理由はありません」
「その言葉を信じろと?」
「今は、信じなくていいです。弁の前に、そちらの人を置いてください」
本庄はルークを見た。その提案が予想外だったらしい。
「勝手に開けないため?」
「双方が確認してから開けるためです」
新城が床から声を出す。
「北側弁を開けるなら、三十パーセントからだ」
「全部ではない?」
「一度に開ければ圧が落ちる。管も長く止まっていた。漏水があれば、貯水を地面へ捨てるだけになる」
ルークは紙へ書く。
《二号起動》
《一号吸水回復》
《南側圧力確認》
《北側弁30%》
《第三七号側漏水確認》
新城はその字を見た。
「紙を使うのか」
「端末が止まることがあるので」
「今回の故障はEMPじゃない」
「次もそうとは限りません」
新城が、ほんの少しだけ笑った。
「第三七号の管理者は、随分古い人だな」
「本人もそう思っています」
通信機から古賀の声が入る。
『地下点検廊へ進入。水深は足首から二十センチ。視界不良』
「了解。足元を優先。時間より帰還」
『葛西が文句を言っている』
遠くで葛西の声が聞こえた。
『誰が遅いと言った!』
『元気そうですね』
カイトの通信も入る。
『貯水槽側へ到着。格子、見える範囲だけでもゴミだらけ。流木とビニールと……自転車』
「自転車?」
『一台丸ごと引っ掛かってる』
新城が顔をしかめる。
「外側の除塵機が止まって、流れてきたものが全部集まったんだ」
「手作業で外せますか」
『やるしかないだろ』
秋庭の声。
「命綱はありますか」
『ある』
「必ず固定してから作業してください。水側へ入らない」
『分かってる』
返事には、分かっていても急ぎたい苛立ちがあった。警報が再び鳴る。
《一号ポンプ振動上昇》
本庄が監視盤へ近づく。
「止めなくていいの?」
新城が数値を見る。
「まだだ」
「本当に?」
「俺に聞くな」
「あなたしか分かる人がいない!」
新城の表情が固まる。三日間。四十八人の水を、一人の技術者が背負ってきた。判断を間違えれば、全員が断水する。眠らず、怪我をしても止まれなかった。ルークは、その姿に自分と似たものを見た。
「新城さん」
「何だ」
「一号を止める基準を教えてください」
「俺が判断する」
「あなたが意識を失った場合、誰が止めますか」
新城は黙った。
「数値と音、警報の条件を、本庄さんと俺へ教えてください」
「素人に任せられるか」
「任せるのではありません。あなたが判断できなくなった時の手順を残す」
「俺はまだ――」
「三日前から寝ていないと聞きました」
新城の声が止まる。
「倒れない保証はありません」
本庄が、新城の隣へ紙を持って座った。
「教えて」
「本庄さんまで」
「あなたが死んだら、水も止まるなんて状態の方がおかしいでしょう」
新城は目を閉じた。やがて、監視盤の三つの数値を指した。
「振動値。吸水圧。軸受温度」
一つずつ、基準を説明する。ルークは記録し、本庄が復唱する。専門的な意味をすべて理解したわけではない。それでも、危険を知らせる線は共有できた。新城一人しか知らなかった判断が、三人へ分かれた。通信が入る。
『切替器を発見』
古賀だった。
『ただし、棚が倒れている。葛西だけでは動かせない』
「古賀さんと同行者で動かせますか」
『可能。ただし水位が上がっている』
新城が施設図を見る。
「一号の排水が逆流してる。二号が止まっているせいだ」
「撤退基準は」
「膝を超える前」
ルークは通信する。
「水位が膝へ達したら、切替器を残して撤退してください」
『了解』
『待て』
葛西の声が割り込む。
『ここまで来て置いていけるか』
「置いて帰ります」
『まだ持ち上げてない』
「水位が基準を超えた場合です」
『老人扱いするな』
「全員同じ基準です」
返事の代わりに、金属が動く音がした。カイト側からも通信。
『自転車、外れない! 流れが強くなってる!』
「作業を止めて離れてください」
『あと少し!』
「離れろ、カイト!」
ルークは声を強めた。通信の向こうで、秋庭が何か叫ぶ。直後、大きな水音。数秒、返事がない。
「カイト」
『いる!』
息を切らした声が戻る。
『秋庭が引っ張った。自転車はまだ半分』
「負傷は」
『なし』
『こいつ、水に入ろうとしたぞ!』
秋庭が怒鳴る。
『入ってない!』
「一度、全員離れてください」
『でも振動が――』
「作業方法を変えます」
ルークは新城を見る。
「外側から引ける設備は」
「除塵機の手動巻き上げがある。だが、ハンドルが事務棟倉庫だ」
「場所は」
本庄が立ち上がった。
「私が知ってる。昨日、工具を運んだ」
「一人で行かないでください」
本庄は制御室の外へいる男性を呼んだ。二人で倉庫へ向かう。ルークはカイトへ伝える。
「手動巻き上げを使う。届くまで待て」
『最初からそれを言ってくれ』
新城が苦い顔をする。
「昨日までは動かなかった。ハンドルも見つからなかった」
「設備図には?」
「ある。でも保管場所が変更されていた」
図面があっても、現場が同じとは限らない。知識があっても、一人では探せない。人が増えるほど食料は減る。だが、人が増えなければ見つからないものもある。本庄たちが、長い金属ハンドルを持って戻った。秋庭側へ運ばせる。地下では、葛西たちが棚を動かし、切替器を回収した。貯水槽側では、手動除塵機がゆっくりと格子を持ち上げる。自転車と流木と大量のごみが、水面から現れた。
『上がった!』
カイトの声。監視盤の吸水圧が変化する。一号ポンプの振動値が、少しずつ下がり始めた。本庄が声を漏らす。
「下がってる」
警報が止まる。制御室の全員が、音の消えたスピーカーを見た。まだ終わっていない。だが、一号ポンプは持ち直した。古賀たちが地下から戻る。葛西は膝まで濡れ、呼吸が荒い。それでも、胸へ切替器を抱えていた




