第一話 歩き方から始めよう
『VRMMO -関東封鎖戦域-』
第一話 歩き方から始めよう
鉄扉の向こうにあったのは、射撃場ではなかった。ひび割れた舗装路だった。左右を三メートルほどのコンクリート壁に挟まれ、奥へ向かって緩やかな坂が続いている。地面には浅い水たまりができ、頭上から細い雨が降り続けていた。壁際には土嚢、倒れた標識、瓦礫を詰めた金属籠。さらにその先には、階段、崩れた歩道、ぬかるんだ土の斜面まで用意されている。訓練施設というより、災害後の市街地を細長く切り取ったような場所だった。
「訓練参加者、ルーク。開始線まで進め」
鉄扉の脇に立つ男が言った。年齢は五十代半ばほど。雨具の上から八洲共同警備機構のプレートキャリアを着込み、短く刈った髪には白いものが混じっている。頭上には名前もレベルも表示されていない。ゲームらしいものは、胸に付けた部隊章と、宗一――ルークのPTIDに表示された一行だけだった。
《基礎行動課程 担当教官:黒瀬征士》
「了解」
ルークが答えると、黒瀬は眉をわずかに動かした。
「声が小さい」
「了解しました」
「大きければいいわけでもない。必要な相手に、必要な音量で届かせろ。戦場で元気の良さを採点する者はいない」
「……了解しました」
今度は、黒瀬が何も言わなかった。合格らしい。開始線には、同じ簡素な戦闘服を着たプレイヤーが七人並んでいた。若い男が二人。女性が三人。年齢の分かりにくい者が二人。全員、胸のPTID以外はほとんど何も持っていない。
「これ、いつ銃を持てるんだ?」
ルークの隣にいた青年が、小声で呟いた。頭上の表示はないが、PTIDの近距離通信欄には《KITE》と出ている。
「歩行課程を終えてからだろう」
「歩行って。歩くチュートリアルなんて本当にあるのかよ」
「ここにあるな」
青年――カイトは、冗談が通じない相手を見る目をした。黒瀬が列の前へ立つ。
「これから全員に十五キロの装備を背負わせる」
壁際のラックから、補助員NPCがバックパックを運んできた。背負った瞬間、ルークの肩へ現実と変わらない重みが乗った。肩紐を締める。腰ベルトへ荷重を逃がす。胸のベルトを留め、肩が後ろへ引かれすぎない位置へ調整する。指が勝手に動いた。二十年前、モニターの向こうでは数字でしかなかった重量だ。今は、腰と膝と足裏へ、はっきりと存在している。
「装備を確認しろ。合図で走り、坂の先にある赤い旗を取って戻れ」
カイトが笑った。
「なんだ。結局走るだけじゃん」
電子音が鳴る。七人が一斉に飛び出した。ルークも反射的に走り始め――十歩で速度を落とした。
重い
十五キロという数字は知っている。だが背中に十五キロを固定した状態で走るのは、手に十五キロの荷物を持つのとはまるで違った。足を着くたびに荷物が遅れて沈み、その反動が肩と腰へ返ってくる。前を走った若い三人は、たちまち距離を広げた。
「遅いぞ、おっさん!」
カイトが振り返って叫ぶ。ルークは返事をしなかった。呼吸を二歩で吸い、二歩で吐く。歩幅を少し狭める。足を身体より前へ投げ出さず、重心の真下へ置く。肩の力を抜き、腕を大きく振りすぎない。坂へ入る前に走るのをやめ、早歩きへ切り替えた。PTIDの隅で、心拍数と疲労推定値が上がっている。
《心拍:156》
《短期疲労:28%》
《推定継続行動時間:低下中》
前方で、カイトの足が止まった。坂を半分ほど上ったところで膝へ手を付き、肩で息をしている。別の一人は旗を取ったものの、帰りの下り坂で速度を抑えられず、水たまりへ足を取られて転倒した。重いバックパックに上半身を引かれ、舗装路へ派手に転がる。
「痛っ……!」
「立てるなら端へ寄れ。後続の進路を塞ぐな!」
黒瀬の声がスピーカーから飛んだ。ルークは一定の速度で坂を上った。苦しくないわけではない。肺は熱く、太腿が重い。旗へ着いた時点では立ち止まる必要はなかった。赤い布を一本抜き、下りはさらに歩幅を狭める。着地の衝撃を膝だけで受けず、足裏全体と股関節で逃がした。開始線へ戻った時、順位は四番だった。先に到着した二人は地面へ座り込み、もう一人は吐き気を訴えている。ルークは立ったまま呼吸を整えた。
「課程終了」
黒瀬が全員を見回した。
「最初に旗を持ち帰った者。お前の成績は不合格だ」
「は?」
先頭だった若い男が顔を上げた。
「一番だっただろ」
「本番の目的が旗を取ることならな」
黒瀬は感情のない声で言った。
「帰還後の心拍、短期疲労、関節負荷、残存行動能力。どれも基準未達だ。五分以内に敵と遭遇した場合、お前は戦えない」
続いて、転倒したプレイヤーへ視線を向ける。
「下り坂で速度を制御できなかった者も不合格。舗装路だったから擦過傷で済んだ。瓦礫の上なら足首か手首を壊している」
黒瀬は最後にルークを見た。
「ルーク」
「はい」
「なぜ途中で走るのをやめた」
「目的地まで到着するだけなら、走り続ける必要がなかったからです」
「旗を早く取れとは命じたか」
「いいえ」
「正解だ」
黒瀬は列の全員へ向き直った。
「走れることと、走るべきことは同じではない」
雨音の中、低い声だけが通った。
「戦闘区域での移動は競走ではない。到着した時に、判断し、撃ち、運び、逃げる力を残しておく必要がある」
PTIDへ講習内容が表示される。
《荷重歩行の基本》
《歩幅を広げすぎない》
《着地点を重心から離しすぎない》
《肩と腕へ余計な力を入れない》
《上り坂では速度より呼吸を維持する》
《下り坂では歩幅を狭め、荷物に身体を運ばせない》
《短い全力疾走は、遮蔽物間の移動など必要な場面に限定する》
「速い者が生き残るとは限らない」
黒瀬が言った。
「最後まで動ける者が、生きて帰る」
歩行課程は、それだけでは終わらなかった。瓦礫の踏み方。濡れた階段で身体を壁側へ寄せる理由。ぬかるみで片足を強く引き抜かないこと。暗所では足を高く上げず、爪先で障害物を探りながら進むこと。疲労時ほど足元だけを見続けず、定期的に周囲を確認すること。十五キロだった荷物は二十キロへ増えた。最後には、水の入った容器を抱えた負傷者役の人形まで運ばされた。若い頃の宗一なら、こんな講習を退屈だと感じただろう。だが今は違う。
どれもゲーム内でしか使えない特殊操作ではない。地震でエレベーターが止まり、荷物を抱えて階段を下りる時にも役立つ。避難所まで歩く時にも、疲れ切った誰かへ肩を貸す時にも使える。ゲームは、画面の隅に答えを表示しなかった。代わりに、失敗すれば膝が笑い、呼吸が乱れ、次の行動が遅れる。嫌になるほど身体へ教え込んでくる。
「やっと終わった……」
カイトが地面へ座ろうとした瞬間、黒瀬が言った。
「座るな。歩いて呼吸を整えろ」
「休ませてくれよ!」
「急に止まるより、低い強度で動きながら整えた方が次へ移りやすい。水を一度に流し込むな。少量ずつ飲め」
カイトは文句を言いながらも立ち上がった。ルークも支給された水筒から二口だけ飲む。PTIDに、水分状態が表示された。
《体内水分:正常》
《発汗量:中》
《推奨補給量:少量》
「ずいぶん細かいな」
思わず呟くと、黒瀬が聞きつけた。
「喉が渇いたと感じてから飲む。それだけでは遅れる場合がある」
「気温と運動量で必要量が変わるからですか」
「それだけではない。防具を着れば熱がこもる。緊張すれば、自分の渇きに気づかない。水が残り少なければ、飲むこと自体を我慢する者もいる」
黒瀬が水筒を持ち上げた。
「ただし、短時間に無理やり大量の水を飲めばいいわけでもない。行動時間、気温、発汗、食事、残量を見て配分しろ」
カイトが眉を寄せる。
「ゲームでそこまでやる?」
「この先で脱水になれば、照準が揺れ、走行速度が落ち、頭痛と判断力低下が始まる。進行すれば痙攣、混乱、行動不能だ」
「水がゼロになった瞬間に死ぬんじゃないのか」
「人間は数値がゼロになった瞬間、規則正しく倒れてくれる機械ではない」
黒瀬の返答に、ルークは少し笑った。その不親切さは、嫌いではなかった




