18.鼓動
夜。
エルヴィスの自室のベッドの上。
椅子に座って本を読んでいるエルヴィスを、オリヴィアは横たわってじっと見つめていた。
(……穴が開きそうだ)
気付かない振りを続けていたエルヴィスだったが、あまりにもその時間が長く、とうとう痺れを切らす。
開いた本はそのままに、目線だけちらりと横に動かした。
「……何」
「……あのね、エルヴィス。私、貴方に言ってなかったことがあるの」
エルヴィスの眉がぴくりと動く。
ただ事ではない気配を感じ、読んでいた本をパタンと閉じる。
本を脇に置くと、くるりと椅子を回して身体全体をオリヴィアに向けた。
「何だよ」
エルヴィスの真剣な顔を見て、オリヴィアはごくりと唾を飲み込んだ。
「あのね……私……」
オリヴィアは懸命に言葉を継ごうとするが、思うように声が出せないようだった。
手に何もないのが不安なのか、ブランケットを握りしめている。
エルヴィスは何も言わず、ただじっとその時を待つ。
やがて、オリヴィアは覚悟を決めたように唇を引き結ぶと、きっぱりと顔を上げ、真っ直ぐエルヴィスを見つめて言った。
「私……エルヴィスの猫目が、可愛くて好きなの!」
「……はっ?」
エルヴィスが素っ頓狂な声を上げた。
それに構わず、オリヴィアが大真面目な顔で続ける。
「あのね、エルヴィスの顔って一目見ただけで『格好いい!』ってなるくらい凛々しいじゃない?なのに猫目は可愛くて、私、凛々しさと可愛さが共存しているのがずっと不思議だったの」
「おい」
「でも気づいたのよ。猫目って、ただ可愛いだけじゃないのよね。ツンとしたキツさがあって、それがちょっとしたスパイスになっているというか」
「ちょっと」
「それがうまく凛々しさと調和してるんだって思って。その可愛い猫目の中にある貴方の青い目。波間の中に煌めきがあるようで、私、とっても好きなの」
「ちょっと待て!」
力強い制止がオリヴィアの肩を掴んだ。
オリヴィアがハッとしてエルヴィスを見ると、彼の顔が……赤くなっていた。
そのことにエルヴィスも気づいたのか、勢いよく顔を背ける。
後ろ向きのまま、オリヴィアに問いかけた。
「……急にどうしたんだよ」
「ごっ、ごめんなさい!……でも、どうしても言っておかなくちゃと思って……」
「……何で?」
エルヴィスがちらりと横目で見る。
怪訝な表情が伺えるが、まだ頬に赤みが残っている。
常にクールな彼は、実はこういったストレートな愛情表現が弱点だ。
そんな彼が可愛らしくて、そして同時に……見ていると切ない気持ちが込み上げてくる。
オリヴィアの笑顔は、困ったように歪んだ。
「……伝えられないまま別れが来てしまうこともあるんだって、気づいたから」
その言葉に、エルヴィスが瞠目する。
そんな彼の仕草一つ一つから、オリヴィアは目が離せなかった。
その全てが、この胸に刻んでおかなければならない宝物のように思えたから。
エルヴィスが永遠に去ったと思ったとき、後悔したのは、伝えたかった言葉を伝えられなかったことだった。
日頃恥ずかしかったり、反対に、彼が恥ずかしがるかと思って遠慮していたこと。
言わずに秘めていたささやかな幸福が、この胸には山ほどあった。
それを伝える機会がもうないのだと思い知ったとき、本当に胸が張り裂けてしまいそうだった。
「だから決めたの。大切だと思ったこと、好きだと思ったこと。全部、伝えていかなくちゃって」
真摯に訴えるオリヴィアの目を、エルヴィスは間近からじっと見つめる。
だが、やがて、呆れたように一つため息を吐いた。
「バカだな。くだらねーこと思い詰めやがって」
「あうっ」
不意にエルヴィスがオリヴィアの鼻をきゅっと摘まむ。
それは一瞬で解放されたが、オリヴィアは目を白黒させて鼻を擦った。
オリヴィアは狼狽した。
自分は今、彼の死を経て得た、非常に重大で繊細な気付きを伝えたはずだ。
自分なりに真剣に悩んで出した答えだったというのに、当の本人は今、何と言った?
「くっ、くだらないこと……!?」
「ああ。いつか失うことばかり考えて、今ここにある幸せを享受しない。くだらない以外の何だってんだよ」
エルヴィスの言葉に衝撃を受ける。
確かに、一度絶望を味わったことで、永遠の別れがいまだかつてないほど近くにいた。
ずっと遠くにいると思っていた喪失が思いの外傍にいることに気付いて、臆病になりすぎていたのかもしれない。
大切な人は、今目の前で生きているというのに。
黙りこくったオリヴィアに、エルヴィスが静かな声音で言う。
「お前の良さは、単純で……素直で、まっすぐなところだ。お前の笑顔には嘘がない」
「……エルヴィス?」
オリヴィアが下げていた視線をそっと上げる。
エルヴィスは何かを迷うように唇を閉ざす。
だがやがて、小さく息を吐くと、呟くように言った。
「……そういうところが俺は好きなんだ。だから笑ってろ」
不意に与えられた彼の心に、オリヴィアの胸が高鳴った。
……エルヴィスに、自分の好きなところを告げられたのは初めてかもしれない。
心臓の辺りが急激に熱くなり、ドキドキしてくる。
もう一度言わないかな、なんて耳をそばだてたが、エルヴィスが同じ言葉を再度言うことはなかった。
代わりに、彼はほんのり頬を赤らめながら立ち上がる。
エルヴィスはオリヴィアに対面して座ると、己の両手で彼女の両手をそっと包み込んだ。
時にはペンを、時には剣を握って戦う彼の手は逞しく、皮膚が硬くて筋肉質だった。
だが、その手つきは優しく、とても温かかった。
互いの手が触れる。
たったそれだけで、甘美な心地になる。
エルヴィスが、静かに、柔らかい声でオリヴィアに囁いた。
「……いつだって大切なものは、すぐ傍にあるんだ。俺たちはバカだから、いつも失くしてから気付くけど……ほんとは、知ってるはずなんだ。自分にとって何よりも大切なもの」
彼の言葉がゆっくりとオリヴィアの中に沁みていった。
彼の掌の温もりも、オリヴィアの手に伝わっていく。
──自分にとってそれが何なのかは、もうとっくに分かっている。
「そのことを忘れるな。それを覚えていて、分かってさえいれば……大丈夫だから」
エルヴィスは、微かに目を細めて言った。
まるで自分自身にも言い聞かせているようだった。
そんな彼の手を、オリヴィアはきゅっと力を込めて握り返す。
彼に、自分の想いが伝わればいいと願う。
この繋いだ手の温もり。
ここにある一瞬を、この先何度も思い出すだろう。
そしてまた手を取り合って、話をして、心を交わして、新たな一瞬を作っていく。
そんな未来へと続く無数の可能性が、今この手の中で強く輝いていた。
奇跡だ、と思った。
あまりの幸運に胸の奥が震えて、涙が滲んでくる。
この温かい光が余りにも尊くて、いっそ苦しいような、不思議な気持ちだった。
「私、忘れないわ」
オリヴィアははっきりとエルヴィスに言った。
自分自身に対する誓いのようでもあった。
その声音に、もう迷いはなかった。
未来を、まっすぐに信じられた。
それを聞いたエルヴィスが淡く笑った。
口の端が上がっただけの小さな笑みだったが、彼の想いが伝わるような、柔らかい表情だった。
「それでいい」
彼の言葉がオリヴィアの胸に静かに浸透していく。
彼が自分のために紡いだ言葉、与えた心が、あまりにも優しい。
抑えきれずあふれてきた感情が、オリヴィアの口を動かした。
「私も、貴方の笑顔好きよ」
「……」
エルヴィスが目を真ん丸くした後、ぱっと伏せた。
その睫毛が震えている。
一連の仕草が、たまらなく愛らしかった。
エルヴィスが不自然に目を逸らしたまま、オリヴィアに問いかける。
「……それは……言わなきゃと思って言ってるわけじゃないんだな?」
「うん。今言いたくなったの」
「……それならいい」
大好き。
その言葉の代わりに、オリヴィアはエルヴィスに思いっきり抱きつく。
大きな身体はビクッと震えたが、やがて、躊躇うように抱きしめ返してくれた。
自分の気持ちは間違いなく彼に伝わっている。
そして自分も、言われずとも彼の気持ちが分かる気がした。
胸板に顔を埋め、そっと鼓動を確かめる。
大丈夫。
彼の心臓は、彼の命は、確かに温かく息づいている。
エルヴィスもオリヴィアの温もりを感じていた。
死んでいれば触れられなかったものだ。
心の中でそっと思う。
──生きていて、良かったと。
エルヴィスに抱きつきながら、オリヴィアは幸せで笑った。
彼が好きだと言った、心からの笑みだった。




