9.凶花
ガチン!
室内に不吉な音が響いた。
歯と歯が勢いよくぶつかった音だ。
オリヴィアは、目の前で起こったことが理解できなかった。
エルヴィスの口から鮮血が散る。
そのままがくりと脱力すると、その頭はもう、上がることはなかった。
彼を拘束していた帝国兵が「ひいっ!」と悲鳴を上げて飛び退く。
帝国兵幹部は渋面でエルヴィスの顔を覗き込んだ後、舌打ちをして顔を上げた。
「クソッ、舌を噛みきって死にやがった」
八つ当たりのように、彼に突き付けていた剣をドスッと床に刺す。
オリヴィアは呆然としていた。
目の前の光景に現実感がない。
彼が死ぬことなど、今まで一度も考えたことがなかった。
とても……受け入れられない。
「どうすんですか?婚約者を人質にとれば女王も降伏するだろうって話だったのに」
「うるせえ!あの手練れの側近を人質にとれただけでも運が良かったんだ。こうなったら正面から女王の首を獲りに行くしか……」
帝国兵たちは声を潜めているが、静まり返った室内では、耳を澄まさずとも聞こえてくる。
その会話で、オリヴィアは静かに得心した。
(そうか……だからエルヴィスは、舌を噛みきったんだわ)
エルヴィスは、自分がオリヴィアの『足枷』になっていると判断した。
オリヴィアにはエルヴィスを置いて逃げるなどできるはずがなく、そしてそれを理解していた帝国兵たちにとって、エルヴィスは『国と釣り合う最高の人質』だった。
彼は身体と肩、両手を封じられ、自身の脱出は不可能と結論づけたが、オリヴィアにはまだ、逃げ道が作れると考えた。
彼女も両腕を羽交い締めにされているが……両足には、『赤い靴』がある。
エルヴィスが自ら命を絶つことで、帝国兵たちは人質を失い、オリヴィアも執着から解放される。
『足枷』のなくなったオリヴィアは、その自由な足で舞い、その場から逃げればいい。
国と婚約者。
どちらを見捨てるかという『残酷な選択』をすることなく。
(……なんて人なの)
涙の粒が、オリヴィアの頬を伝った。
なんて賢くて、強くて、立派で……愚かな人なんだろう。
(ひどい人。目の前で貴方を喪った私が、どんな気持ちになるか分からなかったのかしら)
常に何十手先まで見通すエルヴィスにも、たった一つだけ計算できなかったことがあった。
それは……オリヴィアにとって、エルヴィスのいない世界など、なんの価値もないということだ。
失って初めて気づいた。
胸に開いた穴の大きさに。
これは……彼以外では、何をもってしても埋められない。
オリヴィアはすっと顔を上げた。
その顔を見た帝国兵はごくりと唾を飲んだ。
女王は……微笑んでいた。
戦慄するほど、穏やかに。
その場だけ、余りにも無垢な花が咲いたかのようだった。
辺りに漂う血の匂いも、微かな風も、その笑みの前に消えていく。
(もう、何もかもがどうでもいい)
オリヴィアはその微笑みのまま、右足を真後ろに振り回した。
何の予備動作もなく繰り出された足技に、羽交い締めにしていた敵兵は避けることが叶わず、顔面で受ける。
その顔の上で、オリヴィアは踵を鳴らした。
跳躍の力は、オリヴィア自身ではなく受け手へ伝わる。
鋭い突風が生まれ、帝国兵が勢いよく吹っ飛ばされた。
打ち付けられた衝撃で、轟音と共に壁が崩れる。
帝国兵たちは、唖然としてそれを見ていた。
……一体何が起こったんだ?
だが呆けている暇はなかった。
たった今まで向こうにいたはずの女王が消えている。
そして自分の足元に、見覚えのある赤髪。
ひゅっと息を呑む。
何故、こんなに素早く──。
その先を考えることはできなかった。
『赤い靴』の常人離れしたスピードにより速度を上げたレイピアが、眉間を貫いたから。
オリヴィアは流れるように帝国兵たちの急所を突いていった。
『赤い靴』で起こす跳躍を利用することで、自分の移動速度も、剣速も上げることができる。
最早自分自身が風になったようだ。
最後に残ったのは帝国兵幹部。
怯えた表情ながらもしっかりと武器を構えているあたり、幹部に足る実力者なのだろう。
だが、オリヴィアにとってそんなことはどうでも良かった。
肝心なのは、この男がエルヴィスの首筋に剣先を突き付け、彼が舌を噛みきって事切れた際には、彼に向かって舌打ちをしたということだ。
「やっぱり貴方に相応しいのはここよね」
舌打ちしたその口ごと、黙らせるように──。
オリヴィアの鋭い切っ先は、口の中から喉を貫いた。
あれほどいた帝国兵たちは、今や全て骸となっていた。
オリヴィアの信条であった不殺の剣は、今や彼女自身によって投げ捨てられていた。
ぴちゃ、ぴちゃっと赤色の靴が立てる水音だけが響く。
オリヴィアはそっと、金髪の男の足元に膝を屈めて座った。
「エルヴィス……」
名前を呼んでも、当然返事はない。
身体に触れると、まだ温かかった。
だが、直に冷たくなるだろう。
恐る恐る顔を覗き込んでみたが、壮絶な最期を迎えた割には、穏やかな顔をしていた。
それに少しだけ安堵する。
その閉じられた目が開くことは、もうない。
あの波間のような瞳が自分を見つめることも、もうない。
凛々しくもどこか可愛らしく見える猫目が、実は好きだった。
彼は恥ずかしがるだろうから伝えたことはなかったけど。
言ったら……どんな顔をしただろう。
「……行かなくちゃ」
オリヴィアは名残惜しく彼の背中に乗せていた手を、そっと離した。
すっと立ち上がったとき、彼女の目から光は消えていた。
(殺してやる。彼を殺した者、彼を殺した国、全て。絶対に許さない)
赤い靴跡を残し、オリヴィアはドアから出ていった。




