18.喪失
「初めてお目にかかります。マインズ王国第二王子、アーロン・マインズと申します。どうぞよろしくお願い致します」
「エクスカリオン王国女王、オリヴィア・エクスカリオンです。こちらこそ、よろしくお願い致します」
和平条約交渉に合わせて、マインズ王国の王子が渡来してきた。
実際に会議が行われるのは数日後だが、それに合わせて早めに来訪したのだ。
婚約を見据えての顔合わせの意味もあるだろう。
アーロンは、落ち着いた物腰の柔らかい男だった。
段差では自然にオリヴィアをエスコートし、オリヴィアが礼を述べれば嬉しそうにはにかむ。
仲良さそうに庭園を歩く二人を、エルヴィスは後ろから見ていた。
……これが、自分の本来の立ち位置なのだと思った。
いつも隣にいたが、それは特殊だったのだ。
本当の女王と臣下はこんなに遠くて、臣下の位置から見た女王は、空に輝く星のようだった。
オリヴィアは縁談を断るつもりだと言っていて、自分たちもそのつもりで準備していたが、オリヴィアが口にした仮定が頭を離れなかった。
『もし婚姻を受けるとしたら──』
婚姻を受けたら、この距離が『いつも』の距離になる。
もう真横で一緒に政務を行うことも、二人きりの執務室で砕けた口調で話すこともなくなるだろう。
分かっていたはずなのに、その時が間近に迫ってくると、エルヴィスの胸は何故か強く痛んだ。
「このバラ、きれいですね。摘んでもいいですか?」
「ええ。トゲでケガをしないように気をつけてください」
アーロンが器用にバラを一輪取る。
バラの茎には、鋭いトゲが並んでいた。
それを、アーロンがきれいに取り除く。
エルヴィスの脳裏に旅の頃の光景が甦る。
美しい野バラを摘もうとして、指を切ったオリヴィア。
「気を付けろ」と言いながら手当てをしたエルヴィス。
ごめんなさいと言いながら、何故か嬉しそうに笑っていたオリヴィア。
アーロンが、トゲのなくなったバラをオリヴィアの耳に掛ける。
「とてもよくお似合いです、女王陛下」
遠目で見たオリヴィアは、恥ずかしそうに笑っていた。
ずきり、と胸の奥が痛んだ。
反射的にエルヴィスは胸を押さえる。
(……大丈夫だ。万が一結婚しても、あの男ならオリヴィアを傷つけたりはしない。歩く道にあるトゲを取り除いてくれるはずだ)
そっと自分の手を見る。
トゲに触れていないのに、傷付いている気がした。
(対して俺は……あいつを傷付けるトゲだ。トゲは取り除かれたほうがいい……)
アーロンと別れてオリヴィアがエルヴィスのもとに帰ってきたとき、エルヴィスは平静を装って無表情で迎えた。
執務室内に入って、オリヴィアの上着をハンガーラックに掛けながら、さりげなく尋ねる。
「マインズの王子はどうだった。遠目からは楽しそうだったが」
すると、オリヴィアは顔を綻ばせながら答えた。
「ええ……とってもいい人だったわ。よく気がついて、優しくて……」
エルヴィスは一瞬、呼吸するのも忘れた。
唾をごくりと呑み込むと、思い出したように時間が動き出す。
手が震えて、上着を落とさないようにするのに精一杯だった。
「……そうか」
一拍置いて、エルヴィスは無理やり喉を動かした。
「良かったな」
自分がどうしたのか分からなかった。
何故こんなにも身体が思うように動かない。
手が震え、唇が震える。
喉が震えていないのだけが幸いだった。
いつまでもハンガーラックを見つめて、こちらに背を向けているエルヴィスにオリヴィアが首を傾げる。
「エルヴィス?どうしたの?」
「……どうもしない」
そう言いながらも、エルヴィスは一向にオリヴィアのほうを向かない。
「エルヴィス?」
オリヴィアが顔を覗き込むと、エルヴィスの顔は──悲痛に歪んでいた。
「エル……」
「見るな」
ばっと自分の腕で顔を隠すエルヴィス。
足早に執務室から出ていってしまった。
オリヴィアは今自分が見たものが信じられなくて驚いて呆然とする。
いつも冷静で無表情なエルヴィスが、あんな、感情を露にした顔をするなんて……。
あれは苦しみの顔だった。
怒りではない。嫌悪でもない。
もっと別の──何かを必死に押し殺している顔。
まさか。
でも、そんなはず……。
エルヴィスの顔を歪めた心情を、オリヴィアは黙って考えていた。




