12.距離
──あの日から、避けられてる気がする。
オリヴィアの疑念は、日を追うごとに確信へと変わっていった。
エルヴィスの距離が、今までより遠いのだ。
先日、書類を渡そうとしたとき。
「これ、お願いね」
「はい」
偶然、二人の指が触れる。
すると、エルヴィスらしくもなく……彼は書類を取り落とした。
バサバサと舞いながら床に落ちる書類の束。
「すみません」
エルヴィスが謝りながら慌てて拾った。
(……私と指が触れたから?)
彼の心を動揺させた根底の感情が、オリヴィアには分からなかった。
また、ここ最近は護衛をサイモンに任せて、エルヴィスは外回りばかりしている。
以前はエルヴィスとサイモンで均等になるように交互に役割を交代していたのに。
オリヴィアが唇を尖らせていると、サイモンがおどけたように言った。
「陛下、エルヴィスのほうが良かった?」
その言葉に、オリヴィアは慌てて振り返る。
「いいえ!そんなことないわ。サイモン、頼りになるもの。ありがとう」
「陛下は優しいねえ。でも……」
サイモンの眉が優しく下がった。
「僕には、女王だからって我慢しないで、もっと正直になってもいいんだよ?」
「……」
オリヴィアは困ったように曖昧に微笑んだ。
その後も、何かとエルヴィスとの接触の機会は減った。
たまに会っても素っ気ない返事をされるだけだ。
(どうして?私、何かしたかしら……)
思い当たるのは、聖剣の前での秘密の話だけ。
でも、あれでむしろ距離は近づいたと思っていたのに。
彼の心の奥深くに触れることを許されたと思っただけに、この仕打ちにはつらいものがあった。
空虚な胸に風が吹き抜けるよう。
(……寂しい)
本当に風が吹いているわけではないのに、オリヴィアの身体がぶるりと震えた。
夜の帳が訪れ始めた夕方の執務室。
オリヴィアが行政書類にサインをしながらちらりと見ると、エルヴィスはこちらに背を向けて黙々と作業をしていた。
誰もいない、二人きりの空間だ。
(勇気を出して聞くなら、今しかないわ)
オリヴィアは羽根ペンを置くと、そっと忍び足でエルヴィスの背中に近づいた。
「……エルヴィス」
「!」
エルヴィスが驚いたように振り返った。
オリヴィアがこっそり近づいていたことに気付いていなかったようだ。
警戒心が高く、いつでも神経を研ぎ澄ませているエルヴィスにしては珍しい。
「どうしましたか」
またか、とオリヴィアは顔をしかめた。
「どうして二人きりなのに敬語なの?」
「……」
エルヴィスが目線を逸らす。
この間まで、公共の場において敬語を遣うエルヴィスは、オリヴィアと二人きりのときだけ、本来の砕けた口調で話していた。
しかし最近、二人しかいないときでも必要以上に敬語を遣うのだ。
「私、貴方に何かした?」
「いえ、何も……」
エルヴィスが目線を逸らした左側にオリヴィアが回り込めば、エルヴィスは右に視線を動かす。
「じゃあ何かあったの?」
「いや、そういうわけでは……」
オリヴィアが今度右側に回れば、エルヴィスは左側に視線をずらす。
オリヴィアは次第に苛立ってきた。
オリヴィアが何かしたわけでもなく、エルヴィスに何かあったわけでもない。
だとしたら何だというのか。
オリヴィアは、剣術で使う素早い足さばきを見せた。
エルヴィスの不意をつき、壁側に追い詰める。
集中していない様子のエルヴィスは、すぐに追いやることができた。
ドン、と右手を壁に付く。
エルヴィスが、呆気にとられていた。
目を見開き、口も僅かに開いている。
「正直に答えて」
「……」
「私を避けてるでしょう」
「いや……」
エルヴィスが、空いている右側に顔を背ける。
そこに、オリヴィアの左手がドン!と壁を付いた。
エルヴィスは瞬きをしている。
「……私のことが嫌いになったの?」
エルヴィスがハッと慌ててオリヴィアを見た。
オリヴィアの目は……潤んでいた。
「違います」
「じゃあ何で……」
「……クソ」
呟くと、エルヴィスは前髪をかき上げた。
「……分かったよ。言うから、とりあえず解放してくれねーか」
「え?」
「……近い」
その言葉に、オリヴィアははたと気がついた。
エルヴィスとオリヴィアの距離は、オリヴィアの二の腕の長さ分しかない。
顔と顔はとても近くて、ちょっと動いたら唇が触れ合いそうな……。
「わーっ!ごめんなさい!」
「別にいーけど」
オリヴィアはすぐに飛び退いて顔を覆う。
恥ずかしくて真っ赤だ。
とても見せられない。
さっきまでエルヴィスも視線を泳がせていたが、今は平然としていた。
「……悪かったよ」
エルヴィスがぽつりと溢した言葉に、オリヴィアはそっと顔を向けた。
エルヴィスは罰が悪そうに目を逸らしていた。
「お前を避けようと思ってたわけじゃねーんだ。ただ……なんか……気恥ずかしくて」
ごにょごにょと言葉を濁すエルヴィス。
彼は元来、自分の気持ちを正直に言うのが得意ではない。
「もしかして……聖剣の前で話をしたから?」
「ああ……。その……あの話は、俺がずっと隠してきた話だったから」
オリヴィアは合点がいった。
エルヴィスの打ち明けてくれたあの話は、心の奥底にずっと仕舞い込んでいた秘密だったから、話すときは勿論、話し終わったあとも、『オリヴィアがこの話を知っている』という事実に緊張していたのだろう。
分かったら急にホッとして、オリヴィアは笑った。
「……そっか。そういうことだったのね」
「……怒んねーの」
「うん、避けられてるとき悲しくはなったけど……怒りはしないわ!今理由も分かったし」
その時、執務室の扉がノックされる。
エルヴィスがドアを開けると、メイドが夕食の準備が整ったことを告げた。
「もうそんな時間だったのね。食事に行きましょう、エルヴィス」
オリヴィアがエルヴィスに声を掛ける。
オリヴィアは女王であるため一人で食事をするが、臣下たちの食事処である食堂が途中にあるため、そこまで一緒に行くのが常だった。
「俺はもうちょっとやることがある。先に行ってろ」
「そう?分かったわ」
オリヴィアが部屋を出ていくと、エルヴィスは壁に寄りかかった。
「……そんな単純な話じゃねーんだよ」
そっと、自分の胸を手で押さえる。
つい先日自覚したオリヴィアへの想い。
だが自分に、この気持ちを伝える資格はない。
そもそもこんな感情を抱くことすら許されない。
「いい機会だから、距離を置こうと思ったんだけどな」
口では傍にいると言っておきながら、情けないことだと自分で思う。
だが、そうしないと、オリヴィアの顔を見るたびにごちゃ混ぜの感情で胸が締め付けられそうだった。
傍にいたい、いてはいけない。
触れたい、触れてはいけない。
守りたい、近づいてはいけない。
それなのに……エルヴィスの気など知らず、オリヴィアは。
「泣くなよな……俺に嫌われたと思ったくらいで」
ぐしゃ、と前髪を乱す。
エルヴィスはもう悟っていた。
オリヴィアには敵わない。
自分にできるのは、するべきは、己を律し続けながら、彼女の傍にいることだ。
ふと窓を見やる。
いつの間にか空は、群青に覆われていた。




