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#6 あの声で呼んで欲しい

 

 風が肌を撫でる。

 その穏やかな感覚で、雫は目を覚ました。真っ白い天井が、彼女の目に飛び込んでくる。知らない天井だ。それに驚いて慌てて体を起こすと、その瞬間、身体中が激痛に悲鳴を上げて、雫は小さく呻いた。その痛みで、芋づる式に今まであったことをすべて思い出す。彼女は自分の傷だらけの体を見下ろして、呟いた。

「……夢じゃない」

「そうだよ」

 独り言には返ってくるはずのない返事を聞いて、雫はびくっとした。振り向くと、部屋の戸口に錦が立っていた。彼はつかつかと部屋の中に入ってきて、雫の眠るベッドの横にあった椅子に腰を下ろす。

「わかってると思うけど、ここ病院な。具合はどうだい。雫ちゃん、一日中寝てたんだよ」

「セツは?」

「うん、無視か」

 錦は真顔で頭をかく。本当なら怒ってもいいのけど、彼は雫の質問に答えてくれた。

「今、管理所にいる。ただ、ちょいとまずい状況だ。彼、今日北に送還されることになってる」

「そんなっ……」

「ああ、大丈夫だいじょーぶ。ここまで来てそんなことさせないから。ちょっと一旦落ち着きな」

 錦は、穏やかに笑って雫の頭を撫でた。困惑している様子の彼女に、彼はひとつずつ説明していく。

「片岸たちが助けに行くの遅れたこと、責めないでやってくれな。一応君に発信機つけたんだけど、途中で気づかれて壊されちまった」

「は……え、そんなもの、いつ……」

「昨日の朝だな。ちなみに俺がつけました」

「昨日……の、朝……」

 眉間にしわを寄せて、雫は昨日の記憶を手繰り寄せる。そして、はっとした。

『なるべく一人にならないように』

 そう言ってあの日の朝、錦は雫の肩にぽんと手を置いた。あのときに何かされたのかもしれない。

「に、錦さんて、何者なんですか……?片岸保護官のことも知ってるみたいだし、何で私に発信機なんか……」

「俺、片岸とはマブダチなんだよ。その関係で、君らの監視を頼まれてた。発信機も片岸に言われたから付けたんだ」

 目から鱗の情報だった。雫は錦と出会ってから結構経つが、そんなの初耳だ。彼はにこりと微笑んだ。雫は出会った頃から思っていたが、この人は結構喰えないところがある。

「そんじゃ、あとは大人に任せて天羽さんはもう一眠りしてな。起きたら全部、丸く収まってるから」

 椅子から立ち上がろうとする錦のシャツを、雫はがっ、と掴む。思いがけないほど強い力に、錦は本気で仰向けに倒れそうになった。苦笑いしながら、彼は雫を振り向く。

「な、なにかな雫ちゃん……俺、今ので三年くらい寿命縮んだ気がするんだけど……」

「私も連れていってください」

 今度は錦も、能天気な返し方はしなかった。彼の表情は、見る間に険しくなる。

「……言うと思った。雫ちゃん見かけによらず頑固だからな」

「こんなときに私だけ休むなんてできません。私も行きます」

「だめ」

 即答だった。

 雫と錦は、無言のまましばらく睨み合う。やがて彼が、ため息をつきながら口を開いた。

「君の体は、君が思っているよりぼろぼろだ。無茶しないで、大人しく休んでな」

「ここで無茶しなかったら、私は一生後悔します」

 雫は引かなかった。

 錦は、彼女の手の中に握られた自分のシャツを一瞥する。簡単に離してくれそうには見えない。はあ、とため息をついて、彼は苦笑した。

「そんなまっすぐな目で『一生』とか言えるとこがさあ……若いよなぁ……」

 しみじみと呟いて、彼はがしがしと頭をかく。何とはなしに外を見やると、空は嘘みたいに青かった。


 *


 無許可での狼化。明らかな敵意による、傷害行為。被害者は一般人と一等人外保護官。

 こりゃ逃げ場がないな、とセツはため息をつきながら首の後ろをかいた。

 暗い牢屋に、手枷付きで閉じ込められた彼は、ゆっくりと目を閉じて丸くなる。こうしていると、どうしようもない不安を抑えつけることができる気がした。

 蹲ったちょうどそのとき、彼の耳は遠くに聞こえる足音を拾った。顔を上げて、その足音の主が現れるのを待つ。

「出ろ」

 短く命じたのは、馴染みのない保護官だった。

 特に抵抗をすることもなく、セツは大人しく彼に従う。牢の外に出て廊下を渡り、外に出ると、日の光が目を灼いた。反射的に目を細めた向こうに、一番見たくない奴がいて、セツは途端に苦い顔になった。

 にたにたと笑いながら、その男はセツに近づいてきた。その笑みが、鼻について仕方がない。

「護送の責任者を務める、須藤だ。よろしく、セツ」

 その汚い声で俺の名前を呼ぶな。

 よっぽどそう言って、唾を吐きかけてやろうかと思った。だけど、そんなことをしても既になんの意味もないということも、知っていた。

 ああ。

 これで、終わりか。

 単純に、率直に、そう感じた。

 故郷の北国でついえるのなら、これといって心残りもない。不満も。

 ーーいや、違う。心残りなら一つだけある。

 呼んで欲しい。あの声で。

 最後に、もう一度。

 青い空を見上げて、彼はそっと目を閉じた。

「セツ!」

 だけど、聞こえるはずのないその声に、彼はすぐに再び目を開く。

 嘘。いや、だけど、間違えるはずがない。

 俺が彼女の声を、間違えるはずがないんだ。

 セツが振り向くと、夢みたいな景色があった。セツが一番見たいと思っていた人が、そこにいた。彼女は昨日のあの痛々しい姿のままで、松葉杖をついてやって来た。着ているのはは病人服で、髪もところどころほつれている。慌ててやって来たのだと、一目でわかる姿だった。

 彼女はよろめきながら、体当たりをするようにしてセツのところへやって来た。その頼りない体を抱きとめて、彼は一瞬だけ、彼女を抱きしめる。それから、すぐに離した。

「……何でこんなとこにいるの雫。病院に戻んな。怪我、ひどいんだから」

 雫はそう言われると、怒った顔をして眉を吊り上げた。思っていたのと違う反応にセツが面食らった隙に、彼女はぴしゃりとセツの両頬を手で挟む。そして、唖然とする彼を一睨みして叱りつけた。

「なに、勝手に諦めてるの!」

「な……」

「あなた一人で寒いところなんて、絶対に行かせない」

 まっすぐに目を合わされたまま言い放たれて、セツは息を呑んだ。

 そこまで知っていたなんて思わなかった。

「……細川の奴、余計なことしか喋んないな……」

 セツは忌々しそうに、今はここにいない自分のお目付役に恨み言を言った。ざまあ見ろ、と笑われそうだな、とぼんやり思った。

 彼女はセツに支えられたまま、すぐそばにいる須藤に向き直る。

「……須藤保護官、これはどういうことですか」

 それは、セツが聞いたことがないくらいの冷たい声だった。

 須藤は無言で雫を睥睨する。その目の圧力に彼女が怯んだのが、セツにはわかった。

 当然の反応だ。彼女は昨日、須藤に相当手酷くやられたはず。痛みによる恐怖は長く続く。ましてや昨日の今日じゃ、普通の女の子には荷が重い。

 そう考えて、セツは須藤の視線から雫を庇おうとした。だけど彼女は、それを拒むようにぎゅ、とセツの服の生地を握り締める。そして、おもむろに口を開いた。

「管理所が管理する亜人の所属移動には、その時点でバディを組んでいる場合、パートナーの署名を記した書類が必要となるはずです。私は署名した覚えはありません」

「……それは」

「子どもだからって」

 雫は、きっ、と須藤を睨み据えた。

「知らないと思いましたか?」

 声は、震えていない。セツの服を掴む手は、かたかたと震えているのに。

 それを見て、彼は黙って彼女の手を握った。ぴく、と手の中で彼女の手が震える。それから、ぎゅう、と握り返される気配が伝わってきた。

「……ならば、早急に署名をして貰いましょうか」

「できません。私は彼に対するこの処遇には納得していませんから」

「そこの銀狼が人間に危害を加えたのは明白な事実だ。私が生ける証拠だよ」

 須藤は、わざとらしく自分の首元を指差した。その首には、包帯がぐるぐると巻かれている。

「……そこは否定しません。その傷に関しては、私も証人となります」

 須藤はにやりと笑って、これを機に話を自分の都合のいい方へ持って行こうとした。雫はそれを予期して、遮るように口を開く。

「ですが!」

 びり、と空気が震えるほどの、大きな声だった。

「あの場にいた全員に怪我を負わせたのがセツで、しかもそれが何の理由もなくなされたことだ、というのは、虚偽の報告です。私はそんなのは認められません」

 彼女と須藤の視線が、正面からぶつかる。どちらも逸らさなかったし、引き下がる姿勢は見せなかった。

「……いい加減にしてもらおうか」

 須藤の声が、ワントーン下がる。セツも雫も、表情を険しくした。

「満足な証拠も持ってこないで、駄々を捏ねられては困る」

 須藤は一歩二人に近づいて、にったりと笑った。雫の肩がびくりと跳ねる。セツは射殺しそうな目で威嚇した。

「……子ども二人が何を言ったって状況は変わらない。話を聞く人間なんていない」

 二人だけに聞こえるように、須藤は声を落として言った。雫は額に冷や汗を浮かべながら、周囲を見やる。護送を担当する保護官の他にも、通行人が集まり始めていた。往来で怒鳴り合っていれば、そうもなるはずだ。

「っ……それでも、署名はしません」

 なおも言い募る雫を、須藤は冷たい目で見下ろした。

「ここで署名をしなければ、不利な立場になるのは君だ。議会で正式に決定された事項に満足な証拠もないまま歯向かうなど……最悪、資格を剥奪されるぞ」

「……!」

 雫はそれ以上、何も言えなかった。須藤の言うことは全て事実だ。これ以上署名を渋っても、それこそ”駄々を捏ねている”で済まされてしまう。

「もういいよ雫」

 そのとき、セツがぱっ、と雫の手を離した。彼女は、不安そうにセツを見上げる。彼は儚く笑って、雫の頭に手を置いて撫でた。彼女の目が、こぼれそうに見開かれる。

「ありがとう。最後のバディが雫で良かった」

「……なんでそんなこと言うの」

 セツは一瞬躊躇った末に、やるせなさそうに笑って言った。

「これが、君にかけられる最後の言葉だから」

 彼女はセツのその顔を見て、自分が傷ついたような表情で目を見開く。それから、唇を引き結んで、セツを睨んだ。

「最後になんてしない。私が、そんなことさせない」

 彼女はきっぱりとそう言った。

 まさかそんな風に返されると思っていなかったセツは、言葉を失う。

「私だって、嬉しかった。私の正体がなんだろうと、私は私だって言ってくれたこと。だからあなたを助けたい」

唖然として、彼は目の前の少女を見つめた。こんな目をする女の子だったなんて、知らなかった。

「それに、約束したでしょう」

もっと、ずっと。

「きれいなもの、見せてあげるって」

弱い子だと思ってた。

それなのに、今目の前にいる少女からは、そんな印象は微塵も感じなかった。

雫は再び須藤に向き直り、彼を睨んで言う。

「須藤保護官、貴官と私とでは、大きな認識の差があるようです。あなたはセツが、あの場にいた全員に危害を加えたという報告を上げたと聞きました」

「……スケジュールが詰まっているんだ。こんな下らないことに付き合っていられるか」

 須藤は苛立ちを隠そうともせずにそう言って、セツに手を伸ばした。

「小娘一人納得させることもできずに逃げるんですか」

 ぴた、と手袋に包まれたその手が、途中で止まる。

「……何だと?」

 セツは、雫の隣でひやひやしていた。何やってんの、と言いたいところだったが、そんな雰囲気でもない。彼女が何を考えているのか、セツにはわからなかった。一体これ以上、何をするのか。

 怖いくせに。

 まだ震えている彼女の手を握り、セツは唇を噛んだ。

「私を納得させてください、須藤保護官。昨日、あの場で、セツが何をしたのか。私に話してください」

 ゆっくりと噛んで含めるように、彼女は言った。須藤は面倒くさそうに深いため息をつく。

「報告書に書いた通りだ。そこの人狼が暴走し、私たちは奴に襲われた」

「何故あんな街はずれの廃墟にいたのですか?」

「亜人がそこで暴れていると聞いたから駆けつけた。それだけだ」

「暴れていたというのは、どんな風に?そのときの様子を詳しく教えてください」

 舌打ちしたいのを全力で我慢しているような顔で、須藤は自分を落ち着かせようとするように息をつく。

「狼の姿に転身して手当たり次第にものを壊していた。これは明らかな法律違反だ。亜人が許可なく人型を崩すことは禁止されている」

「つまり、セツは最初から狼の姿で暴れていたと」

「ああそうだ!もういいだろう!」

「ええ、もういいです。聞きたいことは聞けました」

 勝ち誇ったような彼女の声に、須藤は初めて、苛立ち以外の感情をその目に映した。彼は間違いなく、戸惑っていた。それはセツも同じだ。雫が何を言いたいのか、二人ともわからないでいた。そんな二人にはお構いなしに、彼女はにこりと笑って口を開く。

「須藤保護官、あなたは言いました。あの場の全員が、セツによって危害を加えられたと。……私も含めて」

 そう。雫の怪我も、セツによるものということにされている。そうしなければならないから。まさか保護官が人を雇ってまで一般人を暴行したなんて言えないだろう。かと言って、雫がその事実を訴えたところですぐに握りつぶされるに違いない。

 だから。

「狼の姿で、銃が撃てますか?」

 加害者自身に、証言してもらう。

 須藤は、大きく目を見開いて絶句した。

「私だけは、他の方のように咬傷や裂傷がありません。あるのは打撲、弾痕、軽い擦り傷だけ。それは何故か。私に危害を加えたのは、セツではないからです」

「……人間の姿でやったんだろう」

「いいえ、それはありません。セツは最初から狼の姿だったと、あなたが言ったんじゃないですか」

 須藤が言葉に詰まったその隙を逃さず、雫は一気に畳み掛けた。

「状況から考えれば、私に暴行を加えたのは貴官、及びあの場にいた三人の男性のいずれかということになります。そうとすれば、セツの行動にも筋が通る。彼は私のバディです。そんな状況にあれば、私を守ろうとするでしょう。つまり彼の行動は」

 きっ、と鋭い目で青ざめる男を睨めつけ、少女は高らかに宣言した。

「正当防衛です」

 須藤は悔しげに歯噛みし、雫の隣にいるセツはぽかんとしていた。

 ざあ、と風が吹いて、彼女の星色の髪をなびかせる。その横顔は、とても勇ましい。セツが思わず見とれるほどに。

 彼女は、小さく息をついてから続けてこう言った。

「……須藤保護官。あの場にいたのは、貴官以外は全員一般人です。銃の所持が認められているのはあなただけで……」

「黙れ!俺じゃない、撃ったのはあいつらだ!」

 掠れてひっくり返った声が、無様に叫ぶ。このときになると、野次馬の輪もざわつき始めていた。そのざわめきの間でもよく通る男の声が響く。

「往生際の悪い男だな」

 セツと雫が二人して振り返ると、ちょうどそのとき野次馬をかき分けて片岸と細川が現れた。彼らは、三人の男たちを引きずっている。それは、昨日あの場にいた三人だった。

「あ、あんた、ふざけんなよ!撃ったのはあんただろうが!」

「そこの女を痛めつけるよう命令しただろう!」

 男たちは、口々にそう叫ぶ。須藤の顔がますます青くなった。片岸はそれを嘲笑って、こう続ける。

「抜かったな須藤。今までは亜人嫌いを選り抜いていたくせに、今回は金で動く奴らを選んじまった。こいつらは今までの奴らのように、お前の罪を被ってはくれない。あっさり口を割ったよ。焦ったのかなんだか知らんが、致命的なミスだったな」

「……片岸……!」

 恨めし気な声で須藤が片岸の名を呼ぶ間に、細川がつらつらと説明を始めた。

「須藤保護官。この三人は、貴官に買収されていたとの自白をしました。加えて、天羽雫さんの怪我はすべて自分たち及び貴官によるものだという証言が得られました」

 もう、逃げ場はなかった。

 須藤は食いしばった歯の隙間から呻き、血走った目でぎろりと雫を見る。その目に足が竦んで動けなくなった彼女の顔めがけて、彼は思いきり拳を振りかぶった。

 ばしんっ、という音が、通りに高く響く。

 セツが雫の前に出て、須藤の拳を受け止めていた。

「……その首」

 怒りを宿して色を深くした青い眼光が、貫く。

「今度こそ噛み千切ってやろうか?」

 ぎり、と歯ぎしりしながらすごい形相でセツを睨みつける須藤を、他の保護官や片岸たちが取り押さえて引き離す。雫とセツの二人は、人々のざわめきの中に取り残された。注目がまばらになった途端に、彼女はぺたんとその場に座り込んだ。セツは慌てて、彼女を支える。雫はしゃくりあげながら、セツに縋りついた。

「……セツ、無事……?」

「いや、俺は平気だけど……」

「良かった、ほんとに……良かった。夢じゃないよね……?」

 雫の肩に顔をうずめながら、彼は一瞬考え込む。

「どうだろ……もしかしたら、夢なのかもね」

 だってこんなの、信じられなかった。

 この世界に、こんなにぼろぼろになって、必死になって、自分を守ろうとしてくれている人がいる。それが彼には、とても信じられなかった。今まで生きてきた現実とは、かけ離れすぎていて。

「ありがとう、雫。君、すごいね」

 囁くように言うと、彼女は顔を上げて、泣きながら笑った。

「……違うよ、私だけの力じゃない。私が一番須藤を油断させやすいから、前に出ただけ。作戦を考えたのは片岸さんと細川さんだし、動けない私をここまで車で運んでくれたのは錦さんだし……」

 こてん、とセツの肩に頭をもたせかけて、雫は儚く微笑んだ。まばゆい光に目を細めるようにして。

「ねえセツ、いるよ。あなたが気づいていないだけで。あなたを信じてくれる人が。あなたを守ろうとしてくれる人が。だから……」

 その続きは、聞けなかった。彼女は穏やかな眠りについてしまったから。昨日のダメージもまだ回復していないだろうし、今ので相当精神力を削られただろう。無理もない。続きが聞けなくたって彼には充分だった。

 セツはひとつ息を吐き出して、無言で彼女を抱きしめた。じわりと視界が滲む。

「あら、雫ちゃん寝ちまったか」

 だけど、その声で驚いたせいで涙は引っ込んだ。いつの間にか、後ろに錦が立っていた。

「ま、無理もないな。セツ君、ウェアウルフだし多分俺より力あるよな?彼女、車まで運んでやって」

「あ、ああ、うん」

「しかし、なんつーか」

 ちょっと言い淀んでから、錦は真顔でこう言った。

「雫ちゃんって怒らすと怖いタイプだな」

 セツはとっさに、何も言うことができなかった。ここは彼女をフォローするべきなのだろうけど、一番近くで見ていただけに、否定はできない。

「気迫がすごかった、うん」

「……でも」

「ん?」

 眠る彼女の顔を見下ろして、セツは彼にしては歯切れの悪い口調で言った。

「俺のために怒ってくれてたのかって思うと……怖いだけじゃなくて、なんだろ、嬉しいというか、なんか変な気分……」

 錦はそれを聞いても、何も言わなかった。というかすぐには言えなかった。しばらくしてから、彼は額を押さえて呻くように言う。

「高校生の甘ずっぱさは、おじさんにはちょっときついかなぁ……」

「は?何言ってんの?」

「いやいや、こっちの話さ」

 そんなこんなで、事態はひとまず落ち着いたのだった。


































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