#5 唯一にして最大の
*暴力描写・流血表現あり。ご注意ください。
雫は、車に乗せられて人気のない工場地帯まで連れてこられた。どつかれるようにして、彼女は車から降ろされる。銃口は、背中に突き付けられたままだった。
廃墟と化した工場の跡地に入り、階段を上って、一番上の階まで、背中に銃口を押し当てられながら、雫は自分の足で歩いた。
灰色の床にはコンクリートやガラスの破片が散らばり、割れた窓から差し込む光が宙に舞う埃をきらめかせている。
容赦なく背中を蹴り飛ばされて、雫はずさっ、と床に倒れこんだ。その拍子に膝を擦りむいたらしい。肩も痛かった。彼女は痛みをこらえながら起き上がり、自分を蹴った男を睨めつける。
「……あなたが、須藤?」
ぴくりと、雫に銃を向ける男の眉が跳ね上がった。彼はつかつかと歩いてきて、雫の顔めがけて横殴りに蹴りを入れてきた。咄嗟にこれをガードした雫の腕が、みし、と軋む。その痛みに目が眩んだ隙に、無防備な腹に次の蹴りが入った。
「かはっ……」
咳き込んで蹲る雫を冷たく見下ろし、男は低い声で言った。
「小娘が、生意気な口をきくな。その目も気に入らない」
「……っ」
間違いない、と雫は確信した。この男が須藤だ。セツを追い詰めた張本人。
それから彼女は、痛む腹を押さえながら状況を確認する。敵は須藤と、他に男が三人いる。多対一での闘い方も仕込まれていたけれど、雫はそもそも体術がそんなに得意じゃない。もっと練習しておけば良かったと、彼女はこのときばかりは後悔した。さらに悪いことには、向こうは銃を持っている。今確認できているのは須藤だけだが、他の奴も持っている可能性がある。銃弾を避けるための障害物も、ここにはない。
下手に動けない状態だった。
考えている間に、ひゅっ、と風を切る音が耳のそばで聞こえて、雫ははっとした。だがそのときにはもう遅かった。
がつっ、ともう一度腹に衝撃が走り、体が吹っ飛ぶ。どさっ、と床に叩きつけられるとともに、蹴られた腹部の痛みが遅れてやってきた。
痛い。
怖い。息がうまくできない。
セツもこんな風にされていたのだろうか。こんな風に一方的に痛めつけられて。
一体、どのくらいの間?
彼の身体についた傷痕を思い出して、雫はきつく目をつむった。
考えたくもない。
かつ、かつ、という靴音が、がらんどうの廃墟にはよく響いた。だんだんと近づいてくるその音に、体が竦む。また蹴られると思って、体は反射的に防御の姿勢をとった。
だけど、覚悟していた痛みは襲ってこなかった。
「やっぱり女は軽い。蹴り応えがない」
ひゅっ、と雫は引き攣れた息を呑む。
「セツ。あいつは面白かった。蹴ったり、殴ったり、切ったり、ああ、傷口に砂をかけてやったり、火で炙ったりもした。のた打ち回って苦しむ姿はなかなか見ものだったよ」
気味が悪いくらい淡々とした口調で、須藤はセツにしたことを並べ立てていった。
「人狼だって口輪と拘束具をつければ立派なサンドバックになる。出来損ないの奴らには、過ぎるほどの大層な役目だ」
雫はこれまで、須藤の意図が全くわからなかった。
どうして雫を拉致するのか。何故セツではなく、雫を痛めつけるのか。
だけど今はわかる。
この男は、私を逆上させたいのだ。
彼女はそう確信した。
「立て」
端的な命令を下されて、雫は緩慢な動作で立ち上がる。額に銃口が突き付けられて、彼女はゆっくりと手を上げた。須藤は、つまらなそうに失笑する。
「何だ。怒るかと思ったんだが、そうでもない」
所詮その程度の情か、と言われても、雫の表情は一ミリも変わらず、静かなままだった。
彼女の頭は冷静だった。冷静に考えていた。
ーーーー銃を持った敵への、対処法。
頭の中で雫はこれまで習ったことを反芻し、考えた。
どうしたらこの男に、耐え難い苦痛を与えてやれるかを。
彼女の動きは素早かった。少しの力で銃の照準を自分の頭から逸らし、銃身を掴んでぐいっ、と捻る。呆気なく銃は須藤の手を離れた。雫は即座に敵から距離を取って、引き金を引く。
ぱんっ、と音がした。
「……ほう。面白い」
弾は、当たらなかった。雫は最初から、当てるつもりなんてなかった。
「透和では銃の扱いは教えないはずだ。とっさにトリガーを引けたのは賞賛に値する」
須藤は淡々とした声でそう言い、にやりと笑った。
「空撃ちして弾をなくすつもりか?だが、一発でも相当肩に負担が来たはずだ」
「……っ」
後ずさって須藤との距離を取りながら、雫は唇を噛む。
奴の言う通りだった。雫は銃の奪い方しか教わっていない。肩への負担も思った以上だった。弾がなくなるまで撃ってやるつもりだったのに、無理そうだ。
授業で教わったことは、所詮その程度だった。バディを組んだ人間は、必然的に人外といる時間が増える。相方が暴走したときに身を守るために護身術が必須としているが、あくまでそんな事態になるのは「万が一」。バディの成立は協会による厳重な審査の上でなされるため、そんなの滅多にないことだった。
つまり雫の武術は形式的なもので、実戦的とは決して言えないのだ。
「おいお前ら、そろそろ仕事をしろ。やれ」
顎をしゃくって、須藤は傍観していた男たちに命令する。
「……いや、しかし」
男たちは雫の持つ銃を見て、渋る様子を見せた。彼女はそれで気がついた。
彼らは銃を持っていない。雫が銃を向けても獲物を出さないところを見ると、彼らは全員丸腰のようだ。それがわかっただけでも肩が軽くなったが、雫に勝機がないことに変わりはなかった。銃を奪えたのは須藤が油断していたからで、実力じゃなく運が招いた結果だ。
「仕事をしろと言っているんだ。十秒以内に動かなければ報酬は払わない」
須藤に凄まれて、男たちはじりじりと雫との距離を詰め始めた。それから一瞬だけ目配せをし、三人いっぺんに突っ込んでくる。
雫は息を呑んで、思わず下がってしまった。
三人で突っ込んで来られたら、少なからず混乱するし、狼狽える。何より、どこを狙って撃てばいいのかわからない。恐らく彼らはそれを狙ったのだろう。
この人たちは闘い慣れている。
そのことに気づいたときには、雫は取り押さえられて床に倒れていた。
銃はかしゃん、と乾いた音を立てて床に転がる。それでも彼女は、須藤から目を逸らさず、睨みつけていた。
その視線を向けられた当人は、面白そうに笑いながら彼女の方へ近づいていく。
「ああ、面白い目をするようになったな。それだ。そういう目をしてくれないと」
ぱきん、と須藤の靴底がガラスの破片を踏む。
「いじめがいがない」
気味の悪い笑い方に、雫の中から確かに恐怖が込み上げる。それと同時に、怒りも。
「セツもよくそういう目をした。その目を見るたびに私は思ったよ」
だんっ、と須藤に手を踏み躙られて、雫は悲鳴を上げた。ぐりぐりと靴底が食い込む。
「もっと痛めつけたい。踏み躙りたい。悲鳴を上げさせたい、と」
笑いながら言う声を聞いて、雫はぎり、と奥歯を噛んだ。
この人は。
ただ、愉しんでいるだけだ。具体的な恨みや憎しみがあるわけじゃない。セツだけじゃなくて亜人全部が嫌いで、彼らを虐げることを愉しんでいる。
そういう人たちがいることは雫だって知っていた。この世界の、汚い部分。亜人を受け入れようとせず、自分とは違うものと決めつけ、迫害する。
セツは。
ずっと悪意に、晒され続けていた。こんな男に、不当な痛みと屈辱を植え付けられていた。
それを思うとどうしようもなく悔しくて、彼女の視界は怒りの涙でじわりと滲んだ。
「適当に痛めつけろ。殺さなければ何をしてもいい」
須藤は低い声で命じて、雫の手から足をどけた。
それからは、ただ痛みが彼女の上にのしかかり続けた。飛んでくる蹴りから身を守るために体を固くして蹲ることしか、彼女にはできなかった。許されていなかった。上手く息ができなくて咳き込んだところに、また蹴りがくる。頭を、顔を踏みつけられる。
地獄みたいだった。
「おい、寝てんじゃねえよ」
乱暴に胸ぐらを掴まれて、がっ、と頭を殴られる。その勢いで、雫の体は力なく地面に倒れ伏した。一瞬気を失っていたらしい。彼女の体はぼろぼろだった。痛くないところはないし、関節は軋む。
「なんだ、もうへばったか」
遠くに、須藤の声が聞こえる。視界が霞んで、雫はもうまともに景色が見えなかった。
「つまらないな。あの銀狼を飼い慣らすほどの女だから、もっと期待していたのに」
それでも、その男の声だけはよく聞こえた。雫は蹲ったまま、唇を引き結ぶ。
飼い主、と。
最初に会ったとき、セツも言っていた。
でも。
「……飼ってなんか、いま、せん」
上手く動かない唇で、雫は途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「あれは犬畜生だ。飼うという言葉が相応しい」
須藤の声は、なんの躊躇いもなかった。それが当然だと、信じて疑わない。
足に力を込めて、雫はよろめきながらも立ち上がった。須藤と彼女との間には、まだだいぶ距離がある。遠くに霞むその姿を睨みつけ、雫は掠れた声で言う。
「……黙れ」
悔しい。怖い。腹立たしい。痛い。怖い。怖い。怖い。
本当は、怖くてたまらない。
色んな感情が雫の中で渦巻く。怒りが恐怖で呑まれそうになっていた。
だから、叫んだ。
「あなたがセツを貶める資格はない!力で他人を従わせて、誰かに罪を擦りつけるようなあなたより、セツの方がよっぽど真っ当な人だわ!」
ねえセツ、諦めないで。
どうか、空を映した色のその瞳がこの世界から逸らされてしまう前に。
私が、拾い上げてあげられたらいいのに。
ぱんっ
乾いた音と一緒に、焼けるようなその痛みはやってきた。硝煙のにおいが鼻をつく。がくん、と雫はその場に崩れ落ちて、押し潰れた悲鳴を上げた。
痛いというよりも、熱かった。
須藤の銃弾は、雫の右太ももを撃ち抜いていた。スカートにじわりと血が滲む。
「言いたいことはそれだけか?」
かつん、という冷たい靴音が雫の背筋をひやりと撫ぜる。
まだ。
まだだめだ。こいつに一発の蹴りも、拳も、入れられていない。このまま負けるなんて、屈するなんて嫌。
かつん、という音。
あの男がもうすぐそこにいる。
足。
動いて。
「ああああぁっ!」
大声で叫んで、雫は立ち上がった。というより、足の痛みで力が入らなかったからか、須藤の足元に飛び込むようなかたちになった。
それが逆に、功を奏す。
雫はもう動けないと踏んでいた須藤は、不意をつかれて呆気なく膝をすくわれた。他の男たちも、予想外のことに動けないでいた。
どさっ、と大柄な体が床に仰向けに倒れ込む。雫はその上に乗り上げて、床に倒れたときに手にしたガラスの破片を振りかぶる。
ぱたたっ、と血が飛んだ。
ガラスの先は、須藤の目尻を切り裂いていた。
男の口元が、にやりと歪んだ、一瞬。
一瞬で、須藤は逆に雫を床に叩きつけ、自分がその上に乗り上げた。何が起こったのかわからないでいる雫の手から、するりとガラスの破片が床に落ちる。
彼女はそのまま頭を掴まれて、がんっ、とコンクリートの柱に叩きつけられた。すぐに須藤の手が、ぎり、と雫の細い首に食い込む。彼女は弱々しく喘ぎながら、反射的に男の腕を掴んだ。だけど、振り払えるほどの力は残っていなかった。
「く……っはは、面白い。いいぞ、もっと抵抗しろ」
視界が霞む。息ができない。頭が痛い。
断片的な言葉が脳内を飛び交う。向けられた殺気に、体は臆してもう動かなかった。
「ほら、もっとやれよ。でないと死ぬぞ」
狂気を含んだ笑い声が、耳にこびりつく。足先がコンクリートの床を引っ掻く。苦しい。痛い。
雫のまなじりから涙がこぼれたそのとき、かすかな音が聞こえた。
かと思うと、息苦しさがふっと消える。須藤の手が首から離れたのだと、雫は一瞬遅れて理解した。どさっ、と床に崩れ落ちて、彼女は激しく咳き込む。
酸素が、急速に杯に流れ込んでくる。
そのとき、咳き込む彼女の耳に、獣の唸り声が聞こえた。
はっとして、雫は疲れきった体に鞭打って顔を上げる。そして、目を見開いた。
部屋の入り口に、狼がいた。銀色の毛並みの、うつくしい狼。
空の色を映した瞳が、一瞬だけ雫を見る。
だけどその一瞬だけで、雫には充分だった。
「……セツ……?」
名前を呼ぶと、彼の耳がぴくん、と動いた。
その途端、かたかたと体が震え始める。ぼたぼたと涙が溢れ出す。嗚咽を堪えて、雫は蹲った。
安心した途端、足元から恐怖が這い上がってきた。
来てくれた。もう、一人じゃない。
だけど、そう思って安心したのは一瞬だけだった。
野太い悲鳴を耳にして、雫は肩を跳ね上げる。そして、目の前に広がる光景に絶句した。
銀の狼は、三人の男たちのうちの一人に掴みかかっていた。
彼の青い瞳は、とてつもない怒りに染まっていた。
それを見た瞬間、雫は須藤の狙いを理解した。あの男の、行動の意味を。
今までとは別の恐怖を感じて、雫はさあっと青ざめた。
『須藤は』
そう。自分で言っていたじゃないか。
『セツが加害者となる状況を作り上げようとしている、ということですね?』
ごきんっ、という音とともに男の肩が噛み砕かれた。絶叫が、コンクリートの壁に反響する。その光景を目の当たりにした雫も、手で口を押さえていないと悲鳴を上げてしまいそうだった。
狼は、踊るように”狩り”をしていた。三人の男たちはそれぞれ、肩を噛み砕かれ、爪で背中を、胸を引き裂かれて、苦痛に呻きながら床に転がった。
雫は何もできずに、壁際で震えながらそれを見ていた。
怖い。
彼女の恐怖は、いつのまにかセツに向けられていた。
怖い。恐ろしい。だってあんなの、人間とはかけ離れている。
そう、まるで。
「ば、化け物……」
誰かが喘ぎながら言うのを聞いて、雫はびくりと肩を震わせた。
狼は最後に、須藤に目をつけた。ぐるるる、と唸りながら彼が姿勢を低くするのを見て、雫は思わず目を瞑って下を向く。
『やっぱり君も、俺のこと怖がるんだね』
ぽた、と。
雫の頬に伝った涙が床に落ちた。
彼女は目を見開いて、震える唇を引き結ぶ。
『君のやるべきことは』
そうだ。
『セツの手を離さないでいることだよ』
決めたじゃないか。
離さないって。臆さないって。
彼と、向き合おうって。
それが、無力な私にできる、唯一にして最大のことだから。
私は馬鹿だ、と彼女ははっきりそう思った。
だって彼は、私を助けに来てくれたんだ。私のために怒ってくれている。その彼を、どうして一瞬でも化け物だと思ったの。どうして一瞬でも怯えたの。
彼が理由もなく誰かを傷つけるわけないって、知っていたくせに。
震える手で冷たい床に触れて、雫はずるりと体を引きずって前に進んだ。
動かない足が恨めしい。
「……セツ……」
動けるなら、今すぐ彼のそばに走って抱きしめるのに。
「セツっ!」
叫んでも、彼には届かない。
がりっ、とその鋭い爪が須藤の肩口を裂き、肉を抉る。そんな状況だというのに、須藤は愉快そうに高笑いしていた。
ずり、と雫は必死で床を這う。
嫌だ。
このまま遠くに行ってしまうなんて。
「セツ、だめ、やめて!私の声を聞いてっ!」
雫の絶叫は、獲物を狩ることに夢中になっている狼には届かない。彼女はぎり、と奥歯を噛んで、よろめきながら立ち上がった。右足の傷は比較的関節に近い場所だったからか、ひどく痛んだし、右足はほとんど動かなかった。左足だけで、半分這うようにして、彼女はセツの元に向かう。
たった五メートルほどの距離が、こんなに遠く感じられたことはない。
目の前でセツが須藤を傷つけるのを見ながら、彼の怒りの唸り声を聞きながら、雫は必死で動いた。今の姿がどんなに不恰好に見えようが、そんなの彼女には関係なかった。
「セツ!」
彼の名前を叫んで、彼女は精一杯の力で地を蹴った。
須藤の上に乗り上げたセツに突進するようなかたちで、雫は狼の胴体に突っ込んだ。どさっ、と雫と狼は勢いのまま床に倒れ伏す。
その温かな体を必死でかき抱いて、雫は、彼に向かって叫んだ。
「セツ、やめて!」
まだ須藤に掴みかかろうとして暴れる彼を、雫は力の限りに抱きしめる。
「落ち着いて、お願い!話を聞いて!」
ぐるるる、と低い唸り声が雫の耳を掠める。
「ねえセツ、お願いだから……こんなことであなたが北行きになるなんて……死ぬなんて嫌だ……」
声が、震える。
あたたかい涙が狼の鼻先に落ちた。
行かないで。ここにいて。
一心に願いながら、少女は狼をきつく抱きしめた。
そのとき、ぺろりと雫の頬を生温かく湿った舌が舐めた。目を見開いて、雫は狼を見る。
軽く彼女の涙を舐めとって、狼は雫を見た。
その青い瞳で、しっかりと。
「……セ、ツ?」
おぼつかなげに彼女が名前を呼ぶと、それに答えるように、狼はすり、と雫の頬に鼻先をすり寄せた。
慌ただしく鉄の階段を上がってくる音がする。ほどなくして、片岸と細川が息をきらせながら現れた。彼らが大声で何かを叫んでいるのが聞こえたけれど、雫はもうそこで限界だった。
彼女は床に倒れたまま目を閉じて、意識を手放した。
*念のため注意書きをさせていただきます。
作中で女性のお腹を蹴る描写がありますが、現実では絶対にやらないでください。下手したら不妊症になる可能性もあります。というか女子じゃなくても蹴ってはだめです。内臓にダイレクトに刺激が伝わって痛いです。
これはあくまで虚構の世界の話ですので、そこのところはご了承ください。




