#7 君は、潤む世界を消して
一週間入院した末、雫は退院できることになった。
その退院当日、片岸と細川が連れ立って雫のもとにやってきた。ぱらぱらと小雨が降る、午後のことだった。
「まず最初に謝罪する。申し訳ない」
「……はい?」
二人揃って神妙な顔つきで頭を下げられて、雫はとても困惑した。
「えっと、何がでしょう」
「今回、セツとバディを組ませた人間が狙われることはある程度予測がついていた。それでこちらでも、監視兼護衛役を付けていたんだが、呆気なく須藤にやられた。挙句、助けに行くのが遅れて、貴殿に怪我を負わせる結果となってしまった」
片岸の声が、静かな病室に波紋を落とす。その言い方はどこか堅苦しくて、格式張っている。
衣類などの荷物を纏めていた雫は、何度か瞬きをした。それから、ふるふると首を振った。
「私はお二人を責めるつもりはありません。怪我もたいしたことありませんし……」
「それは結果論に過ぎない」
きっぱりと片岸に言われて、雫は口を閉じた。確かにそうだ。後遺症の残るような怪我を負っていた可能性も否めない。
片岸の鋭い眼光が、雫に向けられる。
「わかっているのか?俺たちはお前を”炙り出し”に使ったんだ。須藤の尻尾をつかむために」
さっきよりも砕けた口調に、雫は正直ほっとした。こちらの方がずっといいと思った。
「それでも。私は、彼に引き合わせてくださったあなたたちに感謝しています」
炙り出しに使うのだとしても、雫では都合の悪い箇所が嫌になるほどあったに違いない。本当はもっと腕っ節が強くて、力のある大人がセツのバディになったほうが、彼らも動きやすかったはずだ。それでも二人は、セツの意志を尊重し、雫の力のなさを自分たちの労力でカバーする道を選んだ。
その選択がなければ、雫はセツと出会うこともなかった。
「謝罪の気持ちというなら、私の入院費を負担して頂いたことでもう充分です」
ところが、雫がそう言っても二人は釈然としない、という顔をしていた。
「だが、こちらに落ち度があったのは事実だ。今回の出来事の責任は俺にある。これは俺に対する貸しと考えていい」
「貸し……」
雫は呟いて、それから二人の顔をちらりと見た。
この人たちは自分の仕事に誇りを持っている。だからこその”償い”なのだ。それを理解して、雫は素直に頷いた。
「わかりました。貸しということにします」
その答えを聞いて、二人はやっと満足した様子で帰ってくれた。雫は、ふうと息をつく。目上の人に改まった謝罪をされるのは疲れるのだ。
ところが、そこへ片岸だけが戻ってきてひょいと病室に顔を覗かせた。雫はぎょっとしたが、どうにか平静を装う。
「どうかしました?何か忘れ物でも」
「ああ。言い忘れてた」
彼は珍しくうろうろと視線を動かしながら、大変言いづらそうに話を切り出した。
「言い訳と取られるのは不本意なんだが、まあ、言っておく」
「はい」
「こういうケースでは、本人よりも周囲の人間が狙われるなんてのは割とよく使われる手だ。最も可能性が高い道の一つとして扱われるべきなんだが、今回その可能性を比較的低いと判断して対応を薄くしたのは理由がある」
雫は数度瞬きをした。
理由。そんなの考えたこともなかった。だけど確かに、その辺には多少違和感があったかもしれない。
「今回は、渦中にいたのがセツだからだ」
片岸は、雫の目をまっすぐに見てそう言った。
「あいつは特殊な環境で育ったせいか、人より感覚がずれているところがある。端的に言うと、他人のことを自分の感情に関連させることができない」
彼の言葉は少しわかりづらかったが、雫にはなんとなくわかった。セツも自分で言っていたことだ。
『どうして自分のことじゃないのに怒ったり悲しそうな顔をしたりするの』と、彼は雫に言った。たぶんあれは、本気でわからなかったのだ。
「そんなあいつが、誰かのために感情を動かすとは、俺たちは考えていなかった。だが、須藤は違ったんだ。お前を傷つければ、セツが激怒するとわかっていた」
あの下衆野郎、そういうところは無駄に鋭いからな、と片岸は忌々しそうに吐き捨てた。本当に嫌いらしい。
「実際あいつは、必死でお前を追いかけて、守ろうとした。これはあいつを知っている奴からしたら、本当に珍しいことなんだ。つまり」
片岸と雫の視線が、ぱちんとかち合う。
「セツは相当お前に懐いているってことだ」
彼は、必要以上に堂々としてそう言った。話が予想外の結末に落ち着き、雫はぽかんと口を開ける。
セツが。懐いている。誰に。私に?
頭の中で文章の切れ端を繋いでみようとするけれど、それを信じるだけの根拠を、雫は持っていなかった。懐くなんて可愛いものかな、と思いながらも、雫はとりあえず「はあ」と曖昧な返事を返した。片岸の眉が、ぴくりと跳ね上がる。
「その顔はわかってないな?」
「すみません」
素直に謝った雫を見て、片岸は仕方なさそうにため息をついた。
「……とにかく、そういうわけだから」
ひらりと手を振って、彼は帰っていった。こんな言葉を残して。
「簡単に手綱を離してやるなよ」
一人きりになった病室で、雫は唇を引き結んだ。それから胸元で手を握りしめ、そっと誓う。
「……はい」
彼の手を離さない。何があっても、絶対に。
雫は、はたとして自分の左手を見た。
手で思い出した。あのとき。セツを連れて行こうとする須藤に立ち向かったとき、セツはずっと手を握っていてくれた。そうしたらいつのまにか、震えは収まっていた。
「ああ、そうか」
手を離さないって、こういうことなんだ。
今までふわふわとしていたイメージがしっかり固まって、雫は嬉しそうに微笑んだ。
「雫、入るよ」
そのとき、片岸たちと入れ違いにセツがやってきた。雫は慌てて表情を引き締め、彼と顔を合わせる。
「迎えにきた。荷物持つよ」
「あ、ありがと……」
「で、残念なお知らせ。錦さんが今日仕事入っててね、車出せないってさ」
セツは心配そうに雫を覗き込んで、大丈夫?歩ける?と聞いた。雫は、彼を安心させるように笑う。彼女の指先が、窓の外の青空をす、と指差した。
「こんないい天気なんだから、歩きたい」
雲ひとつない青い空を背にして笑う少女を見て、セツもつられて笑った。さっきまで降り続いていた雨は、いつのまにかやんでいる。
「……賛成。歩こうか」
セツは、お咎めなしというわけにはいかなかった。須藤たちに怪我をさせた事実は事実だから。今までのバディに対する暴力も、正当防衛ということが認められたとはいえ、帳消しにはできない。だが、情状酌量の余地はある、と亜人協会から判決を貰った。北行きはひとまず見送り。今後一ヶ月以内に目立った問題を起こさなければ、北行きの通達は取り消しらしい。
つまり、事態はちょっとだけ良くなった。それ以上でも、それ以下でもない。
「ごめん雫」
こちらでも謝られて、彼女は正直辟易してしまった。うん、と頷いて、話の続きを促す。
「今回の件で一番の貧乏くじは、雫だよね」
「……え、っと」
安易に否定はできなかった。明らかに一番ひどい怪我を負ったのは雫だ。撃ち抜かれた足は今も鎮痛剤を飲まないと痛むし、集中的に蹴られたお腹や背中も痛む。
「巻き込んだ。ごめん」
ぽつぽつと言葉になる感情は、彼の落ち込みや、後ろめたさ。後悔。悲しみ。隣を歩く彼は、やっぱり俯いていた。
「……お腹、痛いよね」
「え」
「わかるよ。庇いながら歩いてるの」
彼は深くため息をついて、首の後ろに手をやる。
「……今までは、俺しか狙われなかったから。雫が危険に晒されるなんて、かけらも考えなかった。でも、自分じゃなくて他の人間が怪我するのって」
しばらく言うのを躊躇ってから、セツは吐息まじりにその思いを吐露した。
「結構きついね」
彼は確かに、そう言った。雫は目を見開いて、それから微かに笑う。
「セツ、自分のことじゃないのに悲しくなるってそういうことだよ」
彼女が指摘すると、セツは虚を突かれた顔をした。今までわからなかったことがいつのまにかわかるようになっていたことに、彼も気がついたのだろう。きっとセツは、これからこんな風に学んでいくのだ。何度でも、いくらでも。
「……雫」
「うん」
「俺と一緒にいたら、これからもこういうことが起こるかもしれない。今度はこれ以上にひどいかも」
「うん」
「……それでも、俺のバディになる?」
探るような、青い目が。雫を覗き込む。不敵に笑い返して、彼女はきっぱりと言い切った。
「なるよ。私、あなたのことが気に入っちゃったんだもの」
手は離さない。簡単に離してなんかあげない。これからもっと、彼のことを知りたいと願うから。
「これからもよろしくね、セツ」
雫は病院の前で一度立ち止まり、セツに手を差し出す。彼はわずかに躊躇ってから、その手を握り返した。
「……うん。よろしく、雫」
雨上がりの青い空と、屈託のない彼女の笑顔。
二つがはっきりと彼の目に焼きつく。それはまるで、物語の新しい一ページを開いたときみたいに。
ここが、二人のスタート地点だった。
*
ねえセツ、今はまだこのセカイの嫌なところばっか目に付くかもしれない。でもね、上を向いて。あんたの目は空を見上げるためにあるの。
きれいなものを探して歩きなさい。
セツの育ての親は、彼にそんなことを言った。
その当時は、そんなの出来っこないと銀狼の少年は思っていた。確信と言ってもいい。とにかく、きれいなものなんて、汚いものに塗り潰されて、自分の目には一生映りはしないのだと。少年はなんとなく、そんな予感がしていた。そしてその予感はある意味では大当たりだったけど、概ねは大外れだった。
「細川、いい加減こっから出してくんない」
「駄目だアホ。また年下相手に本気で喧嘩しやがって、大人げない」
「それくらいで懲罰房一週間かよ。神経質すぎない?」
「もう一週間閉じ込められたいのか?」
額に青筋を浮かべた見張り役がついに拳を握ったのを見て、セツは大人しく黙った。黙ろうとした。だけど、数分後にはもう我慢できなくなっていた。
「ね、一回。一回だけ外に出してよ。もう限界。娑婆の空気が吸いたい」
「ああー、うるさいうるさい」
「一回だけ。一瞬。何もしないから」
結局、根負けしたのは細川のほうだった。
ああもう、ばれたらまた片岸さんにどやされる、とぼやきながらも、細川はかしゃん、と牢屋の扉を開けた。彼は真面目は真面目なのだが、管理所にいる亜人、つまり子どもには甘いきらいがあった。セツは上機嫌で、冷たい石の床を軽やかに蹴る。
世界は汚いものばかりだ。
育ての親の元を離れてこの国にやって来るまでの間、セツはずっとそれを思い知らされ続けていた。敵意を向けられて当たり前。危害を加えられて当たり前。守ってくれる人なんかいない。
今は須藤の監視下から逃れているが、あいつはこんなことくらいじゃ諦めない。どこにいても絶対に、ありとあらゆる方法を使って、亜人を追い詰める。そういう意味では、この管理所の中だって、安全だとは彼は考えていなかった。
だとしたら、この管理所から出ようが出まいが同じだ。
彼はそう思っていた。そして、ここから出たいと思っていた。怯えて安全地帯に隠れるなんて性に合わない。それに、もう逃げることには疲れてしまった。
誰にも言わなかったけれど、彼は須藤に大人しく殺されてやるつもりだったのだ。
「あれ……なんか聞こえる」
細川に連れられて、裸足のまま管理所の廊下を歩いていたセツは、その音を聞いて目を瞬いた。
「聞こえるって何がだ?」
「細川は聞こえないの?」
「人間と人狼の聴覚を一緒にするな」
細川が言い終わるのを待たずに、セツはとたとたと歩き始めていた。音が聞こえる方へ。背後に細川の慌てた声がかかるが、そんなの今の彼には関係なかった。
不思議な感覚だった。糸に引っ張られる感じ。自然と足が、そちらへ向いた。
音の正体は、歌だった。
星色の髪の少女が、中庭で子どもたちに囲まれて歌っている。澄んだ、きれいな声だった。歌う彼女は、楽しそうに笑っていた。
その光景を二階の廊下から見下ろして、セツは目を見開く。
「おい、セツ!勝手に行動するなと何回言えば……」
「ねえ細川、あの子誰?」
息を切らしながら追いついてきた細川へ、セツは食い気味に問いかける。細川は顔をしかめながらも、どれだ、と言って窓の外を覗き込んだ。
「あれ。あの子。星色の髪の」
「ああ、あの子か」
セツが指差した少女を見ると、細川はすぐに答えたくれた。
「何回かこの管理所に来てる女の子だよ。たぶんセツと同い年くらいだろう。名前は……なんだっけな」
なんとか少女の名前を思い出そうとしている細川の横で、セツはじっと少女を見ていた。そのきれいな声を聞いていた。
頭の中であの人の声が繰り返される。
きれいなものを探して歩きなさい、と言った、あの人。
最後くらい、言うことを聞いてやろうと思った。
「細川。俺、あの子とバディ組みたい」
「はぁ!?」
「連れてきてよ」
細川は、途端に渋い顔になった。セツだって、半分ほどは本気じゃなかった。だけど半分は、本気で言った。だから、お目付役を納得させようとして口を開いた。
「俺、あの子の命令なら聞いてもいいよ」
細川が、あんぐりと口を開けた。この人間嫌いな人狼が、誰かの言うことを聞こうとする姿勢を初めて見せたのだから、驚くのも当然だろう。
細川の反応を面白そうに見やり、セツは目を閉じて淀みなく流れる歌に耳を澄ませた。
あの声で名前を呼ばれるのは、どんな気持ちのするものだろう。
そんなことに、思いを馳せながら。
君は、潤む世界を消して
この目に空の色を映してくれた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。




