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第5話 文字

 屋敷で働き始めてから、さらに数日が過ぎた。


 エリオは少しずつ仕事を覚えていた。


 掃除。


 洗濯。


 配膳。


 まだ失敗は多い。


 けれど最初のころよりは役に立てている気がする。


「エリオ」


「はい」


「今日は図書室の掃除をお願い」


「わかりました」


 先輩の指示を受けて頭を下げる。


 図書室。


 聞いたことはある。


 本がたくさん置いてある部屋だ。


 ただ、入るのは初めてだった。





 扉の前に立つ。


 少しだけ緊張した。


 失礼にならないように静かに開ける。


「わあ……」


 思わず声が漏れた。


 本だらけだった。


 壁一面の棚。


 そこへ隙間なく本が並んでいる。


 机のうえにも本。


 窓際にも本。


 見たこともない量だった。


「すごい」


 誰もいない部屋で呟く。





 仕事を始めた。


 はたきで埃をおとす。


 棚を拭く。


 机を拭く。


 床を掃く。




 しばらく作業しているうちに、一冊の本が目に入った。


 分厚い。


 表紙には鳥の絵が描かれている。


 気になった。


 少しだけ。


 本当に少しだけ。


「ちょっと……」


 周囲を見回す。


「ちょっと、みるだけ……」


 誰もいない。




 エリオは本を開いた。


 中には絵があった。


 鳥が翼を広げている。


 綺麗だった。


「わぁー」


 ページをめくる。


 また絵がある。


 違う鳥だ。


 おもしろい。


 もっとみたい。


 だが、すぐに困った。


「よめない……」


 文字。


 たくさん書いてある。


 しかし意味がわからなかった。


 自分の名前くらいは覚えた。


 けれど、それだけだ。


 他はほとんど読めない。


 ――なんてかいてあるんだろう。とりの、なまえかな? すんでる、ばしょかな?


 気になる。


 とても気になる。


 なのに読めない。


 もどかしかった。


 その時だった。




 不意に胸の奥がざわつく。


 何かを思い出しそうになる。


 本。


 本棚。


 机。


 紙の匂い。


 静かな空間。


 ページをめくる感触。


 知らないことを知る楽しさ。


 もっと読みたい。


 もっと知りたい。


 そんな感覚だけが頭をよぎった。




「……?」


 エリオは首を傾げた。


 ――いまの、なに?


 けれど、本を見ていると不思議と楽しい。


 読めないのに楽しい。


 だから余計に読みたくなった。




 その時。


「エリオ?」


 後ろから声がした。


「ひゃっ」


 慌てて振り向く。


 そこにいたのはクラリスだった。


「あら、ごめんなさい。驚かせたかしら」


「だ、だいじょうぶです」


 エリオは慌てて本を閉じる。


「もうしわけありません」


「何が?」


「しごとちゅうに、ほんをみていました」


 ――おこられるかな。


 クラリスは怒らなかった。


 むしろ少し不思議そうな顔をした。


「本が好きなの?」


「すき、かもしれません」


「かもしれない?」


「はい。よめないので」


 クラリスが小さく笑う。


「それは困ったわね」


「はい」


 読めたら楽しい気がするのに。


 読めない。


 それが残念だった。




 クラリスは近くの椅子へ腰掛けた。


「何を調べたかったの?」


 エリオは少し考えた。


 隠す必要はない。


 クラリスは秘密を守ると言ってくれた。


 だから答える。


「おちんちんです」


 クラリスの動きが止まった。


「……そう」


「はい」


 エリオは真面目に頷く。


「どうしたら、はえるか、かいてあると、おもったんです」


「本に?」


「はい」


 本には知らないことがたくさん書いてあるはずだ。


 もしかしたら。


 本当にもしかしたら。


 答えがあるかもしれない。




「ゆめでみたんです」


「夢?」


「おとなのボクです」


 クラリスは黙って聞いている。


「そのひとにはありました」


 自分にはないもの。


 ずっと欲しかったもの。


「だから、つくれると、おもうんです」


 クラリスは少しだけ目を伏せた。


 馬鹿にされると思った。


 でも違った。


「作りたいの?」


「はい」


 諦める理由がわからない。


 むずかしいとは思う。


 けれど。


 だからといって。


 諦める理由にはならなかった。


「本当に知りたいなら、この屋敷の本では足りないかもしれないわね」


「そうなんですか?」


「医学書は、ここにほとんどないの」


「いがくしょ……」


「そうね……ここよりもっと大きな図書館があるの」


 エリオの目が輝いた。


「いっぱい、ほんが、あるんですか?」


「ええ」


「どこに?」


「王都よ」


 王都。


 聞いたことはある。


 遠い場所だ。


「そこには国立図書館があるの」


「こくりつとしょかん」


「この部屋とは比べものにならないくらい本があるわ」


「みてみたいです」


 思わず言った。


 本がどれだけあるのか想像もできない。


 きっとすごい。


 絶対にすごい。




「でもね……遠いわ」


 クラリスがつづける。


「旅費も必要だし、泊まる場所も必要」


 エリオは固まった。


 旅費。


 お金。


 その言葉は知っている。


 そして自分がお金をもっていないことも知っている。


「……あ」


 気づいた。


 王都へ行けない。


 今の自分では。


 給金は家へ送られている。


 自分の自由になるお金はない。


「おかね、ないです」


「そうね」


 エリオは本を見た。


 読めない。


 王都にも行けない。


 急に遠く感じた。


 ――どうしよう……。





 しばらく考える。


 考える。


 考える。




 やがて答えが出た。


 まず、ひとつずつだ。


 いつもそうしてきた。


 最初から上手には作れない。


 木を削るときも同じだった。


 一歩ずつ。


 少しずつ。


「クラリスさん」


「なあに?」


「もじを、おしえてください」


 クラリスは目を丸くした。


「私に?」


「はい」


 まず読めるようになりたい。


 王都はその後だ。


 本が読めなければ、図書館へ行っても意味がない。


「おねがいします」


 頭を下げる。


 しばらく沈黙がつづいた。





 やがてクラリスは困ったように笑う。


「正式に教えるのは……むずかしいわね」


 エリオの肩が少し下がった。


 ――やっぱり、だめか。


 仕方ない。


 他の方法を探そう。


 そう思った。


 だが次の言葉で顔を上げる。


「でも、聞いているだけなら構わないわ」


「きく?」


「領主様のご子息、レイモンド様に勉強を教えているのね」


 あの不機嫌そうな男の子だ。


「その授業を聞くのは自由にしてあげる」


 エリオは胸が熱くなる。


「ほんとうですか?」


「本当」


「ありがとうございます!」


 思わず声が弾む。


 クラリスが笑った。


「そんなに嬉しい?」


「はい!」


 文字が読めるようになるかもしれない。


 本が読めるようになるかもしれない。


 それはとても良いことだろう。


 国立図書館へ行くのは遠い未来かもしれない。


 でも。


 文字を覚えることなら今から始められる。


 エリオは閉じられた本へ手を伸ばした。


 いつか読めるようになる。


 そう思うと肩が軽くなる。


 きっと読める。


 それが今は何より楽しみだった。


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