第4話 秘密
屋敷で働き始めてから数日が過ぎた。
エリオは今日も朝から廊下を磨いていた。
布を動かす。
床が少しずつ光る。
最初は失敗ばかりだった。
けれど最近は、叱られる回数も減ってきている。
「そこ、拭き残しがあるわよ」
「あ、ほんとだ」
年上のメイドに指摘される。
エリオは慌てて戻った。
「ありがとうございます」
そう言って磨きなおす。
するとメイドは少し変な顔をした。
だが何も言わず立ち去っていく。
エリオは首を傾げた。
――なんでだろう。
最近、そんなことが多い。
若いメイドたちの目が、いつも少し冷たい。
挨拶をしても、返事がないことがある。
話しかけても、嫌そうな顔をされることもあった。
理由はわからない。
――ボクがまだ、みならいだから。ごさいだし、せもひくいし……。
なら嫌われても仕方ない。
――もっと、がんばろう。
「エリオ」
「はい」
「洗濯物を運んで」
「わかりました」
大きな籠を渡される。
かなり重い。
だが、もてないほどではない。
両腕で抱えながら歩き出した。
途中で若いメイドたちの話し声が聞こえた。
「ほんと可愛い顔よね」
「新入りのくせに」
「旦那様のお気に入りなんじゃない?」
「ありえる」
くすくすと笑い声がする。
エリオは少し嬉しくなった。
――かわいいって。りょうしゅさまの、いうとおりだ。
ただ、そのあと何を言っているのかはよくわからなかった。
『旦那様のお気に入り』
それは良いことなのだろうか。
偉い人に気に入られるのは悪いことではなさそうだった。
そんなことを考えながら洗濯場へ向かう。
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夜。
仕事が終わる。
与えられた小さな部屋へ戻ると、エリオは真っ先に机へ向かった。
引き出しを開ける。
中から木片を取り出した。
庭師のおじさんにもらった枝だ。
「きょうは、ここかな」
小刀を握る。
削る。
少し削る。
眺める。
また削る。
昼間の疲れは不思議と気にならなかった。
木を削っている時だけは時間を忘れる。
夢で見た形。
あの大人にあったもの。
思い出すたび胸が熱くなる。
「うーん……」
完成には遠い。
けれど前より良くなっている。
気づかなかった細かな違いも、わかるようになってきた。
「もっとうまくなれるかも」
自然と笑みが浮かんだ。
作りつづければ近づける。
根拠はない。
やがて眠気がやってくる。
エリオは木片を箱へ戻した。
「おやすみ」
誰に言うでもなく呟く。
――あしたも、がんばろう。
そう思いながら布団へ潜り込んだ。
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それからさらに数日後。
エリオは洗濯場で働いていた。
洗い終わった布を運ぶ。
干す。
畳む。
繰り返しだ。
すると背後で誰かが声を上げた。
「あっ」
次の瞬間。
冷たい液体が頭から降ってきた。
「うわっ!?」
全身がびしょ濡れになる。
服から黒い水が滴った。
――くさい。
汚れた洗濯水だった。
「ご、ごめんなさい!」
若いメイドが慌てて駆け寄ってくる。
「手が滑っちゃって!」
「大丈夫?」
「怪我してない?」
周囲のメイドたちも集まってきた。
みんな心配そうな顔をしている。
けれど、なぜだろう。
少しだけ違和感があった。
誰かが笑った気がした。
本当に一瞬だった。
「へいきです」
エリオは服を絞った。
黒い水がぽたぽた落ちる。
かなり汚れている。
「着替えてきなさい」
「はい」
頷く。
歩きながら考える。
――いまの、わざとだったのかな。
でも。
「ボクがもっと、しごとができたら……」
ぽつりと呟く。
嫌われる理由があるなら、それは自分だろう。
そう考えるほうが自然だった。
だから怒りは湧かなかった。
――もっと、がんばろう。
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使用人用の洗い場へ入る。
誰もいない。
濡れた服を脱ぐ。
冷たい。
「うぅ……」
乾いた布で体を拭く。
すると扉が開いた。
「あら?」
女性の声だった。
エリオは振り向く。
そこにいたのは、以前お茶を運んだ部屋で見た女性だった。
優しそうな人。
確か、領主の息子の勉強を見ている人だ。
「こんにちは」
エリオは軽く頭を下げた。
女性は返事をしなかった。
その代わり、目を大きく見開いている。
――あいさつ、まちがえたかな?
「……え?」
女性が固まる。
視線はエリオの顔ではなく、その少し下に向いていた。
そして。
「あなた……男の子なの? 女の子なの?」
「男だよ?」
エリオは素直に答えた。
女性は絶句した。
しばらく何も言わない。
まるで信じられないものを見ているようだった。
「りょうしゅさまも、しってる」
「……そう」
女性は額へ手を当てた。
目が泳いでいる。
――どうしたんだろう?
やがて静かに尋ねる。
「他には誰が知っているの?」
「トビアスさん」
「それだけ?」
「はい」
女性は黙った。
その沈黙が少し長かった。
エリオには理由がわからない。
「あ!」
「どうしたの?」
「ひみつにしろって、いわれてた」
――りょうしゅさまに、おこられるかな。
「そう……」
女性の表情が曇る。
「嫌じゃないの?」
「なにが?」
「女の子として扱われること」
エリオは少し考えた。
「りょうしゅさまは、よろこんでたよ」
女性はまた黙る。
今度は少し悲しそうだった。
「あなた、エリオだったかしら?」
「はい」
「私はクラリスよ」
柔らかな声だった。
初めて名前を知った。
「クラリスさん」
「ええ」
クラリスはしゃがみ込む。
目線を合わせた。
「安心して」
「?」
「私は誰にも言わないわ」
エリオは瞬きをした。
「ほんと?」
「本当」
「ありがとう」
自然と笑顔になる。
――りょうしゅさまに、おこられない。
クラリスは少しだけ目を伏せる。
そして静かに尋ねた。
「どうしてこんなに汚れているの?」
「せんたくのみずが、かっちゃって」
「あらまあ、転んだのかしら」
「たぶん……かけられたとおもう」
「かけられた?」
クラリスの眉がぴくりと動く。
「ボクがもっと、しごとができたら、きらわれなかったとおもう」
クラリスは何も言わなかった。
ただ、じっとエリオを見ている。
その目は少しだけ苦しそうだった。
「だからがんばるよ」
エリオは笑う。
「まだおぼえること、いっぱいあるし」
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扉が閉まった。
クラリスはその場に立ったまま、しばらく動けなかった。
彼女には五歳の息子がいる。
トーマという。
同じ五歳だ。
だからこそ比べてしまう。
もしトーマが汚水をかけられたら。
もしトーマが男であることを隠されながら働かされていたら。
もしトーマが親元を離れ、ひとりで暮らしていたら。
胸が痛んだ。
エリオは笑っていた。
嫌なことがあっても怒らない。
悲しそうにも見えない。
けれど、それが余計に痛々しかった。
「まったく……」
クラリスは小さく息を吐く。
「どうして平気そうな顔をするのかしら」
彼女は決めた。
少しだけ気にかけよう、と。
息子と同じ年のその子を。
誰にも頼らず頑張りつづける、その小さな背中を。




